War of the Lostman’s


*****


「国なし♪ 国なし♪ キャンキャン吼えろ♪」

「お前の父ちゃんやっくたったず立たず♪」


 はやし歌を歌う二人の子供に追い立てられて、子供が一人、言い返せもせず早足に歩いていた。

 後ろを行く二人の子に比べて、その子は継ぎのあたったボロをまとって、えりは黒く汚れ、ひどくほつれていた。

 汚れてうねった髪にはフケが浮き、その顔は年端もいかない子供とは思えないほどにやつれ果て、あまりにも残酷な諦めの表情を浮かべていた。


「おい、お前の父さんって何で死んだの? 矢? それとも魔法?」

「違う違う、きっと食われたんだって!」

「うえっ……俺、やだなーその死に方……」


 心無いそしりの言葉は全て聴こえているのに、彼は何も言い返せない。

 父が死んだ事も。

 ――――もう、“国”が無いという事も、何も間違ってはいなかったから。

言い返す気力も、殴りかかる気力もないのは、その傷が癒えておらず……癒えたとしても、こうしてまた広げられるからだ。


「国なし♪ 国なし♪ お前の――――」


追われる一人と、追い立てる二人の悪童。

 やがて、建物の隙間を横切った時――――間を裂くように木桶が飛び出してきて、通りの向かい側にある建物のガラス窓へぶち当たり、粉々に砕いてしまう。


「ひっ!?」

「……おい、クソガキ。アタシに言ってんのか? 誰の国がねぇって?」


 一人の女が、建物の隙間からぬっと現れる。

 ザンバラの赤髪はまばらに目にかかり、黒革の全身をぴったりと覆う装束からは肢体の豊満さが見て取れる。

 整った顔だがその表情は悪辣、目が吊り上がった憤怒の形相をしており、荒れて皮の剥けた唇には安物のパイプをくわえて、唇の端から魔界の瘴気しょうきのように煙を吐き出していた。

 子供達はおろか、通りがかった大人たちまでも息を呑むような殺気に満ちた気配は、およそ女の……人間の生み出すものではない。

 今にも人を手にかけそうな危うさのまま、悪趣味な囃し歌を歌っていた二人の子供へ気を吐いた。


「聞こえねぇのか! 誰に言ってんだ、クソガキ、あァ!? ブッ殺すぞゴラァ!」

「うあっ……!!」

「ち、違……お、お姉さんに……言ったんじゃ……」

「じゃあ誰だ? アタシじゃなきゃ言うのか!? ……国がもうねェのは誰のせいだ!?」

「あ、あの……その……」


 大通りに響き渡る腹の底からの怒声は、大人たちを釘付けにし――――衛兵達が割って入る機会すら、与えてくれなかった。

 たった一人進み出た男を、除いて。


「ジーラ! 子供だぞ! 何のつもりだ、いいかげんにしろ!」

「……っち。教育的指導だよ、ファルラン。邪魔すんじゃねぇよ、さん」

「見過ごせないな。お前ら、さっさとまっすぐ家に帰るんだ。早く。……早く!」


 進み出た――――ファルランと呼ばれた男は、彼女とほぼ同じ造りの革の装束だが、首には小隊長を示す青のマフラーが巻かれていた。

 さっぱりと刈り込んだ清潔な短髪、彫りの浅く優しげな顔、そして常識的な態度を見て足を止めていた大人たちは胸を撫で下ろし、怒鳴りつけられていた子供二人も、結果的には助けられた子供も、脱兎のごとく逃げ帰っていく。

