5.橋の袂にて

「渡りたい明確な理由が分かっている方は渡らせてやる。でもそっちは理由を言わないなら渡らせない」


 僕の答えに狐雨は喜び、男の方は僕を睨みつけた。


「なぜ渡りたいんだ?」


 僕の問いに観念したのか、男はやっと重い口を開いた。


「ずっと……見ていたんだ。その雨を」


 そう切り出した男の理由は切ないものだった。


 山の中で土砂災害に遭った彼は町で隠れる場所を探していた。

 その時に狐雨が人の家に入って行くのを見たそうだ。

 人に惹かれていく姿を見、かつての自分の姿をそこに見たそうだ。


 彼もまた人に心を奪われたことがあるそうだ。

 けれど、姿も声も届かぬ相手への想いは募るばかりで常に一方通行だ。

 同じ想いをしている狐雨を見ているうち、狐雨に情が湧いたという。

 いっそ喰らってその想いごと消してやろうと思った。

 だが、狐雨が橋を渡る決意が固いことを知り、ならば自分もと思ったそうだ。


「そうか……お前も妾と同じだったのだなぁ」

 狐雨はそう言って再度彼を抱きしめた。


「同じ想いを味わったモノ同士、こちらで寄り添うことはできないのか?」


 橋を渡らなくても、と思った。

 でも。


「触れられぬものが近くにあると知っていてお前はそれでもここに留まれるかえ?」

「……僕は雨を見ることができる。声も聞こえる。魁もだ。それに見えなくても聞こえなくても受け入れてくれる人達がいる」

「……お前は変わった橋守だな。雨が嫌いではないのか?」

「嫌いだよ。でも……そんな終わり方は嫌だ」


 雨も辛い想いをしている。

 人に惹かれる雨もいる。


 それを知ってしまったら、『嫌い』だけじゃなくなる。



 家の裏手。

 小さな川に架かる小さな古い石橋の前に立つ。

 その向こうは水のあやかしの世界へと繋がっている。


 自力ではなく、橋守の助けを借りてその橋を渡るということは、もう二度とこちらの世界へは来れないということだ。


「……狐雨」


 名を呼ぶ。

 橋の前で橋守が名を呼べば、呼ばれた雨が向こうにいればこちらに、こちら側にいれば向こうに行く。

 橋の袂でなければ、名を呼ばれた雨は一瞬動きを止めるだけだが、橋の前で名を呼ばれれば強制的に橋を渡らされることになる。

 雨は橋守の呼び声に逆らえない。

 だから、雨は名を明かさないのだ。


「妾をこの苦しみから解放してくれたのじゃ。無理な頼みを聞き入れてくれて……橋守、心より感謝するぞ」


 狐雨はそう言いながら晴れやかな表情で橋を渡って行った。

 橋には濃い霧が立ち込め、対岸を隠していた。

 たった数歩で渡れる小さな石橋なので、狐雨の姿はすぐに見えなくなり、声だけが霧の中から聞こえていた。


「……狐雨というのか」


 だが、その霧もすぐに晴れていつもの見慣れた対岸の風景が姿を現すと、ぽつり、男が呟いた。


 別れの時に初めて名を知る。

 橋守に浄化されないためのようだが、僕が言うのもなんだが切ないことだと思う。


 狐雨の意思はとても固かった。

 狐雨は橋を渡ることを選んだ。

 けれど、男の方は留まることを選んだ。


真名まことなは明かせぬが『狐雨』と呼べば一度だけ手を貸そう。この借りはその時返す」

 男はそう言って水となって地面に消えてしまった。


「雨のお友達ができて良かったですね」

 魁はそう言って僕を揶揄ったがどこか嬉しそうだった。


「あ、そうそう。一つ種明かしをしなくてはいけないことが」

「種明かし?」

「実はですねぇ……」

 楽しそうに魁が切り出した内容はこうだ。


 僕に内緒で店の奥で近藤さんと一緒に将棋をしていたらしい。

 ここのところ酒井さんに負け続きだった近藤さんが魁に指南をお願いしていたようだ。

