4.逃亡劇の果てに

「救われた……というのは?」


 そう問いかけたが男は口を開きかけて閉じ、俯いてしまった。

 狐雨の方を見るが、身に覚えがないようで困惑した表情を浮かべている。

 自分を喰おうとしていた雨が急にしおらしくなっただけでなく、橋を渡りたいだの救われただのと言い出したのだ。

 狐雨は勿論、僕も困惑している。


 一体この雨はなぜここにいるのか。

 なぜ狐雨にこだわるのか。


「……騒動は収まったのかい?」


 ふいに店の奥から静かになった店内の様子を伺うように近藤さんが顔を覗かせた。

 いや、と否定するよりも早く狐雨が一足飛びに僕の目前から近藤さんの前へと移動する。

 止める間もなく狐雨は近藤さんの頬に手を触れた。

 が、その手はすり抜けてしまう。


「な? 妾は人には触れられぬ。妾の声も……どんなに大きく叫んでもこの耳には届かぬ。歯がゆいのう?」


 そう悲しそうに僕を振り返り、それから愛おしそうに近藤さんを再び見つめた。


「……すみませんが、電話をして頂けませんか? 終わったら声をかけますので」

「あ、ああ。分かった」

 近藤さんはそう頷いて再び奥へと引っ込んだ。

 ずっと奥で酒井さんと二人、様子を伺っていたのだろう。

 二人には僕の声しか聞こえていない。

 だから、僕がしばらく沈黙していたし、雨も上がって時間が経ったから全て終わったと思ったのだろう。


 ずっと店の中にいたのはまずかった。

 でも、狐雨を追って来た雨から匿うにはここにいた方が結果的に都合が良かった。

 だが、近藤さんを危うく危ない目に遭わせるところだった。


 咄嗟に狐雨の名を呼べなかった。

 あ、と情けない声を上げ、片手を伸ばしかけただけだった。


 もし、狐雨がもっと力のある雨だったら?

 もし、人に害を為す雨だったら?


 きっと近藤さんは無事では済まなかった。


「橋守を継いだんじゃなかったのかね?」


 近藤さんの言葉を思い出し、自己嫌悪に陥る。

 結局、魁を頼ってしまうのか。


「だーれだっ?」


 ふいに視界を隠され、僕は一瞬パニックになったが、目隠しされた手を掴んで振り返る。

 と、そこには白シャツにサスペンダーで吊ったカーキ色のパンツを履いた、どこか探偵の若い助手風の魁がいた。

 パンツの丈が少し短く、柄の派手な靴下が覗いているのが微妙に気になる。


「早くないか……?」

 驚いて問うと、何事も迅速がモットーですから、とにこりと笑った。


「で、どういう状況ですか?」

 魁を見て一瞬安堵しかけたが、一度に雨を二人も相手にしている状況なのを思い出す。


「二人とも橋を渡りたいと言ってて……」

 そう説明しかけたところを雨が遮る。


「何者だ? 人ではないな?」

 魁に説明しようとしたが、突然の魁の登場は男を刺激したようだ。


「橋守の助手みたいなものです。シャーロック・ホームズのワトソン的な? 明智小五郎の小林少年的な?」

 それでそんな恰好なのか、と僕は密かに納得した。

 が、雨である彼らには魁が何を言っているのか分からないようだった。

 当然である。

 魁もそれは分かっているので、楽しそうな笑みを浮かべる。


「つまりですね、橋守の助手といえば何でしょう? だって言えば分かりますか?」


 魁の楽しそうな笑みは不敵な笑みへと変わる。

 それを見た男は店の入り口から急いで離れた。

 狐雨さえも反射的に魁から距離を取る。が、数歩離れてその場に留まった。

 望んでいることではあっても、本能的に体が動いてしまったのだろう。


「……橋守と話をしてるんだ。刀に用はないっ」

 店の外、道路を挟んで向こう側まで離れた男がそう叫ぶ。

 だが、魁はゆっくりとした足取りで店の外へ出て間合いを詰めていく。

 その後を僕は背後に狐雨を庇いながら、店の入り口ギリギリのところで止まって二人の様子を伺う。


「雨同士の諍いに手出しをするつもりはありませんが、そこに橋守を巻き込まないで頂きたいですね。橋を渡るならご自分で渡ればよろしいでしょう? 橋守にさせるなら正当な理由が必要です。橋守は雨を浄化するだけの存在ではありませんよ?」

 一転、冷ややかな魁の視線を受け、男は一瞬怯んだ。


「……もう良い」


 背後から溜息混じりの声がして振り返る。

 狐雨の疲れた表情に眉をひそめる。


「妾はほんに疲れたのじゃ」

 狐雨はそう言って僕の背後から前へと進み出た。

 そのまま真っ直ぐに道路の向こう側に立つ男のところへゆっくりと歩いていく。


「妾は雨が好きじゃとう人が面白い。晴れた空から降る雨に笑顔を見せる人が好きじゃ。その笑顔見たさに雨を降らせとうなる。ずっと見ていたいが、妾が雨を降らせているとは気づくまい? 妾が見えるようにはなるまい? 触れ合うどころか言葉を交わすことさえできまい? そうと知っててここでただ見ているだけというのは、ほんに辛いのじゃ……」

「私には……お前は救えぬか?」

「……人と雨とは違うものよ。何故なにゆえ妾を喰らいたいだの救いたいだの申すのか分からぬが、妾の望みはたった一つじゃ。人のおらぬ世界ところに行きたい。ただ……それだけじゃ。こんなに苦しい気持ち、知らぬままであったなら良かったのになぁ?」

 そう言って、男のところへ辿り着いた狐雨は、彼を抱きしめ、それからこちらへと向き直った。


「橋を、渡らせてくれんかえ?」


 そう言った狐雨の顔は、悲痛なほどに晴れやかだった。


「ところで……なぜ私が呼ばれたのでしょう?」

 小首を傾げながら魁は僕の前に立った。

「人のいないところに行きたいという雨となぜだか理由は判然としませんが橋を渡りたいという雨がいて、人に害を為す訳でもなく、自らの世界へ戻してくれと懇願する珍しい雨が二人いるだけですよね? 刀の出番はなさそうですが……?」


 橋守さえいれば解決できることでしょう? と言いた気な目に僕は言葉に詰まった。


「ま、それはさておき。橋守としてどうするおつもりですか?」


 魁だけでなく雨二人も僕をじっと見つめて来た。

 魁が解決してくれるんじゃないかと期待した。

 だから魁を呼んだ。

 でも、魁は刀で僕が橋守で。

 だから、これは僕が解決すべきことで。

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