番外編:雨夜の月

1.嚆矢(こうし)

魁の一日

「今日は洗濯日和ですね」


 玄関から外に出た魁は空を仰いだ。


 一二月。

 夜が明け始める少し前の暗い空の下。

 魁は郵便受けの前に佇んでいた。

 そこに一台の自転車が近づく。


「おはようございます」

「今日も寒いですね」

「ええ、本当に。もうすぐ試験でしょう? 風邪など引かないように気をつけてくださいね」

 新聞配達の青年から直接新聞を受け取り、魁はにっこりと笑んだ。

「はいっ、ありがとうございますっ」

 青年は笑顔で走り去る。

 それを見送る魁は若奥様の姿をしていた。


「今時珍しい好青年ですねぇ」

 呟いて家の中に入る。

「それに比べてうちのは……」

 溜息を吐きながら台所へ移動し、今度は若女将のような出で立ちになった。

「久し振りに和食にしましょうかね」

 言いながらご飯を炊き始め、朝食とお弁当の仕度を始めた。


 午前七時。


「おはよう……」

 まだ眠そうなこの家の主、晴一が起きて来た。

 晴一の眠りの邪魔をしないように洗濯機のスイッチを入れる直前までを起きるまでに作業し、起きて来たのを確認するとスイッチを入れる。

 その間に朝食を済ませ、洗い物をし、仕度を整えた晴一を仕事に送り出し、休む間もなく洗濯物を干す。


「洗濯機は偉大ですねぇ」

 冬になるとよく呟く魁の独り言だ。


 洗濯が終われば部屋の掃除をする。

 日々大掃除の如く隅々まで掃除し、それが終わると今度は買い物へ行く。


「あら、魁さん。今日のお夕飯は何?」

 八百屋の前でリョウさんとバッタリ会うのはよくあることだ。

 リョウさんにとっては魁の方が人生の大先輩になる。

 献立の相談や家事のコツなど二人の会話の中心は専らそういった話題だ。

「インターネットでレシピ動画なんてものを見まして、ちょっと変わったものを作ろうと思ったのですが……」

「私もケンさんに教わって時々見てるわ。とても分かりやすいし便利な物があるわよねぇ。材料が揃わないの?」

かぶが思いの外高くて……献立を変えようかと思ってるところです」

「あら。それならうちにいらっしゃい。何個必要なの?」

「四個ですが作ってらっしゃるんですか?」

「いいえ。親戚に農家さんがいてね、時々野菜を送ってくださるの。小蕪でもいいかしら?」

 言いながら何かを思いついたように両手をポンッと叩いた。

「そうだ。うちで一緒に料理しない? その御料理、教えて頂けないかしら? 他に何が必要なの?」

 そんな感じでリョウさんの家で料理をして帰ることも多々。


 その帰り道、スマホが短く鳴る。

 魁は人ではないのでスマホの名義は晴一だ。

 契約上は晴一が二台持っていることになっている。


 みずゆき家の財政はあまり良くない。

 晴一は正社員とはいえ、骨董屋の仕事での収入はアルバイトに毛が生えた程度のものだ。

 祖父や父の遺産があるとはいえ、古い家の修繕費など支出もそれなりにあり、切羽詰まるほどではないが余裕があるとも言えない。

 それ故、魁は自分の生活費くらいはと密かに株をしてみたり、フリマアプリなどで不用品などを売ったりしていた。

 たまに古い着物を自分でリメイクしたハンドメイド作品を売ることもあり、コスプレ以外の密かな趣味でもある。


「なかなか良い値段で売れましたね」


 売れたことを通知するメールをしたり顔で確認していると、電話が鳴った。

 酒井さんが近藤さんに将棋で負けているので加勢しに来いとの内容だった。

 はいはい、と返事して歩いて骨董屋へ向かう。


「なぁんだ。今日は普通に登場かい」

 入り口の戸を開けると酒井さんが落胆した声を上げた。

 機嫌が悪いと思いきや、そこまで悪そうに見えなかった。

 盤上を覗き込むとどうやら窮地を脱したようだ。


 晴一はカウンターで帳簿を広げてぼんやりとしていた。

 その帳簿の上にはスマホが置いてある。

 恐らく柚菜さんのことを考えている。

 ようやく片想いが実り、お付き合いが始まったのだが、これまで友達が一人もいなかった晴一に恋だの愛だのはまだハードルが高すぎるようで、なかなか思うようにいかないようだ。

