2.橋を渡る理由

 雨は普通名を明かさない。


 橋守に名を明かすのは、翠雨のような古くから橋守と関わるような力のある雨くらいで、この狐雨のような人の生活にも自然にも特に大きな影響力を与えぬ雨は橋守に名を明かさないのが暗黙の決まりとなっている。


 故にこうして狐雨が名を明かしたということは、その『お願いしたきこと』が余程の内容だということだ。

 魁がいない場所でこういうことを安請け合いはできない。

 返答に困っている僕を余所に狐雨は構わず話を続けた。


「あまり時間がないのじゃ。別の雨から逃げておる故、急ぎ橋を渡らせて欲しいのじゃ。この雨も長くは保たぬ。見つかる前にどうか橋を渡らせてくれんかえ?」


 狐雨の言う『橋』はただの橋ではない。

 家の裏手にある小さな古い石橋のことだ。


 その橋を利用する人間はいない。

 利用するのは人ならざる『雨』だけだ。

 しかも自力で行き来できるのは翠雨のような特殊な雨のみで、多くの力ない雨は自力では行き来できない。

 普段は橋守によって橋のこちらとあちらの世界は閉じられているからだ。

 それをこじ開けて翠雨などの特殊な力ある雨は行き来している。


 また、向こうからこちらへ来るのは容易ではないが、こちらから向こうへ行くのは簡単らしい。

 害を為すものはその向こうへ帰すこともあるし、浄化させることもある。

 ただ、橋守が強制的に橋の向こうの世界へと雨を帰した場合、その雨は二度とこちらの世界へ橋を越えて来ることはできない。

 どういう仕組みかは分からないが、橋守が送り帰した雨が再び橋を渡ってこちらへ来たという事例はないと魁が言っていた。


 狐雨は自力で橋を渡って帰ることができるにも関わらず、橋守にこうして渡らせて欲しいと頼みに来た。

 それはつまり、橋守の手で強制的に送り帰して欲しい、ということで、二度とこちらに来るつもりはない、ということだ。


 そんなことを望む雨はかなり稀だ。

 というか、僕が知る限りいない。

 雨にとって浄化されることと送り帰されることに、そう大差はないのだと魁が言っていた。

 だから、橋を渡らせて欲しいと願うことは、殺してくれ、というのと同義に近いと言える。


 それに、狐雨が出て来た花瓶。

 雑多に並ぶ店内の骨董品は几帳面な近藤さんらしく、雑多なようでいてきちんと分類され、整理されている。

 だから、よく使うテーブルの上にこんな花瓶があればすぐに気づく。

 それがいつの間にかあった、というのは不自然だ。


「この花瓶は?」

「雨粒になって花の中に隠れておったら人が手折ってコレに活けたのじゃ。しばらく人の家の中に隠れておろうとも思ったが、飽いでしもうた故、水を溢れさせたら気味悪がられての。ここに置いて行きよったが、ここに橋守がいたとは……ほんに面白いとは思わぬか?」


 狐雨の話が本当なら、僕がここでぼんやり回想に耽ってる間に人が来てこっそり花瓶を置いて逃げた、ということになる。

 今朝出勤した時点では花瓶はなかったし、近藤さんが一緒にいた時なら近藤さんが気づいたはずだ。

 でも、カウンターに人がいれば普通は声を掛けそうなものだが、僕が気づかなかっただけだろうか。


 ふと酒井さんが立っていた場所を見ると、酒井さんの姿がない。

 店内を見回しても酒井さんの姿は見当たらなかった。

 僕の様子から察して店の奥へ隠れたか店を出て行ったのか。


「そんなことより妾の願いを聞き入れるか否か、どうなのじゃ?」


 また、雨を浄化するか否かの判断に迫られる状況に陥った。

 刀を使わずとも橋を渡らせてやることは浄化することと同じことだ。

 何でもかんでも浄化して解決してはいけないなら、渡らせないと言うのが正しいのか?


 雨は『殺す』と言わず『浄化する』と言う。


 その理由は、雨は固体と液体の中間のような存在だからだ。

 それを刀に姿を変えた魁で斬ると雨は気化する。

 気化した雨が再び雨として存在し得るまでには、気が遠くなるほどの年月を要するらしい。

 また、再び雨となっても同じ雨になるとは限らないそうだ。

 故に『浄化する』という言葉を使う。


 橋守は雨と人との世界の境界を守るのが役目だ。

 その境界を侵す雨を浄化することもあるが、何もしていない雨をいくら頼まれたからといって簡単に浄化することはしない。

 それに今は魁は家にいて、この場にいない。

 浄化するには刀に姿を変えた魁が必要で、僕一人ではできないのだ。


 だからまず、僕は理由を訊くことにした。


「なぜ橋を渡りたいのですか?」

「追われておるからじゃとうておるが。お前には耳がついておらんのか? それとも記憶力がないのか?」

「……なぜ追われているんですか?」

「妾が人に心を惹かれてしまったからじゃ。それを快く思わぬ雨は多いからの。それに……人には妾は見えぬ。こちらから一方的に見ておるだけというのも辛いものだからの。それならばいっそ、見えぬ場所へと還るのが良いかと思うただけじゃ。分かったらはよう橋を渡らせてくれんかえ?」


 狐雨の言葉に僕は自分を重ねてしまった。

 想いを寄せる相手を見ているだけというのは辛い。

 ならばいっそ、見なくて済む場所へ行けたらいい。


 狐雨の気持ちはよく分かる。

 けれど、橋守として橋を渡らせるのが正しいのか、それとも断るのが正しいのか。

 例えば、犯罪者が死刑を望むなら死刑にするのが正しいのか?

 いや、それが妥当かどうかによるだろう。

 この場合は?

 渡らせるのは妥当か?

 それに、雨は時々嘘を吐く。

 だから、狐雨が真実ほんとうのことを話しているのか確かめなくてはならない。


「狐雨!」


 橋守が言葉に心を乗せて力強く呼ぶと、その名がまことの名であれば、呼ばれた雨は数秒ほど動きを封じられる。

 雨を浄化する時に使う手段の一つで、本来は逃れようとする雨に対して使う。


 名を呼んだ瞬間、雨が止んだ。


「……妾は嘘は吐かぬ。お前は目が悪いのぅ。お前のせいで見つかってしもうたわ」


 睨みつける狐雨の視線を受け、狐雨の背後に目をやると、店の入り口にはいつの間にか黒い髪、黒い着物に赤い帯、目尻に黒いラインが入る赤い眼の男性が立っていた。

 どことなく狐雨に似ている。


「見つけたぞ」


 狐雨が振り返ると、その男は低い声でそう言った。

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