5.氷雨のアメ

「また道草食ったな……」


 僕の視線の先を追って酒井さんが渋い顔をした。

 通りの向かいに柚菜さんがいた。

 風呂敷包みを手に困った様子で僕達と同じように軒下から空を仰いでいる。

 ふと僕達に気づいて笑顔で手を振り、左右を確認して足早にこちらに駆け寄って来た。

 笑顔の彼女とは対照的に僕は困惑していた。

 彼女と偶然会えたことは嬉しいことだが、タイミングが悪い。

 反射的に右手を握り締め、背後へと隠す。


「雹だなんてびっくり……」

「それ、まだ届けとらんのか」

 酒井さんが彼女の言葉を遮って風呂敷包みを見て咎める。

「違うわよ。途中で中身が間違ってるってお母さんから電話があって、一度引き返してまた行くところなの!」

 柚菜さんの視線に酒井さんはハッ、と何かを思い出したようですまん、と萎らしくなった。

 どうやら酒井さんが包んだもののようだ。

「相変わらずだねぇ」

 ククッと笑う近藤さんをキッと睨んで、

「どれ、わしも行くか。届け先の人がちっとばかりやねこい人でねぇ。遅れるとうるさいんだ。すまんな。今日のことはまた明日にでも聞かせてくれ。せっかく会えると思ったのに残念だったよ」

 そう言い残して軽く会釈する柚菜さんと二人、ちょうど雹が降り止んだ通りへ出て行った。



「で? 何があったんだい?」

 二人と別れた後、近藤さんと魁と僕は店に戻り、いつもの売り物のテーブルを囲んでいた。

 まるで我が家のように魁がお茶と茶菓子を出したところで、近藤さんがそう切り出した。


「……橋守を続けるかどうか……その選択をしました」


 そう言うと、近藤さんはそうか、と言ってお茶を啜って黙り込んだ。

「……どちらを選んだか聞かないんですか?」

「聞くまでもないよ。顔に書いてあるから分かりやすい。続けるんだろ?」

 そんなに分かりやすかっただろうか。

 あの時はきっぱり言ったつもりだけど、まだ心は揺れている。


「ずっと継ぎたくないって言ってたが、決め手は何だったんだい?」

 当然の質問だ。

 だが、僕は即答できなかった。

 だから今の気持ちを正直に話すことにした。

「……正直、今も橋守なんてなくなればいいと思っています。でも、橋守を辞めたらどうなるかって考えたんです。橋がなくてもこちらに来られる雨もいます。なら、僕がいなかったら? 僕の代わりなんてどこにもいないって言うし、それにまだ……」

 そこで言い淀んだ。

 何が言いたいのか、分からなくなる。

 言葉にしてみると、自分が言いたいことと違う気がして魁を見た。

 相変わらずよく分からない若い執事のようなコスプレをしている。

 目が合った魁は僅かに笑みを浮かべた。


「なんで特別な呼び出し方をしたんだ? それに両方選んだって……?」

 魁は全て知ってた。

 知ってて黙ってた。

 氷雨が選択を迫ることも祖父が過去と未来、両方を選んだことも。


 テーブルの上にずっと握り締めていた硝子玉を置く。

 体温で冷たさは和らいでいた。


「それは?」

 近藤さんにも見えるようで、不思議そうに訊いてきた。

「氷雨から貰いました。何かに使うらしいんですが、氷雨も知らないようでした」

「触ってもいいかい?」

 そう言って伸ばしかけた手を掴んで魁が止めた。

「人は触らない方がいいですよ」

「これが何なのか知ってるのか?」

 僕の問いに魁は近藤さんの手を放し、にこりと笑んだ。


「知っていますとも。あなたの下心もね」

 下心? そんなもの……

「橋守を続けると言ったのは白雨の一件があったからでしょう?」

 それもあるけど、本当に自分が継がなきゃって思ったからだ。

 そう言ってやりたかったけど、言葉にならなかった。


 それはつまり。

 それはやっぱり。

 どんなに否定しても心の奥底ではそれが真実だからだろうか。


「人とはそういうものです。どんなに繕っても上辺までしか繕えないものです。内側までは隠せやしません。だから、あなたの本心が知りたくてこんなことをしました。騙して申し訳ありません」

