3.千尋の谷

 半ば吹っ飛ぶようにして僕は店の外へと雨を巻き込んで転がった。

 大袈裟に吹き飛んだ割にはどこも痛くなかったが、背後の気配にゆっくりと振り返りながら立ち上がる。


 半身が不自由な雨は仰向けに地面に転がったまま、虫のようにもがいていたが、起き上がれないと悟ったらしく動きを止めた。

 と、同時に水に姿を変え、その場に水溜りができたかと思うとその水が吹き上がり、一瞬で再び人の姿に戻った。

 勿論、その場に立ち上がった姿で。


 思わず半歩後退し、ごくりと唾を飲み込んだ。

 振り返ると魁は楽しそうに僕を見ている。

 その笑みは意地悪い。

 僕だけで解決しろ、とその目が言っている。

 今までなぜ両親が亡くなったのか、何も説明しれくれなかったし、聞いてもはぐらかしてきたのに、雨を眼前にして答えてくれたのはどういった意図があってのことだろうか。


「橋守……以前と随分見た目が変わったように思うが?」

 低い声がし、視線を再び雨に戻す。

 雨が言っているのは祖父のことだ。

 では、祖父がこの雨をこんな状態にしたのか。

 止めを刺せなかったのはなぜか。


「どうした。口が利けなくなったか。それとも……盾も刀もないからか」

 語尾にクックッと笑いが続いた。

「橋守と言えどもただの人。恐るるに足りぬ。何もできぬしなぁ?」

 言いながら一歩ずつ足を引き摺って近づいて来る。


「刀ならそこに……」

 言って振り返った僕はその先の言葉を失った。

 先程まで店の中にいた魁の姿がないのだ。


「そこ、とはどこだ?」

 雨がわらう。

「魁っ」

 叫ぶが姿を現さない。

 本当に僕を一人で雨に対峙させる気だ。

 助ける気もないのか。

 橋守を継ぐだの継がないだのとはっきりしないせいか。

 それともこの雨のせいで両親が雨に殺されたとバレたからか。

 いずれにせよ、魁は僕に意地悪をしたいのだということが痛いほどに分かった。

 そして、一人でこの雨を何とかしないといけないのだと悟った。


 腹を括る時だ。


 空は晴れている。

 骨董屋に現れた時は小雨が降っていたが、今はもう上がっていた。

 雨が眼前にいるのに晴れている。

 天気雨の一種か。

 狐雨以外となると何だろう?

 雨の名は思い浮かばない。

 例え雨の名が分かったとしても一瞬動きを止めることができるだけだ。

 役には立たない。

 ならば、もっと効果的なことは……

 そこでふと思い出す。


「もし……困ったことがあったら……鬼雨を呼びなさい」


 祖父のあの言葉。

 今、呼んだら応えてくれるだろうか。

 あの橋の傍でなくとも。


「鬼雨……」

 自信なく囁くような声でその名を口にする。


「何と言った?」

 雨が眉根を寄せる。

「鬼雨」

 少し声を大きくする。

 が、何も起こらないと恥ずかしい。

「残念だな。私の名ではないぞ」

 雨が嗤う。


 やっぱり橋の傍で呼ばなければ駄目か。


「呼んだか」

 落胆しかけた僕の背後から聞き覚えのある声がした。

 振り返ると鬼雨の姿があった。

 その姿を見た雨は半歩後退した。

「なぜここにいる?」

 明らかに動揺した声音だ。


「橋守に呼ばれたからな。自力で来ぬと空が晴れておる。雨のない空とはこうも不思議なものか」

 空を仰ぐ鬼雨に雨もつられて空を仰いだ。

「口も利けぬか? 随分弱っているようだな。雨も降らせられぬのか?」

 天気雨、という訳ではないのか。

 弱っているから雨が降らないだけなのか?


