2.契約

 縁側に魁が座り、鬼雨は裏庭に佇んでいる。

 雨は家の中にはいれないし、れないのが決まりだ。


 改めて見た鬼雨の姿は華奢で儚げな若い女性のものだった。

 どこか雪女を思わせる風貌は美しいけれど底知れぬ怖さを感じさせる。


 ずぶ濡れになった体を拭き、着替えた僕は魁の隣に座った。

 鬼雨は雨だからか全く濡れていない。

 魁もまた一瞬で和装に変わると、濡れていた体は髪も含めて綺麗に乾いていた。便利なものである。


 そうこうしていると、いつの間にか風は止み、雨脚も和らいでいた。


「……正直、迷っているのです」


 魁がそう切り出すと、鬼雨は怪訝そうな表情を浮かべた。


「先代は雨に殺されましたので」


 続けて魁がそう言うと、鬼雨は途端に驚いた表情になり、そして寂しそうな悲しそうな表情へと変わった。

 僕はというと、ずっと疑問だった謎が解けたような感じで「ああ、やっぱり」と思った。

 祖父が亡くなった時、雨が降っていたのが引っかかっていた。

 だから、驚くというよりも納得した。


「……橋守が雨に負けることもあるのだな。だが、そういう噂はついぞ聞かぬが?」

「私にとっても初めてのことです。しかも私の目の前で、でしたから……」

「お前は橋守の『刀』だろう?」

「ええ。でも『契約』の前では無力です」

「『契約』?」

「あなたとの『契約』の直後、別の雨と『契約』しました。交わさざるを得ないもので、罠であることは明らかでしたが、それでも上手く立ち回れると思ったのです。でも……相手の方が上手うわてでした」

「……そうだったか。その『別の雨』とやらは今どうしている?」

「さあ? 先代は殺されてしまいましたが、その時深手を負わせることはできました。傷が癒えるまでは息を潜めていると思いますが……」

「それで噂を聞かぬのか。橋守を殺したとなれば、自慢せずにはいられぬからなぁ」

 鬼雨はそう言って口元に嘲笑を浮かべた。


「……そういった事情がありますので、あなたとの契約を引き継ぐ準備がまだ整っておりません。先代が亡くなりこれが橋守の役をして八年経ちますが、まだ正式に継いではおりませんので、今少しお時間を頂けないでしょうか?」

 魁はそう言ってその場に正座し、深々と丁寧に頭を下げた。


 正式に橋守を継いでいない?

 魁はそう言ったのか?


 僕が魁の言葉に困惑していると、鬼雨は両腕を組み、軽く溜息を吐いて僕を一瞥した。

「なるほど。私との『契約』のせいか。あれは先代の橋守と交わしたもの。引き継ぐ引き継がないはそちらに任せるが、時間があまりないぞ」

「分かっております。さらに精進させますので、どうぞ生温かく見守って頂けると幸いです」


 魁の様子に再度溜息を吐いて、ああ、そうだ、と鬼雨が空を仰いだ。


「今の話で少し思い出したことがある。ここ最近行儀の悪い雨がいると聞く。『別の雨』とやらがその雨かもしれぬなぁ」

「行儀が悪い、と言いますと?」

「雨を喰う、という意味だ」


 雨を喰う雨?

 それって……


「目の下に墨を入れている雨ですか?」

 思わず口にした疑問に鬼雨は一瞬、不機嫌そうにした。


「見た目は知らぬが……名は知っている」

「名を……教えては頂けませんか?」

「無理だな。お前もそれくらいは知っておろう? 名を明かすのは最大の禁忌なのでな、悪いがそれだけは何が起ころうとできない」

「そうでしたね。不躾なことをお聞きして申し訳ありません。では、他のことはお聞きしてもよろしいですか?」

 僕の代わりに魁がそう謝ると鬼雨は楽しそうに笑った。

「知っていることは名だけだ。他は何も知らぬ。だが、お前が浄化してくれるならば協力してやってもいいぞ。行儀の悪い雨は好かぬからな。何か分かれば教えてやらんこともない」

「ありがとうございます。その条件で構いません。橋守も依存はありませんね?」

 不意に振られ、僕はただ首を上下して頷いた。


「どちらが橋守だか分からぬな」

 鬼雨は溜息交じりにそう言い、魁はすみません、と頭を下げた。

「では、契約を引き継ぐ気があるなら私を呼べ。気は短くはないつもりだが長くもないのでな」

「承知しております。近々またお呼び致しますので……」

「それは継ぐ気があるということか?」

「どちらにしろ結果をお伝え致します」

「……そうだな。楽しみに待つとしよう」

 鬼雨は一瞬笑みを浮かべ、水の渦となって地面に吸い込まれるようにして消えていった。


 庭に降り注ぐ雨は鬼雨が去ると、一層弱まってきた。


「なあ、魁……」


 縁側から立ち上がる魁に庭を見つめたまま声を掛ける。


 祖父が亡くなった時、雨が降っていた。

 それは両親が事故に遭った日も。


「……僕の両親が死んだのも、雨のせいなのか?」


 ずっと心の奥底に引っかかっていたことだ。

 僕のせいじゃないかって思っていた。

 でも、たまたま雨が降っていただけで、両親の死と直接関係がある訳じゃないと否定し続けてきた。

 僕が雨が見えるせいで両親が死んだなんて思いたくなかったから。


 でも、祖父が雨に殺されたのなら両親だって。

 そう思った。


「それは……」


 魁が言い淀む。

 魁にしては珍しく歯切れが悪い。


 それはつまり「そうだ」と肯定しているも同じだ。


 祖父のこともだが、契約についても僕は何も知らされていない。

 魁がそれを今まで僕に隠していたことが理解できない。

 僕はただの孫じゃなくて、橋守を継いで雨のことも知っているつもりだ。

 なぜその僕にまで隠す必要があったのか。

 それに僕が橋守を継いで既に五年も経っている。

 五年も秘密にしていた理由が分からない。

 魁はまだ他にも何かを隠している。


 魁は人ではない。


 けれど、雨とも違う。

 そんな魁は橋守に仕えているけれど、本当は何を考えているのだろう?

 橋守よりもずっと強く、雨よりも強いのに、普段は使用人として尽くし、雨を浄化する為に刀として使われる。

 封建的だった時代には道具として酷い扱いを受けていたようだし、そもそも祖父がつけるまで名前すらなかった。


 魁は人でも雨でもないけれど、ただの道具でもない。

 感情こころを持つ生き物だ。

 誰かを愛することもあれば、逆に憎むことだってある。


 僕は魁のことをよく知らない。

 多分、深く知ろうとしたこともない。


 今までの橋守達はどうだっただろう?


 橋守としてあまりにも頼りない僕を魁はどう思っているのだろう?

 僕が嫌いだから契約のことも祖父のことも両親のことも教えてくれないのだろうか。


「魁、僕は雨が嫌いだし、橋守として未熟なことは自分でもよく分かってるつもりだ。でも、僕の・・祖父のことだし、僕の・・両親のことだ。雨や橋守のことだけじゃなくて僕のことも話せないほど僕のことが嫌いなのか?」


 鬼雨と知らない話ばかりをする魁を目の当たりにして、急に孤独感を覚えた僕は、言うつもりのなかった言葉を一気に吐き出してしまった。

 まるで一人置き去りにされた小さな子供のように、今にも泣き出しそうな自分を心底情けないと思いながらもそれを止めることはできなかった。

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