3.雨、宿ル

「初めて雨が見えた! って、はしゃぐところじゃないわね。あなたは花を散らす為に来たとおっしゃったけど、ここでは本当にそれだけしかなさらないの?」

 目が赤く髪も鴇色だが一見すると若い女性の姿をしているからか、リョウさんは全く怯えた様子も怖がる様子も見せない。

 それどころか雨に向かって話しかけている。


「……どういう意味です?」

 怪訝そうに眉をひそめる雨にリョウさんはにこやかな笑顔を向ける。


「雨には怖い方もいらっしゃると伺っていたもので。ごめんなさいね。お気を悪くされたかしら?」

「……いえ。人にも善し悪しがあると聞きます。私は花を散らす雨故、善い雨とは言えませんが、人に害を為すことは致しません。花を散らしたら戻ります。ただ、本来ならば春にしか訪れぬものをなぜか季節外れの今また呼ばれましたので、所在がなく困っております。すべきことを終えるまでこちらの花器に滞在させて頂きたいのですが、お許し願えないでしょうか?」

「いいわ、よね?」

 困った表情の雨とリョウさんの楽しそうな笑顔を向けられ、僕と魁は顔を見合わせた。


 雨をリョウさんの傍に置くのは避けたい。

 いくら人に害を為さない雨とはいえ、雨は雨だ。


「その花器はダメです。他のなら……」

「こちらの花器が良いのです。翠雨の残り香があるので、私のような力ない雨が隠れるにはちょうど良いのです。春ならば必要としませんが、今は無理をしてこちらに来ている状態ですので。そのような器が他にあるならば別ですが……」

 そういう事情があるのか。

 困った、と両腕を組むと、魁がポン、と僕の頭を小突いた。


「馬鹿ですねぇ。その花器でないとダメ。でもその花器をリョウさんの手元に置いておくのは心配。となれば、解決方法は一つしかないでしょうに」

 そこまで言われて「あ」と声を上げた。

「うちで預かればいいのか」

「正解です。滞在中はうちで預かれば丸く収まるでしょう? リョウさんもそれでいいですね?」

 魁に問われ、リョウさんは少し残念そうに頷いた。

「ええ。構わないけど……私達、お花見を楽しみにしているの。花を散らす前に一日だけ、いえ半日時間を貰えないかしら?」

 雨を目の前にしても、どうしてもお花見はしたいようだ。


「分かりました。滞在をお許し頂いた御礼に晴れた日を置いて行きましょう。けれど、長くは滞在できませんので、花は満開にはなりませんが?」

「構わないわ。じゃあ、明後日お花見しましょ」

 リョウさんのその鶴の一声でお花見の日取りが決まった。


 雨は深々と頭を下げると水に変わり、花器の中へと吸い込まれるように消えた。


「では、これはこちらでしばらく預かります」

 僕が花器を片付け始めると、それまで黙って成り行きを見守っていた酒井さんがリョウさんと僕とを交互に見て、もういなくなったのか? と訊いて来た。

「ええ。もう大丈夫ですよ」

 魁が答えると酒井さんの目が輝く。


「な、アヤさん。どうだった、雨ってのは?」

「綺麗な女性の姿をしていて怖くはなかっけど、やっぱり人の姿をしていも人ではないって分かったわ。人にはない目の色とかされてたけどそれよりも雰囲気というか……何ていうのかしらね?」

 頬に片手を当て、小首を傾げるリョウさんを酒井さんは羨ましそうに見つめた。

「どれ。わしもその花器を手に持ったら雨が見えるようになるかな?」

 貸してみろ、と言わんばかりに両手を差し出す酒井さんに魁が苦笑する。

「無駄ですよ。リョウさんも一時的に見えていただけですから」

「無駄とはなんだ。やってみなきゃ分からんだろ?」

「やってみなくても分かります。リョウさんが姿を見ることができたのは、雨が姿を見せることを望み、花器の中に残っていた翠雨の微かな力を借りたからです。ですから、ここに滞在する為にこの花器に宿る以上、これ以上の無駄な労力を使う気なんてない筈です。酒井さんが持ったところで姿を現してもくれないでしょうね」

「なぁんだ。つまらん」

 そう言ってがっかりと肩を落とす酒井さんの隣に近藤さんの姿がないことに気づいた。

 その姿を探して店内を見回していると、店の奥から近藤さんが戻って来た。


「リョウさん、ケンさんに連絡入れておいたよ。そろそろ戻ってやらないと、柚菜ちゃんが心配するんじゃないかね?」

「あら、いけない。雨を初めて見てすっかり忘れてたわ。ありがとう、近さん。助かったわ。お花見のこと、柚菜ちゃんには伝えておくから、皆さんも準備よろしくお願いしますね」

 そう言って慌ただしくリョウさんは店を後にした。


 リョウさんの後を追うのかと思っていたが、珍しく酒井さんが店に残った。

 その表情は険しい。

「おい。雨の前で名前を出すのはご法度じゃなかったか?」

 確かに。

 魁は雨の前でリョウさんの名を何度か呼んでいた。


「御心配には及びません。桜を散らす雨の名は一つ。こちらがそれを知っているのも雨は分かっていますから、下手なことはしないでしょう。それに雨にもこちらに来れる季節というものがあります。時期外れに来ることはそれ自体が自殺行為なのですよ。それでも役目を果たそうとこちらに来て、さらにはこうやって挨拶にも来た。とても律儀な雨だと思うのですが?」

「なるほどな。雨にも旬があるってことか」

「ま、そんなところですね」

「だがな、律儀だろうとなんだろうとアヤさんが無事ならそれでええ。ちゃあんと見張っておけよ、晴一」

 久し振りに名を呼ばれ、なんだか不思議な気がした。

 それで返事をするのに少し間が空くと、酒井さんが頼りないなぁ、と笑いながら店を出て行った。


 一段落した、と思った。


 だが、家に帰り、花器を床の間に置いた瞬間、再び雨がその姿を現した。


「晴一様」


 雨に名前を呼ばれ、僕は固まってしまった。

 なぜ名前を知っているのか、と反芻して酒井さんが去り際に僕の名を呼んだことを思い出す。


 雨に名を呼ばれても返事をしてはいけない。


 だから、名前を教えてはいけないのだと祖父からも魁からも教わっていたので、ただ黙って雨の次の言葉を待った。


 雨は意外な申し出をして来た。


 魁は家に戻ってすぐ夕食の準備を始めていたが、雨の気配に気づいて部屋に駆け込んで来た。

 が、部屋の戸が開くのと僕が返事をするのはほぼ同時だった。


「何を……したのですか?」


 魁の慌てた顔を見たのは初めてかもしれない。

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