第捌話 銀箭:ginsen
1.すべてのはじまり
激しく降る雨は矢に例えられることが多い。
そして、降り注ぐような矢もまた雨に例えらえることが多い。
故に「
前者は雨を矢に例えたもの、後者は矢を雨に例えたものだ。
激しく降る雨は矢のように、人々に脅威を与える。
***
お花見の日から数日が過ぎた。
結局、
柚菜さんと会う機会もなく、スマホという便利なものがあっても気軽に連絡を取り合うような仲でもなく、真意を確かめられずに悶々とした日々を過ごしていた。
「今日も来んぞ」
店に来るなり酒井さんの第一声はそれだった。
お花見以来、酒井さんの機嫌は悪い。
「ここんところ晴れてるってのに、うちは辛気臭くて敵わないねぇ」
近藤さんも苛立った様子を見せる。
二人とも僕があの日柚菜さんに告白紛いのことをしたのを魁から聞いて知っているからだ。
酒井さんに柚菜さんの様子を訊くも、自分で直接訊けばいいだろうが、と相手にしてくれない。
酒井さんもスマホを手に入れてしまったので、スマホを忘れて出掛けない限り柚菜さんが酒井さんを呼びに店に来ることもない。
柚菜さんとの唯一の接点がこの店だったので、実質会う理由も機会もなくなったという訳だ。
「どれ、気分転換にお茶でも買いに行って来てくれないかね? いつもの『高い方』だよ」
そう言って近藤さんが僕を店から追い出す。
『高い方』と近藤さんは言ったが、実際は『安い方』だ。
酒井さんがいるからそう言っただけで、いつものお茶は安いのだ。
それを酒井さんも分かっていて、ちゃんと『高い方』を買うんだぞ、とニヤニヤと笑みを浮かべる。
確かにずっと二人の将棋を見ていたって気分は滅入るばかりだ。
仕事が忙しければ気分も多少なりとも紛れるというものだが、閑古鳥が啼く店ではそれも無理というものだ。
外に出て空を仰ぐと
大きな雲もなく、厚い雲もなく、どう見たって雨が降りそうもない青空というものはどことなく安心感がある。
店から商店街へ向かう道中には小さな橋がある。
家の裏手にある橋以外は橋守といえども無関係だ。
だが、ふとその橋を見て思い出す。
「橋の番人らしくできないなら橋を壊してしまえ。お前がそんな考えなら先代は報われないな」
氷雨にも橋守を継ぐと宣言したのだから、今更言っても仕方ないが、祖父が望んでいたならば橋を壊した方が良かったのだろうか。
それに柚菜さんは僕が橋守だと知らない。
もしも柚菜さんと良好な関係が築けたとしてもそれは本当の僕じゃない。
隠したままではいられない。
知ってしまったらケンさんの時のような結果になるだろうか。
いや、きっと悪い結果になる。
「おや? サボりですか?」
ふいに声を掛けられ振り返ると、若奥様風の魁がいた。
バケットやオレンジが覗く紙袋を小脇に抱えた魁を見て、今時こんな若奥様はいない、と思った。
坂道でオレンジを転がすようなドジをしそうだ。
「サボってない。お茶を買いに行くところだよ」
「ああ、いつもの『高い』お茶ですね。それならついでに買っておきました。サボる理由がなくなりましたね」
「だからサボってないって」
「じゃあなぜ橋なんか見て黄昏てたんですか?」
「それは……」
言葉に詰まる。
別に内緒にすることでもないし、言えないことでもない。
ただ、どう伝えたらいいか分からないだけだ。
「ああ、柚菜さんですか?」
言い当てられると気まずい。
黙っていると魁はニヤリと笑った。
「彼女はずっとあなたのことが気になってたみたいですけどね」
「え? でも全然そんな素振りは……それにこの間は魁に見惚れてたし」
「そりゃ今人気の俳優さんに似せてコスプレしましたからね。単なる観賞用として見てただけですよ」
「そんな風には見えなかったけど……」
「あなたが近藤さんのところで働く前は酒井さんの娘さん、つまり柚菜さんのお母さんが酒井さんを呼びに来たり届け物をしたりしてたんですよ。柚菜さんが来るのは本当にごくたまにでした。それが今はずっと柚菜さんだけでしょう? 酒井さんがあなたに意地悪なのはそのせいです。あんなに分かりやすいのに鈍いですね」
そうだったんだ。
でも好かれるようなことは何もしていない。
むしろ感じ悪いとか辛気臭いとかそんな印象しか与えていない気がする。
それを言うと魁は笑った。
「無口でぶっきらぼうな人が時折見せる優しさに男女問わず弱いものですよ」
優しい、だろうか。
人に対して上手く関われた試しがない。
ずっと友達もいなくて人とどう話していいかも分からないのに。
「それはともかく。そろそろ儀式をちゃんとしたいと思います」
唐突に言われて僕はドキリとした。
「花時雨の一件でどうも雨の間で不穏な動きがあるように感じました。実はあなたには内緒である雨の動向を探っていたんです」
「ある雨って?」
「白雨を霧散させた雨です。多分、あなたの本当の仇です」
「そんな大事なことなんでっ?」
「贖罪です」
「何の?」
「私が先代に雨と契約をするよう進言した、その贖罪です」
「魁が? どうして?」
「少し長くなるのでそこの土手にでも座りましょうか」
魁はそう言っていつになく寂しそうに笑んだ。
いつもの魁らしくない表情に身構える。
「先代が何よりも雨との契約を嫌っていらしたのはご存知ですね? あなたにも口酸っぱく何度も契約はいけないと説いておられました。その先代が契約を二度もしたとは不思議だったでしょう?」
「僕の為、だろ? 橋守を継がなくていいようにずっと引き延ばす為に」
「ええ。契約はしてはいけないと知っていましたが、一方で橋守は今の時代に本当に必要なのかと疑問も持っておられました。ですから、子供を持つ気はなかったのです。子がいなければ橋守も自然と絶えていきますからね。でも、先々代がそれを許しませんでした。平安時代から続くお役目ですから自分達の代でそれを終わらせることに負い目やら何やらがあったのでしょう。せめて孫だけは、という思いが先代にはあったようですが……それも叶いませんでした。あなたが生まれると分かった時、先代はある決意をしたんです」
そこで魁は僕を振り返った。
「雨と協定を結ぼう、と」
「協定? 契約ではなく?」
「そうです。最初はそのつもりだったんですよ。橋は壊さない。けれど、雨のことは雨で、人には干渉しないことを取り決めようとしたんです。橋守がいなくても人に害が及ばないように、あらゆることを考えていたんですね」
でも、と魁は再び前を向いた。
「雨との約束事に効力のない取り決めをしても無意味です。契約だけが確実だと私が進言しました。長い間、橋守と雨とを見て来たので、雨が嘘つきだと知っていましたから」
私が言ったんです、と魁は繰り返した。
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