 深々と頭を下げて見せる魁に僕はまだ納得が行かなかった。

 それは近藤さんも同じだったようで。

「おいおい、私を抜きに話を進めないでくれないか? ここは私の店だぞ? それに一応これでも祖父代わりの気持ちでいるんだけどねぇ?」

 両腕を組んでむくれる近藤さんに魁がすみません、と再度頭を下げた。


「私が橋守を騙して氷雨を呼んだんです。続けるか否か、その決断をさせたくて」

「騙し討ちみたいな真似をした理由は?」

「その方が本心が見えて良いかと思って。それに先日、ちょっと彼を試した時、それなりに決意を固めている気がしたので」

 魁の言う『先日』とは白雨の時のことを言っているのだろう。

 あの時、鬼雨の姿で現れて僕を試したんだ。


そうは継がせないつもりでいたからなぁ。でも、それなら瀧が死んだ時にすりゃあ良かっただろう? なんで今頃……」

「いろいろと複雑な事情がありまして」

「複雑って何だい? まだ隠し事するってのかい?」

「……人の気持ちというものを人ではない私があれこれ考えすぎたのかもしれません。私に名をくれた人の最期の願いくらい叶えてあげたいとも思ってしまいましたし」

 魁の言葉に近藤さんも僕も少ししんみりしてしまった。

 歴代の橋守達は魁を名前で呼ばなかった。

 ずっと名前を呼んでもらえなかったから名前を忘れてしまったのかもしれない。

 そんな気もしてきた。

 だからこそ名前をつけて呼んでくれ、人として接した祖父を特別に思っていたのかもしれない。


「で? こいつが何か知ってるんだろ? 何なんだい?」

 沈んだ空気を変えるべく、近藤さんが話題を変えた。


「それは橋守のみぞ知ることが許されているものなので」

 言えません、と魁がお口にチャックするジェスチャーをして見せると近藤さんは顔を歪めた。

「ここまで話しといてそれはないんじゃないか? ずるいぞ」

「そう言われましてもこればかりは橋守の儀式ですから、人にお見せできません」

「そういや瀧の時のも知らないからなぁ」


「儀式ってさっきのじゃないのか?」

 このアメを選択することで正式に橋守を継いだことになるのだと思っていた。

「氷雨はただ他の雨に知らせる役目を負っているにすぎません。このアメを使って儀式を執り行って初めて正式な橋守になれるのです」

「これを使うって? どうするんだ?」

「近藤さんの前ではお話できません」


 魁がそう言って近藤さんに笑むと近藤さんはチッと舌打ちをした。


 硝子玉を指で摘まんで空に翳してみる。

 中の透明で綺麗な水が僅かに揺れる。


 祖父を亡くして数年。

 否応なく橋守を継いだと思っていた。

 そういう道しかないのだと思っていた。

 嫌々やっていた橋守から解放される最後の機会チャンスだったのに、願っていたこととは真逆の選択をした。

 祖父が望んでいたこととも真逆の選択だ。

 それをいつか後悔する日が来るのかもしれない。

 けれどいつか間違ってなかったと思う日も来るかもしれない。


 手放すことは簡単だ。

 嫌なことを続けることはとても辛い。

 けれど、雨が見えなくなる喜びと解放感を想像した時、一抹の淋しさを感じた。

 雨のことをまだよく知らないままここで終わりにしていいのか迷った。


 だから僕は継ぐ選択をした。


 硝子玉を袖の袂にしまおうとして、ふと中の水が一瞬、黒く淀んで見えた。

 本当は心の奥底にずっと留まっている暗い感情がそう選択させたのだと思い出しそうになるのを必死に否定する。


「さ、帰りましょうか?」

 魁に促され、僕は笑顔を繕って頷いた。

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