 通りを包む時の流れが戻ったと同時に、赤髪の女、ジーラへ続けて説教が始まった。


「……隊長と呼べといったはずだ、ジーラ」

「今は非番だろ、ファルラン? それともアタシにたいのか? リーダーづらは戦場でだけやってろ、忠犬さんよ」

「街の治安を乱すなと言っているんだ、狂犬」

「あっは、いーいヒビキだねぇ。いいねぇ、狂犬。どいつもこいつも噛み殺してやるよ。アタシをイラつかせる奴は全部だ」


 ぷかっ、と煙を吐きかけられ、ファルランは拳を硬く握り締めながら、表情は保ったままで粘り強く言葉を続けた。


「……ジーラ。お前は何がそんなに気に入らない」

「気に入る事なんかありゃしねぇのさ。逆にてめぇは? 何が楽しいんだい?」

「人生に楽しさを求める気など今はない。当たり散らすつもりもな。さっさと、宿舎に戻って頭を冷やせ!」

「あんな隙間だらけの廃城はいじょうを宿舎って呼ぶのか!? よそ者扱いなんだよ! アタシらは、所詮な!」


 吐き捨て、パイプに詰まった燃えさしの葉を二、三度叩いて落とすと、それを荒々しく踏み消して大股で雑踏へ消える。

 先からのやり取りをずっと見ていた者達は彼女へ大げさに道を譲り、真っ二つに人通りが割れていった。


「――――ジーラめ……」


 残ったファルランは周囲へ何度か頭を下げると、彼女の後を追う。

 二人、とくにジーラを恐れたその中で、最初の――――囃したてられていた子供だけが、最後まで見守り、見送った。


 その子供も、ジーラも、ファルランも同じ。

 ――――もはや存在しない国の、“遺民いみん”だった。


*****


 魔王が降臨した時、まずその地にあったはずの小国が沼地に沈み、時空の裂け目に消えて世界から隔絶した。

 侵攻に従って世界はじわじわと食い荒らされ、いくつもの国と街とが滅びてしまった。

 ある国はアンデッドのうろつく死都ネクロポリスに変わり、ある国はくり抜かれたように消え、ある国は――――“食糧庫”に変わった。

 人間のみならず亜人種も同様で、森を追われ、もしくは森と運命を共にしたエルフ達。

 カビのように繁殖する魔の森に鉱山を追われたドワーフ、突如現れた“四天王”に滅ぼされた、独立を保っていた獣人の楽園。

 過去の戦争が全てそうであるように、戦争は人々からささやかな“居場所”すら奪っていった。

 戦火を逃れた者、戦地へ出ている間に故郷が焼けていた者、隣国へ使節として出された直後に国へと魔軍が押し寄せた者。

 そうして帰る場所がなくなってしまった者は、この世界にはもう珍しくない。


 西の王国領が彼らの漂着する地となったのは、驚くべき事ではなかった。

 “魔王”にすら食い下がってみせる国力を保つ唯一の大国だが、無尽蔵に現れる魔王の軍団にはそれでも旗色が悪い。

 北方王国と盟を結び、東方の騎馬民族とも連携し、広く徴兵を募っても――――相手が悪く、さらには停戦の打診すらもできはしない。

 “魔王”に話が通じるはずもない。戦い続けるしか、ないのだ。

やがて王国は遺民達、もう存在しない国の出身者を集めて軍へと組み込むに至った。

 それが西の王国の遺民部隊の始まりとなった。


 分隊の指揮をとるのは、亡国の下士官級兵士。その下で戦うのは、亡国の兵士もしくは志願兵。

 彼らを束ねる小隊指揮官もまた亡国の指揮官経験者。

 遺民の部隊を突き動かすのは、士気ではない。

 ――――“復讐心”だ。


 “火酒ひざけのジーラ”は、その典型と言える女魔導士だった。

 眠る時ですら殺気を押し隠せなくなる以前、彼女は勝気ではあってもこうまで好戦的な人間ではなかった。

 面倒見の良い姐御肌あねごはだで気風も良く、激情に駆られる事は珍しくなくとも、魔導を修める者としての理性、落ち着きはいつも備えていた。


 彼女が理性を捨てたのは、焼け落ちる母国の姿を見た時だった。

 街路を行き交う魔物、殺戮される旧知の者達、つい先日言葉を交わしたばかりのパン屋の女将の焼け焦げた死体、炎の中から現れる巨躯の魔人達。

 いたいけな幼子まで手にかけられるのを見た時――――彼女の中で何かがぷつりと弾け飛び、気付けば街を逃れる“遺民達”の殿しんがりで全身を煤と血脂で彩り、肩を抱かれながら歩いていた。


 それきり――――彼女はもう、本来の陽性の人格を失ってしまった。


 称号はいつしか、“狂犬ジーラ”へと、変わっていた。


*****


 朽ちた廃城の監視塔の上で、ジーラはひとり紫煙しえんくゆらせていた。

 眼下にある中庭では火が焚かれ、陽気な歌と盃を酌み交わす音が立っているが――――彼女の耳には、まるで入らない。

 その笑い声に対して大人げない苛立ちを覚えてつい石床の間から生えた雑草をブチブチとむしり取り、パイプを噛み締めるも――――荒々しく吸い込んだ煙はいがらっぽく、喉に刺さる。

 しかしジーラはその反射反応すらも怒気で抑えこみ、意地でも咽返むせかえるまいと顔をしかめ、目に涙を滲ませながら噛み殺す。

 

