第伍話 白雨:hakuu

1.骨董屋の訪問者

 夏の午後の俄雨にわかあめ白雨はくうと言う。

 夕立の一つで、狐雨こうのように明るい空から降る。


***


 結局、魁は鬼雨を呼ばなかった。

 というか、元より橋守ではない魁に雨を呼ぶことなどできない。

 だから、正確に言うなら呼べなかったのだ。

 そして、僕も呼ばなかった。


 そんなことがあってから数日が過ぎた。

 何事もなかったかのように過ごし、雨についても橋守についてもなんとなく話題にはしなかった。


「喧嘩でもしたのかい?」


 店先の掃き掃除を終えて戻った僕に近藤さんは帳簿に視線を落としたままそう訊いた。


「なぜですか?」

「その仏頂面と雑な掃き方で機嫌が悪いのは分かるさ。原因は腹が痛いか魁と喧嘩したかのどっちかだろう? ここ数日ずっとだから喧嘩だろう? 何が原因か知らないけど、一応接客業なんでね。その仏頂面はどうにかならんかね?」

 接客業とはいえ客なんて来ない。

 来るのは酒井さんくらいだろ、と心の中で反論してみたが、僕を気遣っての言葉であることくらいは分かっていた。


 近藤さんは僕にとって祖父のような存在だ。

 今では本当の祖父よりも付き合いは長い。

 僕のことは全てお見通しという訳だ。

 少し迷って、僕は魁と橋守を継ぐかどうかで揉めていること、両親や祖父の死についていろいろと聞き出そうとしていることをざっくりと話した。

 それから祖父が雨と契約をしていたことも全て話した。


「そうか……私も本当のところは何も知らないんだけれどね。今の話を聞いて合点がいったこともある」


 僕の話を聞き終えた近藤さんはそう言って、眉間に皺を寄せ、しばし押し黙った。

 片手を顎に当て、目線は相変わらず帳簿に落としたまま、言葉を慎重に選んで悩んでいるようだ。

 僕はただそんな近藤さんが口を開くのを黙って待っていた。


「すみません」


 その沈黙は突如、店の外からのか細い声によって破られた。

 店の入り口を振り返るが、戸を開けて入ってくる気配はない。


「すみません」


 再び声が掛かったので、僕はゆっくりと店の戸を開けた。

 この店に客が来るのは珍しい。

 だから、きっと道を訊かれるだけだろうと思ったのだが。


 店の外にいたのは鼠色の着流しを着た男性だった。

 だけど明らかに人ではなく、そしてかなり具合の悪そうな様子だった。

 よく見ると左袖に厚みがなく、左足を引き摺っている。

 俯いたまま顔を上げようとしない。

 さっき表を掃除した時は晴れていたのに、小雨が降っている。

 が、空は明るい。

 天気雨だろうか。


「……橋守か?」


 問われてすぐに「そうだ」と肯定できなかった。

 答えずにいると雨は俯いたまま首をゆっくりと左右に揺らし、盾の方か、とボソッと呟いて踵を返し、足を引き摺ってそのままどこかへと歩き始めた。

 この時、僕は相手をせずに済むならいいか、と安易に考え、店の中に戻った。


「雨でもいたのかい?」

 近藤さんに問われ、僕はいえ、と即答した。

 心配かけまいと思ってのことで、他意はなかった。


「人がいた気がしたけど、違いました」

「……そうかい。なら、ちょっと頼まれてくれないか? 今日は珍しく客が来る予定でね、茶請けを買って来て貰えるかい?」

「分かりました。どんなものが良いですか?」

「馴染みのお茶の先生が来るって言えば、リョウさんが良いのを選んでくれるから。お茶も頼んでいるからそれも受け取って来てくれるかい?」

「お茶の先生となると気を遣いますね」

「そうなんだよ。うるさい人ではないんだけどねぇ……やっぱりこっちが身構えてしまって。呉服屋みたいに適当なものを出す程、無粋ではないつもりだからね」


 本人がいなくともリョウさんが絡むと張り合ってしまうのは、最早『パブロフの犬』のようなものかもしれない。

 でも僕はそんな二人を羨ましく思う。

 幼い頃から一緒に育って、人生の色々な岐路をそれぞれが辿ってもずっと繋がっていられるのは、互いを深く知って信頼し合っているからに他ならない。

 ただの腐れ縁だと本人達は言うけれど、それが僕には羨ましいのだ。


「いらっしゃいませ」

 リョウさんが営む和菓子屋、季楽庵きらくあんではケンさんが一人で接客していた。

 明るくポジティブなケンさんは近所でも評判が良い。

 ケンさんが店先に立つようになって、客層の幅が広がったとリョウさんが喜んでいた。

 日本に来て数年経つので日本語もだいぶ流暢になったし、リョウさんの教育の賜物で日本のマナーも身に着け、家事から日曜大工まで何かと器用にこなす。

 が、和菓子の知識は今一つ伸び悩んでいる。


「近藤さんからお茶請けを買って来るよう言われてて……」

「オー、残念。リョウさん、さっき出掛けてしまいました。それワタシには難しいデスネ。季節のお菓子は分かりマスし、包むの大分上達しましたが、選ぶの苦手デス。リョウさんに電話しましょうか?」

「うーん……リョウさんは今どちらへ?」

「お茶を買いに行ってマス。近藤さんに頼まれてたの忘れてた、言ってました」


 忘れるなんてリョウさんにしては珍しい。

 困ったな、と思ったその時、聞き覚えのある声が後ろからした。


「すみません」


 ドキッとして振り返る。

 鼠色の着流しの男がいた。

 具合が悪そうに体を丸めるようにして立っている。

 やはり俯いたまま先程と同じように首を左右にゆっくりと揺らすと、チッと舌打ちをした。


「……また盾か」

 そう言って踵を返し、足を引き摺りながらゆっくりと来た道を戻り始めた。


 安堵してケンさんを見ると怪訝な表情を浮かべていた。

「どしました? ちょっとリョウさん、電話しますネ?」

「いや、電話は……こちらで待たせてもらってもいいですか?」

「勿論デス。お茶用意します」

「あ、いや」

 お構いなくと言おうとしたが、ケンさんはさっと奥に引っ込んでしまった。

 そこでふと通りに目をやるとまだあの雨がいた。


 待った。

 今、ケンさんは名前を口にしなかったか?


「リョウ。リョウか。リョウだな」

 ブツブツと呟いて、雨はその場に座り込んだ。

「では私も待つとしよう」


 僕はこの時になって、骨董屋でこの雨を帰らせたことを酷く後悔した。

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