4.雨、上ガル

 話は数分前に戻る。


「晴一様」


 花器から再び姿を現した雨は僕の名を呼んだ。

 雨に呼ばれて返事をしてはいけないと祖父から聞いていたので、驚いたが返事はしなかった。

 なぜ返事をしてはいけないか、その理由を聞いた気がしたが覚えていなかった。

 雨の場合は橋守に名を呼ばれると一瞬動けなくなる。

 きっと逆の場合も似たようなものだろうと思っていた。


 僕が黙っていると、雨はまず自分の名を明かした。


わたくし花時雨はなしぐれと申します」


 桜を散らす雨の名は一つしかない。

 花に降る降ったり止んだりする雨で、花とは主に桜を指すので春の雨だ。

 会ったことはなかったが、それくらいは僕でも知っている。

 だが、それでも互いに名を訊かないし名乗らないのが暗黙の了解となっている。

 それでも名を明かしたということは、敵意がないことを示す為かもしくは何か裏があるかのどちらかだ。


 雨の真意を探っていると丁寧にお辞儀をされたので、自然とつられて会釈する。


「こちらに参りましたのは花に呼ばれたのもありますが、橋守であるあなたにお願いがあったのです」

 どうやら今回は後者のようだ。

 警戒して気を引き締める。

「お願いとは?」

 問うと花時雨は神妙な顔つきで意外なお願い事を口にした。


「浄化して頂きたいのです」


 不穏なお願い事に一瞬言葉を失ったが、誰を? と間抜けな質問をしてしまった。


「勿論、わたくしを、でございます」

「なぜ?」

「桜が咲けばこちらに来なければならないのが私の役目でございます。けれど、このようなことは初めてのことでございますれば、戻り方が分かりません。戻る為には浄化しか方法がございませんのでしょう?」

 なるほど、そういうことか。

 花時雨は勘違いをしている。

「いやいや。戻る方法は……」

 言いかけてふと両腕を組んだ。

 刀で斬ると雨は浄化してしまう。

 それはする必要はないだろう。

 だが、橋守が強制的に橋の向こうへ戻しても浄化するのと大差ないと聞いた。

 それもつまり浄化することになるのだろう。

 ならば雨をあちらの世界へ戻す方法は……

「浄化以外にないのか」

 という結論に至った。


「やはりそうでございましょう? こちらにいた雨を強制的に送り返したことがあるとお聞きしました。名を狐雨こうといいましたか」

 あのことを知っているのか。

 雨の間で噂になっているかもしれないと思うと、心の奥がざわりとした。


 狐雨と出会うまでは翠雨に窘められるほど雨は全て浄化してしまえばいいとさえ思っていた。

 でも今は違う。

 無闇矢鱈に浄化して良いとは思わない。


「雨は浄化されても人のように死ぬことはございません。ただ、記憶やら何やらが消えてしまうだけでございます。いずれまた時間をかけて元の雨に戻るのですから、あなた様が気に病む必要もございません。ですから役目を終えた暁には何卒私を浄化してくださいませんでしょうか?」

