3.揺れる心

「話さなくていいのか? 何も知らないんだろ?」


 店を出ようとする柚菜さん達を引き留めるように雨がそう僕に向かって笑みを浮かべた。

 あともう少しだったのに、と心の中で舌打ちをする。

 柚菜さんも僕達のいつもと違う雰囲気をいぶかしんでいるのが分かった。


 話してしまおうか。


 そうすればこの事態もちゃんと説明できるし、下手な嘘を重ねなくて済む。

 それに近藤さん達にもこんな芝居を打ってもらう必要もなくなるし、何より気持ちが楽になる。


 そう思ったが、相手が近藤さん達だから僕をすんなり受け入れてくれているのだし、そういう関係を祖父が築いてきたという前提の上に成り立っていることだ。

 柚菜さんが彼らと同じように僕を理解してくれるかどうかは分からない。

 柚菜さんは祖父の代から橋守や雨のことは一切何も知らされていないのだから。


 そう思った瞬間、嫌な思い出が蘇る。


 小学生の頃、クラスメイトにいじめられていた。

 雨が降ると僕が何もないところに向かって話したり、逃げ回ったりしていたから周囲からは『変な奴』と思われ、揶揄からかわれたり物を隠されたりしていた。

 でも、次第にいじめられなくなった。

 僕がただの『変な奴』ではなく、何か分からないけど『怖い奴』だと思われたからだ。

 僕の側にいると水の事故が起こりやすいから、関わらない方がいいと認識されたのだ。


 雨は見える人にしか声は届かないし、触れることができない。

 だから直接普通の人を傷つけることはできないが、水を操ることはできる。

 足元を滑りやすくして転ばせたり、川などで遊んでいる子を溺れさせたりすることは可能だ。


 そんなことが雨が降るたびに立て続けに起きたことがあって、それ以来誰も僕に話しかけなくなった。

 いじめられなくなったけど、一人でいることはいじめられているのとそう変わらないくらい辛いことだった。


 でも、仕方ない。

 僕は『普通』じゃないから。


 そう思ってやり過ごしてきた。

 小学校、中学校、高校、大学とどこへ行っても僕は一人だった。


 だが、僕と同じ境遇のはずの祖父は、三人の幼馴染がいて、橋守や雨のことを受け入れてくれるような関係を築いていた。

 僕は祖父が築いたそんな輪の中に入れてもらっているだけにすぎない。

 僕にはそんな人間関係は築けなかったし、これからも築く自信はない。


 クラスメイトの僕を見るあの目や表情。

 目は口程に物を言うとはよく言ったもので、時にそういったものは言葉よりも遥かに雄弁で、露骨に心をえぐる。

 あんな思いはできればもうしたくない。

 特に柚菜さんにそんな目をされたら……そう考えただけで怖くなる。


「なぜ隠したがるのか理解できんな。一人だけ知らないなんてかわいそうじゃないか。なあ?」

 雨はそう言って柚菜さんに同意を求めた。

 柚菜さんは少し困った表情で僕を見、それから説明を求めるように酒井さんを見た。


「……物事にはタイミングというものがあってだねぇ」


 酒井さんはチラチラ僕を見ながら、さてどう答えたものかと助け船を求めて来たが、僕もこういうことは苦手だ。

 だから、いっそ口封じに浄化してやろうか、と不穏な考えがぎる。


「……私は無理だぞ?」


 ふいに僕の心を見透かしたように雨が真面目な表情で見上げて来た。

 その深い翡翠色の瞳に射貫かれたように言葉を失い、息を飲んだ。


「……話は後だ。風邪を移したくないからね。今日はもう店閉まいするよ」

 近藤さんがこの不穏な空気を変えようとしたが、雨は不敵な笑みを浮かべ、近藤さんの背後に目をやった。


「そこに隠してるやつ、私のだろう?」


 青磁の花器のことだ。

 中に雨を入れた。

 雨はこの翠雨が降らせたものだ。


「返してもらおうか」


 雨は自身が降らせた雨粒に執着を持たないし、雨粒は雨の一部という訳でもない。

 だから、返せと言われたことは一度もないし、返したところで何か雨に得がある訳でもない。

 ただ、僕を困らせるために言っているにすぎない。


「悪いけど、これはお店の商品だから……」

「違う。中身だ。分かってるだろ?」


 誤魔化そうとしたが、雨は楽しそうな笑みを浮かべてこの状況を楽しんでいる。

 柚菜さんの怪訝な表情に僕は右手を握りしめた。


 雨の名を呼べば一瞬動きを止めることはできる。

 でもほんの一瞬しか止めることはできない。

 魁がいれば刀に変えて斬りつけることができる。

 無理だと言われたが、浄化はできなくとも傷を負わせるくらいはできるはずだ。

 魁を呼べば黙らせるくらいはできる。

 魁を、呼べば。


 そう思った瞬間。


 ガラリと店の戸が開き、魁が姿を現した。


「やっぱりここにいたね。どうも私の隠し子がお邪魔してたみたいですみません」


 深々と頭を下げた魁は、ご近所向けのお手伝いさんの恰好で現れた。

 その姿は柚菜さんも『お手伝いのタキさん』として知っている。

 魁が『私は飯炊き婆さんじゃないんですけど』と文句を言った際に、祖父が『飯炊きのタキさん』と揶揄って言ったのが由来らしい。

 外見は小柄で少しぽっちゃり気味の優しそうなオバサンだ。

 そのタキさんが女の子を自分の『隠し子』だと言ったのだから柚菜さんは驚いて僕達を振り返った。


 僕達も少し戸惑ったが、そんな様子に柚菜さんは一人合点がいったような表情を見せた。


 タキさんの隠し子というのをその名の通り隠していた訳か、と。

 それで皆の様子がおかしかったのか、と。


 魁はそんな僕達に軽く会釈して素早く翠雨を抱っこして店を出て行った。

 店の外で翠雨が不服そうな声を上げているのが聞こえたが、すぐに遠ざかって行くと、店の中に漂っていた嫌な空気は消え、柚菜さんを除くその場の全員がほぼ同時に安堵の息を吐いた。


 嵐が過ぎ去った。

 そう思ったのも束の間。


 僕はふと柚菜さんを見た。

 彼女はさっきまでここにいた少女が人間じゃないと知ったらどんな顔をするだろう?

 お手伝いのタキさんも人間じゃないと知ったらどんな顔をするだろう?


 そして、僕が『普通』じゃないと知ったら。

 彼女はどんな目で僕を見るのだろう?


 恐怖もあるけど、もしかしたら酒井さん達のように理解を示し、受け入れてくれるかもしれない。

 だって彼女は酒井さんの孫だし。

 だから、話してみるべきだろうか。


 そんな淡い希望が僕の中にじわりと広がり始めていた。

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