5. 怒れる翠雨
夕暮れ時。
近藤さんが花器をリョウさんに自分で届けると言っていたが、珍しく客から電話があり、僕が店からの帰りにリョウさんのところに寄ることとなった。
せっかく店でリョウさんと楽しく会話ができるはずだったのに、雨に邪魔され、さらには自分で届けるつもりが電話に邪魔され、近藤さんの機嫌は悪くなるばかりだ。
店を出る際、大きな舌打ちをされたが、聞こえないフリをして傘を広げる。
翠雨が留まる間、曇天が続く。
翠雨は『太古の雨』であると同時に『恵みの雨』の一種で、若葉の成長を促す役割を担っている。
それ故、雨は降ったり止んだりを繰り返し、若葉に優しく降り注ぐのだ。
小雨の中、足早にリョウさんが営む和菓子屋、
が、既に閉店した後で暖簾は片付けられ、戸も閉まっていた。
なので、裏手へと回る。
店の裏が自宅となっており、店と繋がっている。
その玄関先でちょうど出掛ける様子のケンさんと出くわした。
「お久しぶりデス! お変わりありマスか?」
「それを言うなら『お変わりありませんか?』ですよ」
「そう、ソレ! 舌噛みそうですね!」
そう笑いながら、ケンさんは玄関の戸を開け、リョウさんを呼んだ。
だいぶ流暢になったが、まだまだ日本語が怪しい。
ケンさんは季楽庵に住み込みで働く従業員である。
どういう経緯か詳しいことは知らないが、困っていたケンさんをリョウさんが拾ってきたらしい。
確か僕より少し年上らしいが、とてもしっかりしていてずっと年上のように見える。
ちなみに本名はケンではないらしいのだが、発音が難しいのでケンでいいわね、とリョウさんが勝手に決めてしまってそれが定着している。
僕はケンさんについて国籍すらよく知らない。
英語が堪能だから単純にアメリカ人かとも思ったが、中国語も話せたりするようでよく分からない。
「雨、大変ですね」
彼は僕のことをリョウさんから聞いているのか、雨が降るとこんな風に気遣ってくれる。
単純に濡れることを心配されているのか、橋守についてどこまで聞いているのかさえよく分からない。
だから、いつも相槌を打って終わる。
「それ、花器ですか?」
ケンさんが言うと『柿』に聞こえる。
イントネーションの違いを指摘するべきか迷いながらもそうです、と答えると、ケンさんは濡れるのも構わず傘を閉じ玄関先に立て掛けた。
「お預かりします」
そう言って花器の入った包みを受け取って靴箱の上に載せ、そこに用意されていたタオルを僕に差し出し、代わりに僕の傘を受け取って玄関へと促された。
そこへちょうどリョウさんが現れ、僕はただただケンさんの流れるような動作に感服していた。
「お待たせしてごめんなさいね。ちょっとお店の片付けに手間取ってしまって」
「いえ……」
「じゃ、行って参ります。またネ!」
軽く会釈してから片手を挙げ、それから傘を開いて出掛けるケンさんに僕はただ会釈を返しただけだった。
黒く染めた短髪や白いシャツが濡れているのを申し訳なく見つめながら。
行ってらっしゃい、と笑顔で見送るリョウさんのように、僕もそう言うべきだったのかもとかいろいろ考える。
考えるけれど、口からは出てこない。
僕はいつもこうだ。
だから、上手く話せない相手が苦手になる。
僕が悪いのに。
「ふふっ。だいぶ日本語が上手くなったでしょう? だからか接客が楽しくなったみたいで、箱詰めや細かい作業よりそっちの方が性に合ってるみたいなの。困るわよね」
困る、と言いながらもどこか嬉しそうなリョウさんに僕はただそうですね、と頷いた。
「何事も経験が大事よね。言葉で教えるより経験で覚える方が遥かに早く身につくし、忘れないものよ。さ、タオルはこちらへ、ちょっと花器を奥まで運んでもらっていいかしら?」
はい、と答え、靴を脱ごうと足元に視線を落とすと、どこかで見覚えのある靴が。
「来客中ですか?」
「近さんだけじゃないみたいね。あなたにお説教したい人は」
その悪戯っぽい含みのある笑みに僕は誰の靴か理解した。
通された奥の間には上座にタキさんの姿の魁と翠雨が座っていた。
僕を認めるや否や翠雨が無言で向かいを指さす。
勿論、座れ、という意味だ。
「私はお花を活けて来るわね」
そう言ってごゆっくりと言わんばかりに、リョウさんは笑顔で僕から包みを奪って去って行った。
残された僕は仕方なくおずおずと翠雨の向かいに正座する。
「なんでここにいるんですか?」
「何を怒ってる? 家の中に雨がいることか? それとも先程まで
「どっちもです」
「安心しろ。この家の者に害を為すつもりはないし、マゴにも何も話していない」
チラ、と魁を見ると、本当ですよ、と頷いた。
「マゴは店に、私達はずっとこの部屋にいましたからお会いしていません」
「嘘は言わない。さっきの質問の答えがまだだ。なぜマゴには話さない?」
「それを訊く為にわざわざここに……?」
「違う。本題は別だ」
「じゃあ本題は何なんですか?」
そう問うと、少し間が空いた。
「……私を浄化しようとしただろ? たかが口封じに」
低い声に怖い表情。
いつもの穏やかな翠雨とは別人のようだ。
「何でもかんでも刀で解決するつもりなら来年は来ないぞ」
翠雨が来ない。
それは恵みの雨が降らないということで、農作物に影響が出る。
「すみません。そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりだっただろうが。お前は橋守だろ? 橋の番人らしくできないなら橋を壊してしまえ。お前がそんな考えなら先代は報われないな」
「それはどういう……?」
「なんだ、知らないのか? 話してないとは情けない。人はどうしてこう秘密にしたがるんだか理解できんな。魁、これじゃ橋守を継いだとは言えないぞ」
興醒めだ、と言って翠雨は立ち上がり、水の塊になると畳に吸い込まれて消えてしまった。
「魁……」
「話の続きは翠雨が帰ってからにしましょうか」
「何で今話さないんだよ」
「何事もタイミングが大事なんですよ」
どこかで聞いた台詞に促され、僕は渋々立ち上がった。
帰り際、玄関に飾られた花器には大輪の花が活けられていた。
それは水が
翠雨はその後数週間滞在し、いつの間にか去って行った。
来る時はいつも裏庭に来て挨拶をする。
だが、去る時はいつも何も言わない。
代わりに去った合図として、雲一つない快晴の日を一日置いていく。
「どうやら帰ったようですね」
朝起きると、裏庭で空を仰ぐ魁がいた。
僕も庭に出て魁の隣で空を仰ぐ。
抜けるような青空とはこういう空だろうか。
「さ、今日はお洗濯日和ですからね。シーツも洗っちゃいましょうかね?」
そう言って魁は若奥様風の恰好になる。
よく晴れた空とは対照的に僕の心には一抹の不安と魁への不信感が暗雲が垂れ込めるように広がり始めていた。
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