4.追憶

「……何か勘違いなさっておいでですね? 私は人ではありませんし、私の存在意義はあなたのご先祖様との契約があってこそですからね。好き嫌いで一緒にいる訳ではありません」


 魁の存在意義。


 その言葉にハッとさせられた。

 契約の為に嫌々僕と一緒にいる、と思っていたけど、そもそも魁はその契約のお陰で存在していられるのだとしたら?


 魁は人でもなければ雨でもない。

 雨を浄化する『刀』という役割はあれど、それが本来の姿でもない。

 ならば、魁は一体何なのか。


「急になんです? 私が嫌々お側にいると思ってたんですか? 相変わらず馬鹿ですねぇ。昔に比べれば今の方がずっと楽で快適ですよ。洗濯機も冷蔵庫も炊飯器もいろいろありますしね。それに、私を人扱いしてくださいますし」


 ああ、そうか。

 魁はずっと昔からここにいて、昔は人として扱われなかったと祖父から聞いたことがあった。

 祖父がつけるまで名前もなく、家事や雑用をさせられ、時には蔵に閉じ込められていたこともあったとか。

 人よりもずっと強いのに、契約があるから相手を傷つけることも逃げることもできなかったことを考えると、ダメな橋守に仕える方がずっと良いのかもしれない。


「もう少しの辛抱ですよ。全て終われば解放してあげますから」


 魁はそう笑って台所へと姿を消した。

 その言葉は自分にも向けてのものだろうか。

 僕が魁に縛られてるんじゃなくて、橋守が魁を縛りつけているのに。


 ふと、思い出す。


 両親が事故で亡くなった時、祖父は酷く憔悴していた。

 それでも両親を一度に失った僕を支え、何かと気遣ってくれていた。

 祖父だって一人息子を亡くしたのに。


 両親が雨の日に亡くなったと聞いて、どう思ったのだろうか。

 祖父は知っていたのだろうか。

 雨が両親を殺したことを。


 知っていたなら、なぜ魁だけでなく祖父まで僕に言わなかったのか。


 僕を悲しませたくなかったから?

 橋守の役目に何か支障を来すかもしれないと思ったから?


 ああ、そういえば。

 確か祖父が亡くなる数カ月前だったか。

 珍しく縁側に並んでお茶を飲んでいた時だった。


「雨との契約は百害あって一利なし。それをよく覚えておきなさい。どんなに良い契約のように思えても、こちらが損をするようにできているのだからね」

 絶対契約してはいけないよ、と何度も繰り返し言う祖父を不思議に思ったことがあった。


 祖父が雨とどんな契約を交わしたのか分からないが、そのせいで身を滅ぼすことをあの時すでに悟っていたのかもしれない。


 一体、どんな契約を交わしたのか。

 なぜそんなことをしたのか。


 そして。

 その結果、何が起こったのか。


 何が起こって、両親は、祖父は死んだのか。


 縁側から裏庭を眺める。

 あんなに強く降っていた雨は小雨に変わり、空も夜のように暗かったのが晴れ間が覗き始めていた。


「雨もね、こちらに来たくて来ている訳ではないんだよ」


 ふと祖父の言葉を思い出す。


「雨にもそれぞれ役割というものがあってね、それを果たす為にこちらに来てくれているんだ。橋守はその役割が円滑に果たせるよう、それを手伝う役目もあるんだよ。それにね、人の為にやってるのに誰にも感謝されないっていうのも辛いだろう? だから、橋守にちょっかいを出す雨もいるんだ。雨の話もなかなかに面白いものだよ。橋守でいることはそう悪いことでもないのだがね……」

 そう言いかけて祖父は遠くを見つめて少し沈黙し、それから優しく笑んで僕の頭を撫でた。


 祖父は橋守のことや雨のことをいろいろ教えてくれはしたが、魁を『刀』に変える方法も一度しか教えてくれなかったし、それも話の流れで口にした程度で、しっかり教わった訳じゃない。

 橋守を継がせる気がなかったのだから当然と言えば当然だ。


 でも、思い出した祖父のその言葉は、どことなく本心では橋守を継いでほしかったのかな、と思わせるものだった。

 橋守を継がせたくなかったのは両親で、祖父は継いでほしかったのかもしれない。

 僕に橋守を継がせたかったのか否か、その本心を今となってはもう聞くことはできない。


「もし……困ったことがあったら……」


 そう言えば、祖父がふと口にしたことがあった。

 あの言葉の先は何だったか。

 確かあれは両親が亡くなってこの家に来て間もない頃だった気がする。

 ああ、確か。

 これが橋だよ、と教えてもらった時だ。

 あまりに小さな石橋で驚いたし、それに橋について何か教えてもらってそんなことができるのか、と感心した気がする。

 それを聞いたのはあの時だけだった。

 何を聞いたんだっけ?


「まだこちらにいらしたんですか。夕食の用意ができましたよ」


 ふいに掛けられた声に我に返り、振り返ると呆れ顔の若奥様が立っていた。

 時々、それが魁だと認識するのに時間がかかる。


「……魁」

「なんです?」


 名前を呼んで返事が返って来るとどこかホッとした。


「なんで橋を造ったんだろう?」

「昔は雨は貴重だったんですよ。雨乞いの為に人柱やってた時代です。作物が育つか否かは生死に係わりますからね。雨を自在に操れれば神様に等しい存在になれましたから」

「でも今はそんなの必要ないじゃないか。なぜまだ残しておくんだ?」

「……橋を造った当時は人の命を守る為でした。飢饉から救う為でもあり、人柱で犠牲になる人を無くす為でもありました。今はその必要はありませんが、人の命を救うという観点では同じです」

「どういう意味?」

「それについては鬼雨との『契約』の話をしなくてはいけなくなるので、いずれまた。いろいろと片付いてからお話すると言ったはずですが?」

「そう……だけど……」

「夕食が冷めますから」

「継ぐから教えてくれないか?」

「知りたいという理由だけで継ぐとおっしゃってるようにしか聞こえませんが?」

「違う」

「雨がお嫌いなのに?」

「……そこは……努力するし」

「二十年以上苦しんで来られたのに? そのせいでご家族を亡くしたかもしれないのに?」


 魁の言葉に思わず俯く。

 魁の言う通りだからだ。

 知りたいからそう言った。ただの口先だけの決意だ。

 雨に対して嫌な思いしかしてこなかった。

 それを努力で歩み寄れるかと聞かれれば、そう簡単なことではない。

 気持ちというものは複雑で難しい。


 でも、橋守でいようと思ったのは確かだ。

 雨が嫌いだった。

 生まれてからずっとだ。

 両親が死んだのも祖父が死んだのも雨のせいかもしれないと知って余計にだ。

 だけど、先日の狐雨を見て、少しだけ雨のことを知りたいと思った。

 翠雨も悪い奴じゃない。

 僕は嫌ってばかりで雨と一度たりともちゃんと向き合ったことがなかった。


 食わず嫌いだったんじゃないか?

 ちゃんと付き合えば、雨のことをもっとよく知れば好きになれるかもしれない。


 そんな考えが一瞬過った。

 だから橋守でいようと、いや、ちゃんと橋守をやってみようと思った。

 ただ、ずっととは考えていない。

 あの雨の名前が分るまで、という期限付きならば、だ。


 黙り込んだ僕に魁は深い溜息を吐いた。


「……ま、そんなにお知りになりたいなら教えないこともないですけど?」


 勿体ぶった言い方に僕は思わず魁を睨んだ。

 が、魁は悪戯を思いついた子供のように不敵に笑んで、ご飯ですよ、と僕を台所に促した。

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