「ここにいたか、ジーラ」

「――――いちゃ悪いかよ、ファルラン。アタシの許可なく視界に入るんじゃねェよ。……ンの用だ、コラ」


 階段を上がって訪れた隊長のファルランへ向ける視線は、鋭い。

 足を投げ出して座るジーラの前に進み出て、臆さないのは彼ぐらいのものだった。

 ただ振り撒くばかりでなく、始末の悪い事に――――彼女はその殺意に、行動を必ず伴わせる。

 殺すと決めた時にはすでに行動に移す、危険な短慮はかつての彼女にないものの一つだ。

 そして、それを抑えこみ扱えるのも、ファルランただ一人。


「正式な命令はまだだが、お前にだけは伝えて置こうと思う。恐らく明朝には下るだろう」

「あ?」

「俺達は、敵支配地域へ向かう。目的は味方部隊の救出だ。完全なる包囲下にあり、一刻も早く向かわねばならん」

「……何が味方だ。“王国人の部隊”だろ? アタシにとっちゃ敵だったさ」

「今は違う。そろそろ敵と味方の括りを書き換えたらどうだ、ジーラ」

「うぜぇな! そうそう簡単に乗せ換えられるモンじゃねェんだ!」


 かつて、彼女の国は王国の軍門に下らなかった。

 最盛期の騎馬民族シャン=ツァンと西王国の戦の最中にも、頑として王国に立ち向かい、停戦を挟みはしても属国にはならなかった。

 それこそ、今のジーラのような――――苛烈な軍事力を持った国だった。


「……ファルラン。てめぇこそどうしてそう割り切れんだよ。てめぇの国なんてもっと悪いだろが、王国に見捨てられて。……感情ってモンがねえのか?」

「今は感情より優先すべきものがある。……カン違いするな、ジーラ。お前の敵は王国人じゃない。魔王だ」

「わぁってんだよ、ンなこたぁ!」


 ばつの悪い間をごまかすように、パイプの吸い口に溜まった水分を落としているとファルランは続けた。


「もう一度言うが、目的地は敵支配地域のど真ん中だ。包囲を抜けて、味方部隊を救出する。迎えの部隊に引き渡すまでが俺達の仕事だ」

「……どうやって行くんだよ? え? 。ひとつ、アタシめに教えてはくれませんかねェ?」

「転移」

「はぁ?」

「転移術を使うそうだ。俺とお前を含めた二十人ほどが限度だがな」

「わかんねぇ。そうまでする理由は? 何がいるって? アタシら捨て駒を送り込むだけならともかく、そのために二十人も転移させるなんてフツーじゃない。何かあるんだろ?」


