第陸話 氷雨:hisame

1.行商の幽霊

 俳句において氷雨ひさめは夏の季語で、主にひょうを指す。

 だが、冬のみぞれに近い冷たい雨も氷雨と呼び、冬の季語として用いることもあるようだ。

 さらには大雨、甚雨と書いて『ひさめ』と読み、その字が示す通り土砂降りの雨のことを指す場合もある。


 同じ読みでも季節や降り方が違う。

 同じ読みでもその表情は違う。


***


「今日も暑いねぇ……そろそろここも扇風機骨董品なんか捨てて、エアコン文明の利器を使ったらどうだ? 骨董屋だからって骨董を使う必要はないだろうが」

 扇子をせわしなく動かしながら、呉服屋の酒井さんが文句を言う。


「どうもエアコンの風が苦手でねぇ。それにうちは店は構えているが、茶会や料亭なんかが贔屓筋だからね。店に客が来るより出向くことが多いから」

 この骨董古月堂こげつどうあるじ、近藤さんは両腕を組んで唸った。


 二人は今日も今日とて、店内で売り物のテーブルに、これまた売り物の将棋盤を挟んで座っている。

 酒井さんはよく店を抜け出してここに来ては、将棋だ囲碁だのをしながら世間話をして帰って行く。


 僕はただそれを店のカウンターから眺めたり、一緒にお茶をしたりする合間に帳簿の整理や店内の掃除など雑務をこなす。

 気楽なものだと思うかもしれないが、こんな日が多いというだけでこういう日ばかりでは勿論ない。


 冷たいお茶のお代わりを持って行くついでに盤面を覗き込むと、近藤さんの方が優勢だが、まだ序盤なので酒井さんにも大いに逆転のチャンスはある。

 二人から指導を受け、僕も将棋や囲碁には少し詳しくなった。

 とはいえ、まだ二人の相手ができるほどの実力はないけれど。


「冷たい飲み物はありがたいが、やっぱりエアコンの風が一番だと思うがね。年寄りにこの暑さはこたえるよ。客が来ないって言ったってなぁ、ここにずっといる従業員のことも考えてやらにゃあ。ブラック企業だって訴えられるぞ」


 冷たいお茶を一気に飲み干して、酒井さんは僕を見上げて笑った。

 すぐさまお代わりを注ぐ僕に近藤さんは顔をしかめた。


「もっともらしいこと言って、自分がここで涼みたいだけだろうが。ここに入り浸ってると、まぁた柚菜ゆうなちゃんに怒られるぞ」

 ふいに出た名前に反射的にドキリとした。

 そんな僕を見て二人が同時に意地悪い笑みを浮かべる。

 彼らのそんな顔になんとなくカウンターの奥に戻り帳簿を開いた。

 特にそれを開く理由も仕事もなかったのだけれど。


 そんな僕の様子を見て、二人はひそひそと何かを話していたが、再び静かにパチパチと将棋を指す音が聞こえ、他愛のない世間話を始めた。


 僕はただぼんやりと帳面を眺めながら、白雨はくうのことを思い出していた。

 あれから数週間が過ぎ、月も替わって八月になった。


 魁が雨かもしれないと疑い始めると魁の一挙手一投足が気になり始めた。

 魁が僕に両親や祖父のことを話さなかったのは、僕がショックを受けるからとかそういう理由じゃなくて、魁もまた橋守がいなくなればいいと思っているのでは、と思うようになった。

 雨にとって橋守は邪魔な存在だ。

 橋守がいなくなれば浄化されるかもしれないと怯えることもなくなる。

 そうすれば互いに名を明かすこともできる。


 狐雨の時、別れる時に名を知るなんて淋しいと思った。

 そういえば魁の本当の名前は何だろう?

 ケンさんが訊いた時、魁ははぐらかした。

 魁は多分、覚えている。

 そんな気がした。


「そういやぁ、先日珍しいものを見かけたよ」

 ふいに酒井さんが仰いでいた扇子の手を止めて話し始めた。


「何だっけ? ほら、竹やなんかで編んだ箱があっただろう?」

行李こうりかい?」

「そうそう、それだそれ! あれを背負って、何が入ってるんだか分からんのだが、何かを売り歩いてる女の人がいてねぇ。それが意外と若い子なんだが、青い着物を着てうてくださいって言いながら歩いてるんだよ」

「ドラマか映画の撮影じゃないか?」


 近藤さんの言葉に酒井さんは片手を顔の前で振って否定した。


「違う違う! 撮影のカメラもなかったし。わしが幼い頃はここら辺でも時折見かけたがなぁ。最近はとんと見かけなくなったが、今もまだやってるもんなんだねぇ」

「何を売ってるんだかねぇ? 案外幽霊だったりしてな」

「盆が近いしな。って訳でそろそろ参ったって言う気になったか?」

「それを言うのはそっちじゃないかね?」


 パチッ、と近藤さんが指した手に酒井さんは顎をさすった。


「ぬ。そう来たか……」


 将棋の合間のそんな会話を僕はただぼんやりと聞き流していた。

 酒井さんも近藤さんもこの時はまだただの他愛ない世間話の一つだったのだが。


「なぁ」

「ん?」

「お前さんが先日話してた行商の話なんだが……わしも昨日見たよ」

「幽霊だったか?」


 それから数日後。

 今日も今日とて酒井さんと近藤さんの二人は店で将棋を指していた。

 指し始めてすぐ近藤さんがそう口火を切ったのを酒井さんが茶化す。

 が、その近藤さんの様子は真剣だった。


「……そうかもしれん」


 近藤さんの表情と口振りから酒井さんはチラ、と僕を見た。

 後から考えれば、幽霊じゃなくて雨じゃないのか、と問う気持ちがあっての視線だったのだと思う。

 でも、この時の僕はそれに全く気づかなかった。


「見える質だったかぁ? わしが見た時は足はあったと思うが、消えたりでもしたか?」

 酒井さんが問うと、近藤さんは足はあったんだけどねぇ、と言葉を探すように顎を擦った。


「どうにも顔を思い出せなくてね。綺麗な女性だと思ったんだが……」

「単に歳なだけだろう?」

「それじゃあんたは憶えているのかい?」

「そんなジロジロ見た訳じゃないからなぁ」

「幽霊だと思ったのは顔を思い出せないだけじゃないんだ」

「透けてたか?」

「違う。真面目に話してるんだぞ?」

 茶化す酒井さんを近藤さんが睨む。


「その行商の女を見た時、結構人通りがあったんだよ。誰だって時代錯誤な行商がいたらそっちに視線をやるだろう? あんたにこの話を聞いてたってのもあるが、私だって思わず足を止めて振り返ったよ。でもな、ふと周りを見たら、誰も彼女に気を止める人がいなくてね。さすがにちょっと寒気がしたね」

 そう言って近藤さんは思い出したように身震いした。


「そりゃ確かに妙だな……よし、それなら魁に訊いてみるか」

 不意に出た名前にドキリとして帳簿から完全に顔を上げた。


「さて、今日はどこからどんな姿を見せてくれるかねぇ?」

 ニヤリとまるで悪代官のような笑みを浮かべながら、酒井さんがスマホを操作した。


「なんだ、買ったのか」

 ボソッと近藤さんが舌打ちする。


 酒井さんにスマホで呼び出された魁は普通に店の入り口から姿を現した。

 が、その恰好は白と黒のボーダーの囚人服を着た爽やか好青年だった。


「お待たせしましたぁ!」


 仁王立ちで現れた魁に酒井さんは爆笑し、近藤さんは呆れた顔をした。

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