4.涙と雨

「魁……あれ……」


 小声でそう言うと、魁はああ、と溜息を吐いた。


「昨日から雨が降っていたのをご存知ですか? あれは昨日からずっとそこにいましたよ?」


 雨が?

 ああ、そうか。

 ずっと外を見てなかった。

 祖父が死んだことばかり嘆いて部屋に籠ってばかりで、外を見る余裕なんてなかった。


「なんで言わなかったんだよ?」

「あれは放っておいても害はありません。目的を果たせば去りますし……」


 目的。


 確かあの雨は両親が死んだ時もこの家の裏庭に来た。

 あの時はすぐに去った。


「人の悲しみが私を呼ぶのです。涙を集めたら去ります故、どうかそれまでここにいさせてくださいまし」


 雨は静かにそう言って、裏庭の隅で俯いて立っていた。

 その姿はまるで幽霊のようで、怖いイメージしかなかったけど、何もせずただいるだけの雨というのは僕にとっては珍しい雨だった。


 宣言通り、雨は数日後、いつの間にか裏庭から姿を消し、連日降り続いた雨も上がっていた。


「……本当に放っておいていいのか?」

「橋守とはいえ、無闇矢鱈むやみやたらに雨を浄化しなきゃいけない訳ではありませんよ。前回もおじい様はそのままにしていらしたでしょう? 雨にもそれぞれ役割があるのですから」

「そう……だけど……」


 すぐ側に雨がいる、というのは僕にとって心地の良いことではない。


「ご両親に続いておじい様まで失って、天涯孤独を嘆くお気持ちはお察ししますが……私も魔法使いではありませんし、医者のコスプレはしますが医者のようなこともできませんので、お食事と規則正しい生活で心身共にしっかりして戴かないと……」


 熟睡はできていないが、寝てはいる。

 食事は魁が甲斐甲斐しく作って部屋まで運んでくれている。

 それを完食はできていないが、少しは口にしている。

 布団は敷いたままで、そこで一日の大半を過ごしていた。


 これからどうやって生きていこう、とか。

 大学はどうしよう、就職はどうしよう、とか。

 両親と暮らしていた時のことを思い出したり、祖父と過ごした短い時間を振り返ったり、いろんなことを考えていたら頭の中はぐちゃぐちゃになって、とりとめもないことや考えても仕方ないことで一杯になって。


 それで一日が終わり、また新しい一日が始まる。

 きっとその繰り返しから抜け出せない。


 魁が溜息を吐き、小言を垂れるのも仕方がない。


「とりあえず、今日こそはこの部屋を出て頂きますよ。もう三日もこの部屋を掃除していませんからね!」


 三日?


 魁は毎日掃除をする。

 だから、祖父が亡くなってからもうそんなに経つというのか?

 まだ一日程度にしか感じていなかったのに。


 ああ、でも確かに食事は何度も運ばれて来た気がする。


「……分かったよ。今朝は居間そっちで食べるよ」


 廊下に出たついでだ。

 そう思って裏庭から視線を外そうとしたその視界の端で人影が動いた。


「泣いてくださいませぬか?」


 声がした。

 囁くような小さな声だったが、よく耳に響いた。

 思わず裏庭に視線を戻す。


 と、雨が沓脱石くつぬぎいしの前まで来ていた。

 狭い小さな裏庭とはいえ、いつの間に。

 思わず半歩下がる。


 朝の光の下、近くで見ると雨は影のように黒く見えた。

 黒く長い髪、黒い着物、黒い帯。見えぬ足元もきっと全てが黒い。

 顔は伏せられて見えないが、その肌も影のように黒いのではないかと思ってしまうほどに全てが黒く、立体的な影が目の前に立っているように見えた。


 雨は家の中には入れない。


 祖父からそう聞いていたから、半歩下がったところで押しとどまった。


「……泣いてくださらねば私はここを離れられませぬ」


 雨の目的は「涙」だ。

 それは「僕」の、か。


 ああ、そういえば、両親が死んだ時はアパートで一人泣いた。

 目の前で死んだ訳じゃないから、葬式もどこかドラマでも見ているような感覚で、死んだという実感は湧かなかった。

 ただ、誰もいないアパートに戻って、荷物をまとめている時にふいに「もう両親はいないんだ」ということを実感した。

 それでようやく悲しみが湧き上がってきて、涙を止めることもできなくなって、あんなに声を上げてまで泣いたのは多分、物心ついてからは初めてだ。


 でも。

 祖父が死んでからは一度も泣いていない。

 悲しみよりも驚きが勝っていて、死んだ実感が湧かないんじゃなくて、なんていうか、絶望とか孤独とかそんなものを思い知らされた気がして、信じたくないという気持ちが勝って、それにまだ抵抗している。


「……泣いてやれば去りますよ」

 魁がふいにそう言ってサッシ窓を開けた。

 小雨が降る朝の冷たい風が入り込む。

 初夏の風とは思えぬ冷たさに驚く。


 泣けばいいだけだ。


 祖父が死んだ時のことを思い出す。

 つい数日前のことだ。

 なのに、思い出すのは祖父の死んだ姿じゃなく、一緒に夕飯を食べている時や骨董屋で売り物の囲碁や将棋を店主と指している姿ばかりで、涙なんか一滴も出てこない。

 第一、泣けと言われて泣けるのは俳優や女優くらいじゃないのか?


「そう……泣いてくださらないのですね? こんなに懇願しているというのに……泣いてくださらないのですね?」


 囁くような声だったのに、語尾は耳の側で叫ばれているかのような強い声で。

 それから、雨はゆっくりと顔を上げた。


「では、また近しい者が死ねば泣いてくださいますか? 前回そうだったように」


 雨の顔は影のように黒くはなく、ごく普通の女の顔だったが、晴れやかに笑んでいるのに背筋を凍らせるほど冷たく感じた。


 蒸し暑いはずなのに、冬の早朝のように冷たい風がすり抜けた。

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