 数ある魔法の中でも、遠く離れた遠隔地へ転移する魔法は習得難度が高く、使える者はそう多く無い。

 魔力の消費も大きく多発できるものでもない

 それを二十人分も唱えるからには――――相応の理由があるのは想像に難く無かった。


「それは俺の口からは言えん。……知らされていないし、知らされていても口止めされるだろうからな、恐らくは」

「……くっだらねェな、おい」

「それが“命令”というものだ。自分の目で確かめるんだな」


 個人の意思を押し潰す単語を、黙って飲み込むジーラの目はいつしか夜空に向いていた。


 もう二度と望めない故郷の空と同じ星々が輝く――――その空がなおジーラには腹立たしかった。

 “お前の故郷で見た星空など、いくらでも代わりがあるぞ”とでも――――見せつけられているようで。

 せめてもと引っかける反吐へどのような、吐き出した煙が溶けて広がっていく。


「――――もう寝ろ、ジーラ。体を冷やすなよ」

「冷えてみてぇもんだよ、ファルラン。……冷えた事なんかありゃしねぇ」

「“隊長”と呼べ」

「うるせぇよ、ボケ。さっさと消えな」



*****


 翌朝、ファルランの伝えた通り、正式な命令が下された。

 場所は、魔王に支配されてしまった地域の真っただ中。

 その一点に取り残された村の中で、王国軍の生き残りが籠城を続けていると言う。

 そのために召集された遺民部隊からは選抜されて二十人。

 隊長を務めるファルランをはじめ、精鋭ばかりでその中には“狂犬ジーラ”も含まれた。

 その人選を聞いて、彼女を除いて皆が気付いた。

 問題児と名高いジーラをそれでも送り込むという事は、“行儀の良さ”が求められる任務ではない。

 相応の反撃を覚悟して赴かなければいけない死地だと。


 昼頃になり――――王国軍の転移術士が二人、派遣されてきた。

 時間にして十数分の詠唱の後。

 彼ら、行く場所も帰る場所も、守る場所もない者達は――――二十条の光の矢となり、はるか彼方へと送られた。



*****


 光の矢は空中でバラけて――――恐ろしく大まかな座標へ向けて突き立ち、それぞれの光が再び人の姿を取り戻す。

 そのほとんどは目標地点の“村”から逸れて、ある者は川の中州へ、林へ、丘の上へ――――流されて“光臨”した。


「う、げっ……! 畜生、やっぱキライだ……転移なんざ……!」

「ああ全くだね、ジズ。……って、おい……! 構えやがれ!」

「は? っ……何だ、ふざけ……!」


 魔導士ジーラと、双剣兵ジズは幸運にも背中合わせに現れた。

 しかし、それは――――とびきりの不運の中でだ。


 もうすでに、降り立った時点で、囲まれていた。

 取り囲むのはゴブリン、魔狼ワーグ、無数の針をまとうトカゲ――――宮廷魔術師ベアトリスによって付けられた名は、“ニーズヘッグ”。

 魔物達は皆、突然の闖入者ちんにゅうしゃに驚いていたが、やがて自らのすべきことを思い出したか、弾かれたように一斉に動いた。


「……畜生めバーク!」


 ジーラが放つエルフ語の悪態の後、ジズは腰部から双刀を抜く。

 前傾した頭でっかちの刃を持つ、重い斬撃を繰り出すための刀――――“ククリ”と言う。

 続けて、彼は視線を走らせ、すぐ近くに見える村の灯りを探した。

 走れば、数分。

 だがそれは――――今この状況に於いては、永遠と評せる距離だった。


「っ走れ、ジーラ! この数相手じゃ応戦できない! 俺が切り開く! お前は――――」

「任せとけ!」


 村の方角へ向けて駆け出すと同時にジズの繰り出した斬撃でゴブリン二体の首が落ち、ワーグの頭蓋を叩き割る。

 すぐさまジーラがそれを追い、残りの魔物が更に追う。だが――――


「アタシのケツをタダ見すんじゃねぇ、クソ雑魚がぁっ!!」


 振り払った手は炎を生み出し、獰猛にまとわりつく火に焼かれて魔物達がのたうち回る。

 それはまさしく、狂犬が食らいつき、身を翻しながら幾度も噛みつくかのような――――決して離れない、紅蓮の炎。

 水に飛び込んでも決してジーラの生み出す魔法の炎は消えない。

 彼女の憎悪が生み出した――――“地獄の炎”だ。


 続けて、ジズは目の前の魔物を片っ端から斬りつけ、ジーラは追いすがる魔物を焼き、炎の軌跡を残しながら――――村へと駆ける。

 段々と近づいて見れば、その村はほぼ要塞化されており――――入り口には、イビツな門まで築かれ、屋根の上には弓兵の姿も見えた。

 炎を撒き散らしながら近づく味方の姿をようやく認めてか、援護の矢も飛んでくる。


「うあっ! ……クソ、痛ェんだよ、クソチビがぁ! テメェらなんぞ穴グラに籠もってうすら汚ェモンを――――」


 ゴブリンが苦し紛れに投じた短剣が腕にかすり、ジーラは女の口から発してはいけない罵声を叫びながら、更に炎を生み出しながら走る。

 村の入り口に開かれた門は、少しずつ、少しずつ開いて、ようやく人が一人通れる程度まで開いた。


ジズがやがて後ろを振り向くと、そこにはジーラの真後ろに迫るワーグの姿がある。

おおまかに狼に似てはいても、まるで違う――卵生の猛獣。

足を止めたジズが左手のククリを投じてワーグの頭を貫き、ジーラを支援する。


「早く飛び込め、ジーラ! 早く――――がはッ!」

「ジズ!? おい、てめェ……!」


 ジーラが彼を追い越し、村のゲートに身を飛びこませかけると――――ニーズヘッグの放った針が彼の胴体に三本突き立ち、残りはジーラの頬をかすめながら、村の入り口に築かれたバリケードへ刺さる。

