3.雨の名前

「氷雨から報せは受け取っている。なかなか呼ばぬ故、忘れられたかと思ったぞ」


 鬼雨はそう言って不機嫌そうに僕を見据えた。

 その迫力に気圧されそうになる。


「まだ儀式はしていないんです」

「まだ? 何をのんびりしておる?」

「刀がまだだと言って……刀は雨なんでしょうか?」

 僕のその問いに鬼雨は一瞬きょとんとし、それから高らかに笑った。


「あれは雨ではない」

「でも白雨は刀は雨だった、と」

「白雨?」

 その名に鬼雨は笑みを引っ込め、眉間に皺を寄せた。


「あれが姿を現したか」

「はい。でも何者かに射抜かれて霧散しました」

「射抜かれて?」

「空から光の矢のようなものが……」

「彼奴め。掟を破ったか」

「心当たりが?」

「ある。虹蛇こうだを担ぎ出した罪は重いぞ」

「虹蛇?」

「いちいち質問するな。お前はさっさと儀式をしろ。特別に私がしてやっても良いが……いや、刀抜きではできぬな。ええい、ここへ刀を呼べっ」

「でも刀は白雨の味方じゃ……?」

「何を馬鹿げたことをっ。白雨に深手を負わせて橋守を守ろうと奮闘したのは刀だぞ?」

 あ、と僕はそれを失念していたことを思い出す。


 確かに魁は白雨を浄化しようとした。

 でもそれは白雨から魁が契約に関わっていたことが漏れるのを恐れて消そうとしたともとれないか?


「刀はな、契約に縛られがんじがらめにされて生きているようなものだ。橋守を雨から守れなかったら死ぬし、橋守を傷つけても死ぬ。契約によって生まれたモノは契約がなければ生きられぬ」

「じゃあなんで魁はまだ生きてるんだ? 先代は雨に殺されたんだぞ?」

「契約による死は例外だ。雨からの直接の攻撃のみだ」

「じゃ、じゃあ、僕が橋を壊して橋守を継がないって選択をしてたら刀は死ぬのか?」

「必要なくなるから当然そうなる」


 僕の選択如何に魁の生死は係っていたのか。

 それなのにそんなこと一言も言わなかったし、むしろ祖父の遺志を尊重しようとしてた。


 さっさと儀式をしてしまえばいいのに、儀式を引き延ばして橋を壊せる余地を残しているのはなぜだ?

 とっくに僕に儀式をさせていたら、橋を壊させまいとする白雨と利害が一致するのに。

 これじゃあ魁は白雨の黒幕にはなり得ない。


「白雨の黒幕って……?」


銀箭ぎんせんだ」

「銀箭? 初めて聞く。なぜそれをあなたが知っているんですか?」

「今合点がいったのだ。当時は姿は知れど名は知らなかった。今は名を知れど姿を知らなかったが、今ので当時のアレが銀箭だと思い至った。それと刀が言っておった別の雨との『契約』の意味が分かった。あれは我らの『契約』のことだ。我らは反故にしたが、別の雨、白雨だけが引き継いだ。それで先代は殺されたのだな。あの刀は複雑な言い回しをする」

 鬼雨はその名の通り鬼の形相になり、僕を睨みつけて吠えた。


「今すぐ刀をここに呼べっ」


 鬼雨の剣幕に僕は震える手でスマホを取り出し、魁に掛けた。


「魁、今どこ?」

「どこって近藤さんのところですよ。お茶のお使い忘れていたでしょ? 遅いから皆さん心配されてましたよ? そっちこそどこにいるんです?」

 そうだった。

 話の衝撃が強すぎてすっかり忘れていた。

 が、今はそれどころじゃない。

「橋のところ。鬼雨といるんだけど、今すぐ来てくれないか?」

「鬼雨? 呼んだんですか?」

「白雨を浄化した奴が分ったんだ。だから今すぐ儀式をしたい」

「……分かりました」

 そう言って電話が切れたかと思うと裏庭の木戸から魁が姿を現した。

 鉄紺色の着物に白い帯、黒い羽織姿の青年の姿で手には白檀の扇子を持っている。


「なぜ儀式を先延ばしにした?」

 魁の姿を見るや否や鬼雨はそう訊いた。

「……先代は命を賭して橋を壊そうとなさっていました」

「コレは続けると言っているのだろう? 氷雨からそう聞いているが?」

「あなたも壊すことに同意されたはずでは?」

「それはもう反故にしたはずだ。それに橋がなくなればお前は……」

「その話はっ」

 鬼雨の言葉を魁は慌てて遮った。

「もう遅い。橋守に話した」

 鬼雨の言葉に魁は僕を困惑した表情で見た。

「お前がはっきり話さないから橋守は混乱してお前が白雨と手を組んでいると誤解しておったぞ? なぜ隠すような真似をする? お前はただの刀だろう?」

「そんなことを考えていたのですか。誤解を生むようなことをして申し訳ありません」

 魁は僕にそう詫び、次いで鬼雨を見据えた。


「雨と人との未来を憂い、何度も話し合いを重ねてきました。雨も人も時代と共に変わってしまった。それなのに今のままで良いのでしょうか? お互い犠牲を払って来たのに……」

 魁はやはり僕が継ぐと選択したことを良しと思っていなかったのか。

 雨を嫌っていた僕がまさか継ぐとは思っていなかったのかもしれない。

 だから儀式を先延ばしにしていたのか。

 魁もまた僕と同じように悩んで迷っていたのか。

 でも『お互い』とはどういう意味だろう?


「刀の癖に人のようだな。人はどうして物事を複雑にしようとするのだ? 橋は橋、雨は雨、橋守は橋守、契約は契約であろう? 全て別物だ。なぜ全てを同列で考える?」

 苛立つ鬼雨に魁は考え込むように顎に手を当てた。


「橋守。お前も己自身のことであろうが。先代のように考えるということをせぬのか?」

 鬼雨の苛立ちの矛先が自分に向けられ、僕だって考え抜いてこの結論に達したのに、と心の中で反論した。

 が、言葉にならなかったのは、橋守としても人としても立派だった祖父に比べられたら到底足元にも及ばないと思ったからだ。

 僕の考えなんて考えた内に入らない。

 だって僕は魁がいなければ橋守としての責務を一つたりとて果たせないからだ。

 雨について知ろうとしてこなかった、そのツケがこの有様を招いている。


「情けない。私がこちらに呼ばれたのは報告ではなかったのか? 迷いがあるうちは契約などできぬぞ?」

 呆れる鬼雨の言い分はご尤もだ。

 魁は迷っていたようだし、僕は報告の為ではなく、魁のことを信頼できそうな鬼雨に相談したかっただけだ。

 てっきり前回会った時の約束を果たす為に呼ばれたと思って来た鬼雨からすれば、僕達のこの為体ていたらくには呆れるしかない。


 そう項垂れる僕とは逆に不意に魁が晴れやかな顔で口を開いた。


「……鬼雨。あなたのおっしゃる通り、全て別物です。私は思い違いをしていたようです」


 そして、魁はこう続けた。


「儀式をしたく思います」

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