 メールが来ても返事を打つのに一時間以上かかるし、どう返事すればいいのか魁に相談する始末。

 今もきっと返事に悩んでいるところだろう。


「で? 私はどちらに加勢したら宜しいので?」

 魁はそう言いながら渋いプロ棋士のような姿に変わった。

 二人の間で一局につき一回だけ『魁に加勢してもらう』という特殊ルールを作っている。

 その為に時々こうして呼ばれるのだ。

「わしが呼んだんだからわしに、だ」

「窮地を脱したようにお見受けしましたが?」

「呼んだからには取り消せんというルールだからな」

「そうでしたか。ではこちらに歩を打ってはどうでしょう?」

「む? ここか?」

「はい。それでは私は夕飯の仕度がありますので失礼します」

「まあまあ。あともう少しで晴一も上がりだから一緒に帰ったらどうだい?」

 近藤さんが引き留める。

「……まあ料理はほぼできてますから。じゃあちょっと冷蔵庫をお借りしますね」

 そうやって結局近藤さんにも加勢し、近藤さんが勝ったところで晴一と一緒に家路を辿った。


 ここ最近は帰り道も夕食の時も話題は柚菜さんのことばかりで。

 以前は骨董の話や着物の話、あとは雨の話などが中心だったのが随分変わったものだと魁は溜息を吐く。


「平和ですねぇ」


 魁は眠らない。

 一日を終えると台所で一人お茶をする。


 このところ昔を思い出すことが多くなった。

 過去を振り返ることなどなかった魁はそんな自分の変化に戸惑うこともある。


 先代、瀧一郎そういちろうはとても革新的だった。

 彼の代まで名前で呼ばれることはなく、使用人というよりも道具のように扱われていた。

 ずっとそれが普通だと思っていた。

 そういうものだと。

 人ではない、雨でもない自分はそういう存在なのだと。


 それが名前を与えられ、人として家族として迎えられた。

 そんな扱いを受けると勿体ないとも思ったし、戸惑いも多かった。


「鬼は人外を意味し、斗は大きな柄杓を意味する。漢字の意味は『さきがけ』『堂々として大きい』『かしら』なんてのがある。お前にぴったりだろ?」


 瀧一郎が橋守を継ぐとなった時に父親に内緒でそう名を与えてくれた。

 その時、本当に久しぶりに最初の橋守のことを思い出した。

 正しくは当時は水寄みずよせと呼んでいたが。


 名は清衡きよひらといった。

 その水寄が橋を造る前に魁を創った。

 単なる刀であったが、刀にも名を与えていた。

 最初は名はあったのだ。


神立かんだち』と付けられた。


 雷を指す言葉でもあるが、雷を伴う急な雨のことも指す。

 雷は神の言葉であると信じられていた。

 空を斬り裂くイメージもあり、刀の名にふさわしいと思ったのだろう。


 最初の橋守であり、自分の生みの親でもある清衡を特別には思っていた。

 でもずっと忘れていた。

 自分の名も。

 そして、契約によって生かされているということも。


 誰もが橋守を継ぐことを選んで来た。

 継ぎたくないと言った者もいたが、それでも継がないという選択をした者は一人もいなかった。

 それが当たり前だったからだ。

 長い長い間、ずっと忘れていたことを今になって思い出すことが増え、夜が短くなった気がした。


 眠らない魁は夜は家事をする時間であったり、趣味に当てる自分の時間になっていた。

 それが今は昔を回想する時間となっていた。


「今回ばかりは橋守もなくなってしまうと思ったのですがねぇ」

 ふと溜息を吐く。

 流家は代々水に関する名が付けられてきた。

 清衡も清が『さんずい』で水に関するものだし、先代も瀧一郎で瀧の字が同じく『さんずい』だ。

 だが、晴一は先代と晴一の両親の願いから初めて水とは無関係の名となった。


 きっと晴一は橋守を継がない。

 雨を嫌う彼が継ぐはずはないと思った。


「継ぐ気にさせたのは清衡あなたの契約が呪いの如くこの家に巣くっているからでしょうかね? 私は……何なのでしょう?」


 魁は自分が契約によって創られたと知っている。

 でもその契約がどのようなものであったか、正確には覚えていない。

 書面は大昔の戦火で失われている。

 それに刀としての名は神立であったが、他に名があった気がする。

 人の時の名が別にあったような。


 創られて生まれたばかりの頃は人の感情を解せず、ただ雨を浄化するのに使われていただけだった。

 普段は蔵の中に閉じ込められていた。

 三代目の頃から人の姿で道具のように家事をさせられた。

 その頃になってようやく人の世界を理解し始めた。


 それまで本当に何も理解して来なかった。

 だから清衡のことは記憶に薄い。


「なんでしたっけねぇ?」


 その名を思い出そうとして過去を思い出しているうちに夜が明ける。


「今日は雨が降りますかねぇ? そろそろ瑞花ずいかの季節になりますか……」


 郵便受けの前に立ち、空を仰ぐ。


 一日が長いと思う日が増えた。

 けれど、時が経つのは早い。

 そう矛盾したことを思いながら、魁の一日は今日も過ぎて行く。

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