 助けに行こう――――とジーラが体を覗かせた瞬間、ジズの首筋に、太腿に、ワーグの牙とゴブリンの斧が次々と食い込み、鮮血が舞った。


「ぐああぁぁぁっ! ……じ、ジーラ……! 構うな! 俺ごとやれ、やるんだ! 早く!」

「ジズッ……! くそ、……クソォォォアアァァァァァッ!!」


 放った火炎は、獄炎の波と化して――――“仲間”ごと、魔物達を灰へ変えた。

 そして、無慈悲に門は閉じる。


 やがて、門に身を預けていたジーラは村の中に目をやる。

 取り出して銜えたパイプに火を投じる事も忘れてそこにいる人数を数えた。

 黒革の装束に身を包む者は――――全員、揃っていない。

 不安げな表情の村人が、五人。

 兵士の装備を身に着けた者、十人足らず。

 足手まといにしかならない子供――――三人。

 その中から、見慣れた顔が姿を見せる。


「ファルラン……!」

「点呼を取る! 状況は!?」

「チャーチとロクスタンは死んだ。ミラも、グリフもだ!」

「……ジズも……今、死んだよ。アタシが殺した」

「……そうか」


 困憊していたはずのジーラが激高して立ち上がり、ファルランに詰め寄り、胸倉を掴んだ。


「“そうか”、じゃねェんだよ! 五人も死んじまったぞ! どうすんだ、エェ!? ファルラン! 何が転移法術だ!? こんなん――――捨て駒じゃねェかよ!」

「……だが、全員が近辺に下りた。転移術自体は失敗していない」

「ん、だとッ!」


 ぐっ、と握り締めた拳に炎が灯ったのを見て、遺民部隊の二人が後ろから彼女に組みつき、抑えこもうと試みた。


「離せ、離しやがれ! ……ふざけんな、ファルラン! この……が! したり顔してんじゃねぇ、てめェ! こっち向けボケが!」

「……ジーラ。思い出せ。俺たちには……」


 ファルランは、ジーラの顔をじっと覗き込んで、抵抗もしないまま続ける。

 自分たちの状況を示す……身も蓋もない、一言で。


「俺たちには、もう売る国すら無い」


 その一言のせいでジーラの力は抜け、掴みかかる手は緩み、拳に生じた炎も消えた。

 ファルランはゆっくりと彼女の手を押しのけると、村内にいる生き残った者達へ次々と指示を送る。


「……フリック、ヤク、ネルは村内を見回れ。チャーチ……はいないんだな。フェイ、ミレイド、負傷者に手当てを行え。ネーケルとレニーは……」


 やり場なく渦巻く怒りに水を差されたジーラは、ひとまず、ゴタゴタの中で落ちたパイプを探した。

 彼女に、指示は与えられない。


「使えねぇ民間人とくたばり損ないの王国軍。……アタシら二十人より少ねぇでやんの。……違うか。“くたばり損ない”は、アタシらの方か」


 弱々しくやつれた村人の顔を見て、擦り切れた胸甲を身に着けた兵士の姿を見て、座り込みながらジーラはパイプの火皿に火花を投じた。


 そのパイプは、彼女にとって唯一の“故郷”を偲べる品だ。

 市場で見つけた安物の品だが、ボウル部分に彫り込まれていた睡蓮すいれんの細工が気に入って、一目惚れで手に取った。

 だが、今はもう――――そこにあったはずの、睡蓮は見えない。

 銜えて煙を吸い込むだけにしか使っていないから、ボウルの向こうに彫ってあるそれを眺める時間は、故郷とともに焼き尽されてしまった。


 いつもと同じ葉を吸う、その日の一服は――――いつもと変わらず、彼女にはとびきり不味かった。



*****


 村にはもう、水も食料も無ければ、ろくな武具も無い。

 家財道具や死んだ仲間の鎧を剥がして村を要塞化するのが精一杯で、救援を要請した魔導士ももうたおれた。

 兵士達は――――二日前から何も食べておらず、水も今朝飲み干してしまって井戸はれたと村民は語る。


「なるほど。……時を待てば待つほど事態は悪化する。皆の体力が残っているうちにさっさと脱出するぞ」

「……どうやって? 見ただろう、この村は囲まれてんだぞ、隊長!」

「脱出路はあると聞いている。どうなんだ?」

「あ、あぁ……」


 進み出た兵士の一人が話す。


「食糧庫の地下に、隧道ずいどうがあります。それを使えば、村の南へ抜けられるかと」

「……何故使わなかったのだ?」

「それが……魔物が多すぎて、出口で囲まれる恐れがあったんだ。俺達の戦力では突破はできないと判断した。だが……」

「今なら、いける、と? 道案内はできるのか?」

「ああ、それなら見取り図がある。昨日、動ける奴らで中を少し見てきたが……魔物の気配はない」

「よし、他に手はない。装備をまとめろ。必要ないものは全て置いて行け」

「い、今から……ですか?」

「当然だ。……ここまで抜けられるのなら、かなり距離は稼げる。後は……脱出地点が確保できるかどうかだな。日が沈む前に帰れる事を祈ろう」


 その間にも、脱出の準備は進む。

 到着してから、数十分ほどしか経ってはいない。

 村人の生き残りはほとんど身ひとつのまま食糧庫前へ集まり、不安げに兵士達と、言葉を交わす黒衣の不吉な兵士達とを見つめた。


「……ねえさん。ファルラン隊長を、見損ないましたか?」

「ヤク。テメェこそ……アタシを見損なうか?」


 チラチラと兵士達を窺う村人達に視線を返し、圧していると……間近に一人の戦友が立った。

 小柄な体と、右のこめかみから片一本かたいっぽんだけ生えた枝角を持つ青年は――――ジーラの同郷、今はなき公国の遺民の一人だ。

 “食われる側”の獣人だけが持つ鋭敏な知覚と、修めた幻術の応用による生命感知、霊体探知による偵察任務を請け負う、遺民部隊の斥候兵せっこうへいを務めている一人でもある。


「まさか。……でも姐さん、分かってやってくださいね。何せ、ファルラン隊長の故郷だって……」

「なあ、ヤク。アタシらは一体何のために今は生きてんだ?」

「……難しいですねぃ」

「アタシらにもう守るモンなんかない。帰る場所もなきゃ、居場所もない。それでもアタシらがこうしてんのは――――何を期待しての事なんだ? ……もう、考えるのもヤメちまったはずなんだよ。なのに、何で今さら……!」

