3.雨を喰らう雨

「名を言え」


 雨同士であろうともお互い名を明かさないのが暗黙の礼儀だ。

 例え仲が良くともお互いの名を知らぬ雨は多い。

 雨にとって名前というものはそれほどまでにも大切なものなのだ。


 だから雨が他の雨の名を知りたがる理由は。

 確か祖父が言っていたのは。


 雨を喰らう為。


 この雨は狐雨を喰らう為に追って来たのか?


「そこから出て来い。人の家に入り込むとは……」


 そこまで言って男の顔が曇り、鋭い視線が僕に向けられた。


「……そいつは橋守か? 橋守と組んで何をするつもりだ?」

「……お前が教えてくれた人になる方法とやらを信じてやろうとしたがな、やはり無理じゃ。騙されたフリをしてお前に取り込まれるくらいなら、いっそ橋守に浄化される方がマシじゃと思うたのよ」

「浄化……? 本気か?」

「妾はただ人に興味を惹かれただけ。人の中にも雨を厭わぬ者がおるのが面白かっただけじゃ。雨は雨。人にはなれぬと分かっておる」

「なら……」

「人になれぬなら、人の世におるのはこんなにも辛い。お前には分からぬことであろうなぁ?」

「ああ、分からぬよ。なぜ人に固執するのか理解できん。だがな、お前も私のことなど分からないだろう?」

「ただ弱った気力を回復するのに妾を喰らいたいだけであろうが」

 狐雨のその言葉に男は違う、と顔を背けた。


 二人の会話を聞く限り、どうやらどちらも弱った状態にあると思われる。


 雨が雨を喰らう時は自身が何らかの影響で弱った時だけだ。

 雨は土に弱く、金属を好み、木を成長させる性質を持っている。

 故に土砂災害に巻き込まれたりなどして弱った雨は、普通は金属に隠れ、しばらく充電するように力を回復する。


 狐雨は金属を探しながら花に隠れていたところ、たまたま人にその花を手折られ、人の家の中に入ることができた。

 そこで家電などに宿って力を回復させていたが、その家に住む人間に心惹かれてしまったのだろう。

 それで居たたまれなくなったか、回復途中で家を出たところ、運悪く手っ取り早く他の雨を喰らって力を回復しようとするこの雨に見つかったのだろう。

 人に心惹かれる狐雨に人になる方法があると騙して喰らうつもりだったようだが、その嘘は既に狐雨にバレているようだ。


 だが、騙して喰らう為だけで追って来た訳ではないようで、違うと否定したきり、険しい表情で押し黙ってしまった。


「……お前がどういうつもりだろうが、妾はお前に喰われてやるつもりは毛頭ない」

「浄化されるよりはマシだろう?」

「浄化される方がマシじゃ。だから、橋を渡らせてくれんかえ?」


 そこでようやく狐雨は僕を振り返った。


「やめろっ」


 店の中に入れない雨はつんのめりそうになりながら店の入り口で叫んだ。

 だが、狐雨はそれを幸いとばかりにその様子を笑い、僕に詰め寄った。


「雨は嫌いであろう? 躊躇うことなどなかろう?」


 僕の心中を見透かすようなと声音に思わず頷きそうになる。


 どう答えるのが正しい?

 祖父ならどうするだろうか。

 あるいは魁なら?


 雨は他の雨に喰われると、己の意思を失い、喰った雨の一部となる。

 浄化されると霧散し、永い時間をかけて再び雨になるが、同じ意思を持つ訳じゃない。

 いずれにせよ、今の『個』としての意思は失われるのであるから、どちらも大差ないように思う。


 なら、狐雨が望む方を叶えてやるのが良いんじゃないだろうか。


 そう思って一歩踏み出した瞬間、入り口にいた雨が叫んだ。


「橋守の手に掛かるくらいなら私が喰らう! 私がお前の苦しみを取り除いてやる! 私が……私の手でっ……!」


 両手を悔しそうに握りしめ、その雨は泣いていた。

 その表情と迫力に僕は一瞬気圧されたが、ふと狐雨を見ると、雨に背を向けたまま俯いていた。


「……喰われれば妾はお前の一部となる。浄化されればいつかはまた雨となる。じゃが、橋を渡れば永遠にこちらに来ることはないと聞く。消えることに変わりはなくとも妾にとってはそれが大事なのじゃ」


 狐雨が橋を渡りたい理由。

 喰われるのでもなく、浄化されるのでもなく、橋を渡りたい理由はそれだったのか。


「なぜそんなに人にこだわる? 人がそんなに面白いものか? 元はといえば人の都合でこうなったというのに」


 男の必死な言葉に何か引っかかるものを感じたが、それが何か考える間もなく、狐雨が笑い出した。


「てっきり妾を喰らいに来たのだと思うたが、お前は一体妾をどうしたいのじゃ? 妾よりも弱っておるように見えるぞ? いっそのことお前も橋守に浄化されるか?」


 狐雨の言葉に男の表情が変わった。

 一瞬驚いたように固まったが、すぐに真顔になり僕をじっと見つめ、それから少し考え込むようにして意を決したように口を開いた。


「私も橋を渡らせてくれ」


 これで判断を迫られる対象がさらに一人増えた訳だ。


「どうして橋を渡りたいんですか?」

 だからとりあえず訊いてみた。

 話が見えないまま進んでいく疎外感もあってか、なんとなく少し苛ついていた。


「……元いた場所に還るだけだ。それに理由が必要か?」

「それなら自力で渡ればいいでしょ? 橋守が渡らせるというのは無理矢理です。浄化するのと変わりないと聞いていますが?」

「自力だろうと無理矢理だろうと橋を渡ること自体に変わりはないだろうが」

「あなたにとっては変わると思いますが?」

 質問を重ねるごとに男が徐々に苛立っているのが分かった。


 狐雨の望みは人のいる世界にはいたくないから橋を渡りたい、とはっきりしている。

 だが、男は狐雨を喰うと言っていたのが、今は一緒に橋を渡りたいと言い出し、その理由を言おうとしない。

 何が本当の望みなのか分からない。


「……弱った体ではここでは長くたないからだ。それならいっそ……」

「金属ならご提供できますよ。安全な場所の確保も……」

「そんなことは望んでないっ! だから私はっ」

 言いかけて男は口をつぐんだ。


 何を言い淀んでいるのか。


「何が望みですか?」


 僕のその問いかけに男は悲しそうに辛そうに顔を歪め、


「……その雨に救われたのだ」


 そうぽつりと零した。

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