「なぁ、白雨はくう?」


 鬼雨は雨をそう呼んだ。

 初めて耳にする名だ。


「橋守。答えを聞かせてもらおうか。私を呼んだということは契約を引き継ぐ、ということでよろしいな?」


 ああ、そうだった。

 困ったことがあったら、というのは祖父の言葉だ。

 鬼雨本人とは契約を引き継ぐ気になったら呼ぶことになっていたのだった。

 うっかり、ではあるが、呼んでしまったからにはそう答えない訳にはいかない。

 いずれにせよ、結果を伝えるとは言っていたが、引き継がないとは言い出し難い。


「……はい。橋守も契約も引き継ぐつもりです」


 言ってしまった。


「契約の内容を知らぬのにか? それに雨をきろうておるとか?」

「……雨の全てを嫌っている訳ではありません。それに僕は祖父を信頼しています。祖父が信頼していた雨のあなたとの契約ならどんな内容であれ、全うしたいと思います」

「そうか。ならばこちらも異存はない」

 その言葉でもう戻れないと悟った。

 が、引き戻せないと思えばさらに腹は括れる。

 それに不意に出た言葉ではあったが、全くの嘘という訳ではない。

 ただまだその覚悟がなかっただけだ。

 けれどその覚悟も鬼雨を目の前にして固まった。


「白雨を浄化するのを手伝って貰えませんか?」

 僕の頼みに鬼雨は承知、と笑った。

 その笑みを見て僕はしまった、と溜息を吐いた。


「浄化、だと? 雨の癖に橋守に手を貸すのかっ」

 激高した白雨が鬼雨を睨みつけた。

 その様子に僕は違和感を覚える。

 回復途中だから気づかないのだろうか。

 僕が気づいて白雨が気づかないのは妙だ。


「利害が一致しただけのことよ。雨を喰らうとは行儀が悪い」

 鬼雨が蔑みの目を向けると、白雨は一瞬押し黙った。

「仕方ないではないか。深手を負って生きる為には必要だったのだ」

「お前の『仕方ない』で喰らわれた雨はさぞ無念だったろうな。一体どれだけの雨を喰ろうたのだ?」

「数喰らっておればこのような無様な姿を晒しておらぬわ。動けぬ身故、差し出されたモノを喰らっただけだ」

「差し出された? 餌を運ぶ奇特な雨がおったというのか」

 鬼雨の言葉に白雨はハッと顔を伏せた。

 失言だったようで、違う、と低く唸った。


「では、その雨の名を言えば浄化はしないでおいてやろう。どうだ?」

「そんな雨はおらぬ」

「そんな戯言、通用せんことは分かっておろう?」

「……ああ。それなら浄化される道を選ぶまでだ」

「なぜ庇う? 生かされたからか?」

「違う。互いの名を明かさぬのが決まりであろうが。名を口にすればお前に浄化されぬだけで、その御方に喰らわれてしまう。ならばお前に浄化される方を選ぶだけだ」


 この雨の話を信じるなら、白雨を助けた別の雨がいる。

 なぜ助けたのだろう?

 そんな僕の疑問を見透かしたように鬼雨が問う。


「では問いを変えよう。なぜ生かされた?」

「……浄化されるなら答えても無駄であろう」

 刀も盾もない橋守一人には強気だった白雨も力ある鬼雨を目の前にし、すっかり浄化されることを悟ってしまった。

 観念した白雨はもう何も話すつもりもないようで、口を真一文字に結んでその場に座り込んでしまった。

 その様子に困った、という様子で軽く溜息を吐く鬼雨に僕はようやく小声で確認する。


「……魁、なんだろ?」


 問われた鬼雨は白雨には分からないように一瞬ニヤリ、と笑って肯定した。

 鬼雨の姿に動揺して本物だと思ったが、よく見れば僕には魁だとすぐに気づいた。

 普段から様々な『コスプレ』を楽しんでいる魁だ。

 だからこそ、どんな姿でも僕には魁が分かる。

 それは僕が橋守で魁が刀だからだ。

 それは雨も同じで、人と橋守の区別はつくし、雨と刀の区別もつく。

 それなのに白雨は未だに目の前の鬼雨が雨だと信じており、刀だとは思っていない。

 僕のことも橋守と盾の区別がつかなかった。


 弱るということは体だけでなくそういった感覚までもが鈍るものだろうか。


 リョウさんの姿をしていた時、白雨は橋守であることには違和感を持っていた。

 でも、魁と雨の違いにはまだ気づいていない。

 それはつまり、魁と雨は似ているモノということか?


 その疑問に僕はじわりと嫌なモノが心の奥に広がるのを感じた。

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