「その答えを持ってなきゃ、生きてちゃダメって事ないでしょうよ。探すためにとりあえず生きてますよ、オレは。……そういうのが見つかるのは多分、死んだ時なんです」

「ジズはどうだったんだろうな」

「……ジズの奴は、姐さんを怨んでそうでしたか?」

「……さァな。怨まれても……いいよ」

「まーた後ろ向き……。お、どーやら出発みたいですね。それじゃ、姐さん。さっさと、こんなトコからずらかりましょうや」


 兵士達がなけなしの装備を整え、崩れた家から掘り出したナイフまでもベルトに差して戦闘に備える。

 十人足らずの村人はほとんど着の身着のままで、心細い様子で身を寄せ合う。

 そして黒衣の十五人――――隊長ファルラン以下、不吉な黒い革装束の者達は唯一、意気を放っていた。


 出発前にちらりと生命感知魔法を投じたヤクが見たのは、要塞化した村を取り囲む無数の光。

 本来ならば生命の気配をその強さに応じた光量の点で映すはずのそれが――――“天の川”のような帯として、村を取り巻いていた。


 やがて、一行は食糧庫の隠し扉から、隧道へ入る。

 大人二人が横に並ぶのがやっとの、隠された脱出路は――――カビ臭く、今にも崩れそうだ。

 最後尾を務めるジーラが食糧庫へ罠を仕掛け、念入りに追撃の対策を講じてから――――ようやく、彼らは地下を進んだ。



*****


 道中、シェイドが棲みついていたものの、霊体感知呪文によりやり過ごした。

 三十人近い人間が移動すれば地鳴りで地上の魔物に感づかれても不思議ではなかったものの、どうにか発覚せず、どうにか出口の落とし戸へ辿りつく。


「――――ヤク、上の状況を探れ」

「言われなくてもやるよ、隊長」


 呼ばれた偵察兵ヤクが進み出て、ボンヤリとした光を角と眼に宿して、落とし戸の直上を見透かすように見上げた。

 ジーラは気を落ち着かせるように、それを一瞥してパイプを銜える。


「おい、こんな所で煙草なんて……」

「分かってるよ、。……銜えただけだし、ハッパももう無い。最期の一服すらできねェなんて、本当……シケった人生だ」


 咎めた負傷兵に辛辣な言葉を返し、名残惜しそうに、残り香を吸い込むようにジーラはからのパイプを吸引する。

 眉間のシワを更に深く刻んでいると、小さな視線が向けられている事に気付き、見下ろすと――――小さな子供の一人が、ジーラを――――正確には、パイプを見つめていた。


「……なんだ、ジャリ。テメェにはまだ早い。“悪いオトナ”になってから吸え」

「……あの……これ……」

「あン?」


 乱暴な言葉遣いに、それでも臆さず少女が差し出したのは、大人の指二本分ほどの長さの、茶色い棒。

 手に取ってみれば、それは数枚の葉を巻きつけて作ったものであると分かる。

 鼻の下に押し付けて匂いを嗅ぐと――――間違いようもない。


「……何、これ? 煙草か?」

「お、お爺ちゃんが……最後に……つく、った……」

「形見じゃねーか。テメェが持ってりゃいい」

「……いい。お姉ちゃんに、あげ、る……」

「なんで?」

「だって……あたし……たぶん、オトナになれないから」


 その言葉に酷く癇癪を覚え、怒鳴りつけたくなる衝動に駆られながら――――ジーラのとった行動は、違う。

 軽く握り、少女の頭をぐりぐりと――――まるで、親のお仕置きのように拳を押し付けるだけだった。


「い、たっ……!」

「気が変わった。アタシがもらってやる。……その代わり、テメェをオトナになるまで生き延びさせてやるよ、クソチビ。差し出したモンを引っ込めるんじゃねェぞ、分かったな」

