3.過去と雨

 目を覚ますと部屋は薄暗く、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。

 上半身を起こし室内を見回して、ようやく今がいつでどこにいるのか思い出す。


 軽く息を吐いて再び寝転んだ。


 昔の夢を見ていた。

 この家に初めて来た時の夢。

 あれから二年が経ち、僕は大学二年生になった。


 こんな夢を見たのは多分、先日この家の主が亡くなったからだ。



 この家に初めて来たのは両親が亡くなった翌日で、それを実感する暇もないほどたくさんの出来事があって、実感して泣いたのは両親の葬儀が終わってからだった。


 火葬場の煙が上がるのを見て、骨になった両親を見て、それから誰もいなくなったアパートに戻って、自分の荷物をまとめ始めた時にようやく泣いた。


 高校は数日休みを取って、その間に祖父の家に引っ越した。

 アパートの整理は魁がやってくれた。

 家具家電は売り払ってしまったけど、その他はほとんど捨てずに祖父の家の蔵に今でもある。

 あの狭いアパートには思いの外、たくさんの荷物が詰まっていた。

 自分の荷物だけでも意外にたくさんあって、必要最低限の物以外は処分した。

 祖父の家とはいえ、僕にとっては初対面の人の家だ。

 そこに同居というよりは居候させてもらうのだから、かなり気を遣う。


 正直、あのアパートで一人生活してたら僕はきっと学校に通わなくなっていたと思うし、大学にも進学しなかったと思う。

 葬式さえちゃんとできていたか分からない。

 少々強引だったが、祖父がこの家に僕を連れて来てくれて助かった。


 高校は遠くなったけど、なんとか卒業まで通った。

 大学は自転車で通えるところにした。


 学費や生活費は両親の遺産もあったが、自力で稼ぎたかった。

 けれど、僕は幼い頃から人と違うことを知っていて、それは周りも同じで、だから社会というものに入ることはできないと決めつけていた。


「学生は学業が本分だけれど、大人として社会で生きていくことも大切ですからね」


 そんな僕を見透かしてか祖父はそう言って、祖父の幼馴染の骨董屋に僕を連れて行き、そこで私の友人です、と紹介してくれた。

 そして、僕にここでアルバイトをするように勧め、骨董屋の店主も快く僕を迎えてくれた。


「大丈夫です。彼は橋守のことも良くご存じですから。勿論、魁のこともね」


 祖父には祖父のことを知る友人が数人いて、彼らは僕のことも自分達の本当の孫のように受け入れてくれた。


 僕は生まれて初めて『友人』と言える人ができた。


 祖父がいなければ、僕はきっと自分の世界に閉じこもっていたと思う。

 そしてその境遇を嘆いて何もしなかったと思う。


 祖父がいてくれたから僕は雨の日が少しだけ平気になった。


 その祖父が先日、突然亡くなった。


 大学から帰ると魁がいつになく真面目な顔で、医者のコスプレで出迎えた。

 そして、一瞬で黒いスーツ姿に変わり、残念です、と一言漏らした。


 両親が亡くなった時も祖父が亡くなった今も、僕は相変わらず夜が来れば寝て、魁が作る食事を摂り、テレビをつければ何も変わらない日常を伝えている。

 両親が亡くなった時、天涯孤独になったと思ったけど、祖父がいたから日常に戻れた。

 でも今は日常に戻れる気がしない。

 大学も葬儀が終わっても休んでいる。

 夏休みが近いこともあって、このまま今学期は休んでしまおうとさえ思っている。

 祖父が紹介してくれた骨董屋のアルバイトも休んでいる。


 主を失ったこの家はとても静かで、まるでこの家までもが一緒に死んでしまったかのように感じる。

 だから、僕はやっと見つけた自分の居場所を奪われたような、失ったような感覚でこの部屋に閉じこもっていた。


「眠れませんか?」


 ふいに襖越しに声を掛けられ、僕は飛び起きた。

 振り返ると、音もなく床の間に続く部屋の襖が開き、魁がメイド姿で入って来た。


 ああ、この家にはまだ魁がいた。


「悲しむ気持ちも分かりますが、おじい様が亡くなられた今、あなたが橋守なんですからもう少ししゃんとして欲しいものですね」

「そんなこと言われても僕は……」

「橋守が何たるかはご説明したはずです。この世に橋守はあなた一人。他にはいないのですよ?」

「魁がいるじゃないか」

「私はただの『刀』です。橋守に命令されない限りその姿をとることはできません」

「なら、橋を……」


 壊せばいい。


 そう言いたかったけど、言えなかった。

 そもそも橋があるから橋守が必要なのだ。いっそ壊してしまえば済む話だ。

 だけど、代々守って来たものを僕が継ぐのが嫌だからと壊してしまうのは気が引けた。

 ずっと守り続けて来たものなのだから、何か意味とか価値とかそんなものがあって大切にすべきものなんだと思う。

 だから、軽々しくそんなことを口にしてはいけないのだという理性はあった。


「いつまでも閉じこもっていては体に毒ですよ。大学やバイトに行けとは言いませんから、せめて裏庭に出て外の空気くらい吸ったらどうです?」

 魁は廊下に面した側の障子を開け、カーテンを開けた。


 元は雨戸だった場所だが、リフォームされて今はサッシ窓になっている。

 この廊下も縁側として今も使われている。

 沓脱石くつぬぎいしもあり、いつでも外に出られるようにサンダルが置かれている。


 僕はようやく数日ぶりにサッシから裏庭を覗いた。

 夜が明け始めた外はゆっくりと光が当たり始め、徐々にシルエットから色を取り戻していく。

 庭の土が濡れているのを見て、音もなく小雨が降っているのに気づいた。


 そして、裏庭の片隅に人影が佇むのを見つけてぎょっとした。


 その姿は『あの時』の『雨』だった。


 ああ、確か雨の名前は。


 宿雨やどりめ、だったか。


 人の悲しみに引き寄せられて来る雨だ。

 朝方の夢は正夢になりやすいと祖父が話していたのを思い出す。

 それから、雨が訪れた目的も『あの時』と多分同じだと感じた。

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