 花時雨はそう言って畳の上で丁寧に土下座をした。

 そして頭を下げたまま、花時雨はこう続けた。


「晴一、『承知』と言え」


 今までの丁寧な物言いとは打って変わって命令口調になり、さらにその声は囁くように小さかったが低く、有無を言わせぬ響きを伴っていた。


「承知」


 口が勝手に動いた。

 僕が返事をしたのと部屋の戸が開くのはほぼ同時だった。


「何を……したのですか?」


 戸を振り返ると、魁の少し青褪めた顔があった。


 ここで現在に話は戻る。


「帰る算段を話し合っていただけでございます」

 顔を上げた花時雨は再び丁寧な口調に戻っていた。

 表情も柔らかく笑みを浮かべている。

 だが、対する魁は冷ややかに花時雨を見下ろしている。


 すっくと立ちあがると、花時雨は着物の裾を直してから魁を真っ直ぐに見据えた。

「そんな怖い顔なさらないでくださいまし。ただ自分の役目を果たしに来ただけにございます」

「私の知らないところで勝手に契約を交わされるのは嫌いでしてね」

「あなたはただの刀にございましょう? 橋守と雨との契約になぜあなたが立ち会う必要があるのか……」

「ただの刀ですが、無理矢理交わされた契約というのが引っかかりましてね。それが気に障っただけですよ」

「無理矢理とは異なことを申されますね。互いに了承してから契約は成立するものでございましょう?」

「異なことを申されるのはそちらでしょう? 名前を知っているのはそちらだけではありませんよ?」

 まるで龍虎の睨み合いといった絵図が背後に見えるのは気のせいだろうか。

 緊迫した雰囲気の中、ふと花時雨が笑った。


「ふふっ。試すようなこと申しましたことお詫び致します。偶然とはいえ名前を聞いたのが私で良うございました。これ以上の悪用は致しませんし、他の雨にも口外致しません。それに浄化してしまえば、この記憶も消えてしまいますのでご心配には及びません。つつがなくお花見を堪能できるよう、お花見が終わるまではこの花器に身を潜めて大人しくしていましょう」

 そう言うと花時雨は水に姿を変え、花器の中へと吸い込まれるようにして消えた。


「本当に……恙なく花見が終わると良いですが」

 魁は溜息交じりにそう言い、さ、夕食にしますよ、と台所へと僕を促した。



***



 花見当日。

 花時雨のお蔭で雲一つない快晴が広がっていた。


 毎年同じ場所、同じ時間に花見をするので、いつも日取りだけ決まれば自然と全員が集う。

 今年二度目の花見は僕と魁が一番に着いたと思ったが、それよりも早く近藤さんが場所取りがてら先に一杯始めていた。

 といってもその手にあったのはお茶のペットボトルだったが。


「お早いですね」

 魁が声を掛けると、ああ、と近藤さんは周囲に視線をやった。

「場所取り担当だからねぇ」

 場所取りはいつも家が一番近いという理由で近藤さんが担当となっている。

 皆ご近所さんなのでそう大して変わらないのだが。

 しかも今回は季節外れだし、まだ満開ではない為、川土手は閑散としていた。

 場所取りの必要性はない訳だが、その辺を真面目にこなすのが近藤さんらしい。


「絶好のお花見日和ですね」


 弾んだ声に振り返ると、柚菜さんと酒井さんが到着したところだった。

 彼女の両手には大きな水筒が二つ、酒井さんの肩には大きなクーラーボックスがあった。

 すぐさま僕は彼女から重そうな水筒を預かる。

 ありがとうございます、という彼女の横からすぐさま「こっちの方が重いんだが」と酒井さんの嫌味が飛んで来る。

 が、その背後からお待たせしましたぁ、と声がするなり表情が一気に明るくなった。


「アヤさんっ」

 振り返りざまに両手を差し出した酒井さんだったが、すぐさまその手が引っ込む。

 僕が柚菜さんにしたように重い荷物を受け取ろうとしたようだが、リョウさんの手には小さな鞄のみで、重い荷物は全てケンさんの手にあった。

 チッ、と軽い舌打ちが聞こえる。


「ちょっとお揚げさんを煮込むのに時間かかっちゃって。いやね、歳を取るといろいろ要領が悪くなっちゃうみたい」

 ふふっ、と笑うリョウさんにケンさんが違うんです、と叫ぶ。

「私が失敗してしまったデス。だからちょっとマズイかも……とっても申し訳ナイ」

 すまなさそうに頭を下げるケンさんの肩をぽんぽん、と叩いて、あれだけできたら上等上等、大丈夫大丈夫、とリョウさんが明るく励ます。

 そんな二人の仲睦まじ気な様子に酒井さんだけでなく近藤さんまでもがケンさんを睨みつけていた。


「さ、せっかくの二度目のお花見。楽しみましょ」

 そんな二人の視線に気づいてかどうか、ぽん、と両手を叩いてリョウさんが明るい声を出した。


 それに促されて季節外れのお花見が始まった。

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