「……」

「返事!」

「は、はいっ……!」


 葉巻の煙草を懐にしまったところで、前方からジーラを含めて二人呼ばれた。

 そこにはファルランとヤクが低い天井を見つめている。


「来たか。……ヤクによれば、この上は魔物の巣だ。そうだな?」

「うん……そこそこデカい生命反応が折り重なって動かない。多分……」

「“シャンブリング・マウンド”か?」

「恐らくはね」


 ジーラが想起した魔物の名は、シャンブリング・マウンド。

 頭部のないイビツな人型の魔物で、“動き回る丘”の名の通り、その身体は不気味に蠢く蔓草の群体だ。

 待ち伏せて獲物を捕食するための擬態は、肉眼では決して見破れない。

 獲物を内側に取り込み、体液をすすり、体組織をしゃぶり尽くす恐ろしい怪物として冒険者達に恐れられており――――どれだけ警戒しても、犠牲者は後を絶たない。

 更には寝入ったキャンプを能動的に襲う事もあるという、始末に負えない魔物。

 極まれに超大型の個体まで発生し、その時は――――本当に、丘ひとつが化け物と化して動いたという。


「……止むを得ん、地表ごと吹っ飛ばす。フリック、やれ」

「了解。派手に行きましょうや」


 進み出た禿頭とくとうの大男が、おもむろに天井に手を当て、低く唸る風切り音のような詠唱を唇から編み出す。

 すると、天井の土が青白く輝き、光の粉が舞い――――魔法文字の羅列が浮かび、消えていく。


「お、お姉……ちゃん……これ……」

「あ? 向こう行ってろ、クソガキ。懐いてくんじゃねぇよ。……こいつぁ、変性魔法と付与魔術エンチャントの合わせ技だ」

「そんな言い方じゃ分かんないだろ、姐さん。……要するに、このハゲさんは今……“土”を、“爆薬”に組み換えているんだ。向こうに行ってな、危ないから」

「髪の話をすんな、ヤク。殺すぞ」

「うわ、怖っ」


 数分後――――フリックの施した術が終わると、青白く光る円だけが天井に描かれていた。


「さて、セット完了したぜ。ジーラ。……ブチかましな」

「おうよ。……崩落しねぇように祈ってな」



*****


 西の空へ傾き、赤みを強めていくも日はまだ高い。

 林の中には、寝息も立てず、身体を微塵も揺らさない“草の魔物”が数十体、折り重なるように獲物を待つ。

 ゴブリンの小隊が行き来し、ニーズヘッグが樹上から獲物を探し――――そこにはもう、人間の居場所などない事を示していた。

 

やがて、西日が照らし出す林が――――丸ごと吹き飛び、弾け飛んだ魔物の肉片と、シャンブリング・マウンドの体を構成していた木片が火柱とともに噴き上げられた。

引きつけを起こしそうな勢いで驚いたゴブリン達はその方角を見るも――――数秒後に襲ってきた衝撃波になぎ倒され、意識を失い昏倒する。


 そして――――地面に空いた大穴から、三十人足らずの“人間”達が一斉に駆け出した。


「くそ、テメェ……フリック! 加減ってモンを知らねーのかよ!」

「悪いなぁ、ジーラ。久しぶりだもんで感覚が掴めなくってよ。んな事より、ホラ……応戦しろ」

「景気のいい目印になったろうから、むしろ上出来だ。……さぁ、脱出だ」


 ヤクとファルランが先導して駆けていき、生き残ったシャンブリング・マウンドが体を起こして猛然と一向に襲い掛かる。

 歪な人型の、腕に相当する部分からは――――犠牲者の白骨がまろび出ていた。

 恐らくは取り込まれ、何日もかけてじわじわと吸い殺された、哀れな死に方を遂げた者。

 ジーラは、そんな彼らを火葬し……同時に仇を討つように、魔法の炎を放つ。


「ギイィィアァァアアァァッ!」

「オラァ、どうだ!? いい火加減だろ!? ……止まんな、走れっ!」


 火に巻かれて苦しむシャンブリング・マウンドの体は、炭化して崩れていく。

 しかし、すぐ――――次の怪物が起き上がり、敷き詰めたカードをめくるように次々と現れた。

 爆発でかなりの数を吹き飛ばせたものの――――それでもなお、倒せたのはほんの一部でしかなかった。


追いすがる魔物を迎え撃ちながら、平原をひた走るもシャンブリング・マウンドの追撃は止むところを知らない。

住処を吹き飛ばされ、怒りに燃えるかのように――――悪夢にもがくような動きで、低い唸り声とともに、さして速くはなくとも止まらない。

大地の押し寄せるような勢いは、ジーラの魔法ですら焼け石に水だ。

まず、何人かの村人の脚が止まり――――それを助け起こしたところで、全体の進軍が遅れてしまった。


 殿を務めていた救出部隊の何人かの姿が見えない。

 ジーラの視界の端に、引き倒されてゴブリンに集られ、血飛沫を上げている“黒衣”が映った。


(クソ……! ネーケルか、あれ……! アジールもフェイもいねぇ……! だいたい、何のために……アタシら……)


 その時、前方からいくつもの蹄と車輪の音が聴こえた。

 慌てて振り向くと――――数台の馬車が、魔物の群れを切り裂くように向かって、やがて旋回して前方およそ十数歩で停止した。

 兵士達が降りてきて激しく身振りし、叫ぶ。


「こっちだ! 早く乗れ!」

「あと少しだ、頑張れ! 早く!」

「くそ、生き残りはこれしかいないのか!?」


 救出対象の兵士と村人達を急いで乗車させ、もはや数が半分以下にまで減った救出の遺民部隊は応戦を続ける。

 もはや魔力は底を尽き、剣は折れ、体力も残っていない。


(もう、いいよ……! なんで……まだ……出さねェ……)