 帳簿を探すと言って籠っていたが、本当の理由はそれだったようだ。

 だから、あんなに早く、しかも外から来ずに店内にいた僕の背後に立てた訳だ。


 僕は思い出に耽っていて気づかなかったが、店におかしな花瓶が持ち込まれたことに魁はすぐに気づいた。

 そこへ酒井さんが急な雨に降られて飛び込み、それを魁が雨に気づかれぬようこっそりと店の奥へと誘導した。

 店の奥では魁が二人に店内で起こっていることを実況中継形式で説明していたそうで、二人は将棋を指しながらそれを聞いていたらしい。

 だから二人は何が起こっていたのか知っていたし、魁が側にいたから安心もしていた。


 近藤さんが途中で奥から顔を覗かせたのは魁の指示だったようだ。

 僕の反応を見たかったらしく、その時の僕の反応は完全なる不合格だった。

 それは自分でも自覚はある。

 狐雨に人を傷つける気がなかったから良かったが、もし害意を持っていたら近藤さんは命の危険すらあった。

 僕は狐雨の名を知っていたのにも関わらず、咄嗟に止めることができなかった。


「ほら、獅子は我が子を千尋の谷に落とすって言うでしょう? 蛙の子が蛙じゃなかったし、鷹が鳶を産んだんですから、このくらいしないと。ねぇ?」


 祖父と比べられるのはあまり良い気がしないが、でも仕方ないとも思う。

 橋守について学ぶ機会がなかったとか言い訳はいくらでもあるけど、でもそんな言い訳が無駄なことは分かっている。

 祖父には信頼できる幼馴染がいて、近所の人とも上手くやっていて、対する僕はというと友達と呼べる人もおらず、人と話すことさえ苦手だ。

 それは橋守とは関係ない次元でのことだと思う。

 だけど。


「……蛙の子はオタマジャクシだよ」

 ぼそっと言い返すと、ぽんっ、と手を叩いて確かに、と魁は物凄く納得した表情で僕を見た。

 魁にそんな顔をさせられたのは嬉しかったけど、ふと疑問がよぎる。


「……向こう側ってどうなってるんだろう?」

 いつも思ってる疑問を口にするが、これには魁も答えられないのも知っていた。

 誰も向こう側がどうなっているのか知らない。

 魁も行ったことはないし、そこから来る雨も話してくれることはない。

 それに雨には訊いてはいけないという決まりがある。


「さあ? それより今晩は親子丼にしますから手伝ってください」

 そう言って魁は食堂のオバチャンのコスプレを披露したので、僕は慌てて周囲を見回す。

「大丈夫、ちゃんと周りは確認してますよ」

 心配性ですね、と魁は笑ったが、人通りが少ない場所とはいえ、誰かが見ているかもしれないじゃないか。


 ふと橋に目が留まる。


 人に恋をした雨。

 叶わぬなら相手のいない本来いるべき自分の場所へ。


 僕も叶わぬ恋なら、橋守の役目に没頭すべきなのだろうか。

 そんなことを悩んでいるのが顔に出ていたのか、バカですねぇ、と魁が笑った。


「あなたがいるってことは、今までの橋守達は恋を実らせて来たってことでしょうに」


 確かに。


 僕がいるってことは、父も母と出会ったし、祖父も祖母と出会ってその恋が実って来た、ということだ。

 そしてそれはその前の橋守達も。

 受け入れてくれる人がどこかにいる。

 それが『柚菜さん彼女』だったらいいな、と淡い期待を持つ。


 少しだけ希望の光が見えた気がした、のだが。


「橋守だから恋ができないのじゃなく、単純にモテないだけでしょ」


 魁の意地悪なその一言で、見えかけた希望の光はものの見事にかき消され、僕は再び真っ暗な恋路に立たされたのだった。

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