 ちらり、と振り返っても――――馬車は動き出す様子がない。

 やがて、最後の魔力を使って頼りない火球を放ち、崩れ落ちかけた時――――ふと、体が浮くのを感じた。

 腹部に感じた衝撃とおぼろげな視界から、ジーラは気付く。

 何者かに……抱え上げられた、と。


「さっさと乗れっつってんだろうが! そっちの奴らも早く乗れ、バカ野郎! ……全員乗ったぞ! 出せ、兄貴!」

「よし、ずらかるぞ! 掴まれ!」


 鞭の音とともに、ぎゅう詰めの馬車は走り出す。

 その中には、王国軍兵士も、村人も、子供も――――黒衣の遺民部隊も、関係ない。

 誰もが疲労困憊し、肩で息を整えながら身を壁に預けていた。


 彼らを見下ろし、人数を数えながら、大柄な王国軍兵士が安堵の息をついた。


「ふぃー……どうにかなったな。遅れて悪かったな」

「……おい、テメェ……」

「あん?」


 ジーラが、気だるげに口を開いた。


「なんで……遺民部隊あたしらまで……」

「なんで、って……決まってんだろ。俺達は、お前らもたすけに来たんだよ」

「どうやって……」

「見えるな?ほら……アレだよ」


 大柄な兵士が親指を立て、背中越しに馬車の前方を指し示した。

 そこには――――“翼の生えたクジラ”が、大地に寝そべっているかのように見えた。

 周囲には、四体のロックゴーレムが警戒しており――馬車に追いすがる魔物達を見るや、拳を立てながら不格好な四つ足歩きで馬車とすれ違い、走り寄る魔狼を、ニーズヘッグを、ゴブリンを――――ほふっていく。


「な、んだ……コレ……! 何が起きて……!」

「知らなかったのか?」


 そう問いかけたのは、御者席の兵士。


「俺達はもう、空を飛べるのさ。あの船の名は――――フォーリング・アン号。世界初の、“空飛ぶ船”だ」

「まったく、生きてみるもんだよ、兄貴。まさか空まで飛べるなんてさ」

「全くだな、バック。……あの不出来なバカも、生きてりゃな」

「……違ェねぇよ」


 馬車ごと乗り上げ、“クジラ”の腹の下に相当するカゴの扉が閉じられると、応戦するゴーレム達を残して――――少しずつ、上昇する。

 ニーズヘッグの放つ針も、輝く船体には傷一つ付けられずに折れていく。


 魔王支配地域の、唯一の脱出路を――――“飛行船”は、悠然と泳いでいった。



*****


 馬車から降りたジーラは、“艦橋”の中を見て回る。

 遥か眼下に陸地が見えて、彼方には海までも霞んで見える。

 かつて世界にいた竜達と同じ目線を――――ジーラは、ヤクは、王国軍兵士達、村人達は――――味わえていた。

 感動のままに、葉巻を銜える。


「……ご無事で何よりです。ようこそ、フォーリング・アン号へ」


 舵輪を握る、片目に眼帯の操舵士が振り返りもせずに言った。


「それと、船内は禁煙ですので。しばしの間我慢してください、悪しからず」

「……チッ……もう……何が、何だか……ってか、この……船? あんなに乗せて大丈夫なのか?」

「問題ありません。むしろ……来た時より軽くなりました。六体ものロックゴーレムを吊り下げて来ましたから。とはいえ、苦でもありません。過剰積載の航行など、私には珍しくもない事でした。……前のボスにも、させられたものです」

「……あんた……何者だ?」

「さぁ。名乗って差し上げても構いませんが、きっと……皆を怖がらせてしまいますからね」


 意味ありげな言葉をそれ以上追及もせず、ジーラは踵を返し、適当な床に座り込む。

 “空の旅”を楽しむような余裕も、体力も、今はもうない。


「……よう、お疲れ」

「……ンだよ、お礼でも言えってか?」


 御者席に座っていた兵士がジーラに声をかける。

 彼の腰には、王国軍兵士の長剣のほかに――――レイピアが一本差されていた。

 王国に忠誠を誓っている風にも見えない、胡乱な男だった。


「うさんくせぇな、テメェ……カタギじゃなかったろ」

「分かるか? 俺達は、こうなるまえは“追い剥ぎ”だった」

「それが何でマジメに働いてんだ。悪党も儲からない時代になったのかよ?」

「俺じゃねぇよ。……弟にせがまれたんだ。因果だろう」

「……あのデカい奴か?」

「いや、違う。奴じゃない。……挨拶が遅れたな。俺の名はアレン。あの図体のデカい奴は弟のバックだ。空の旅でも楽しんでおけ、初めてだろう。……じゃあな」


 船が気流に呑まれて揺れ、胸元からこぼれ落ちたパイプを拾う。

 そこには――――あの日見とれたのと同じ睡蓮の細工が、少し霞んではいても……確かに、在った。

 復讐を誓うたびにそっぽを向いてしまい、対面したのは故郷の焼かれたあの日以来の事だ。


 やがて雲の間を抜けると、街が見える。

 遥か高空から見下ろすそこは水に浮かぶ睡蓮の花と同じく、美しかった。

 彼女は、更にもう一つ気付く。

 伸ばしっぱなしの赤髪が――――いつになく鬱陶しいと。


「……アタシ……ぼろぼろ、だな」


 指先で触れた唇は、荒れて皮が剥けていた。

 蒼天そのものを覗く窓には、くまの深い顔が映っていた。


「……髪、切っかな……とりあえず……」


 銜えっぱなしの葉巻を口から下ろし、ゆっくりと息を吸い込むと……ジーラの胸の中を、高空の冷えた澄んだ空気が満たした。






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