3.後悔噬臍(こうかいぜいせい)

叢雨と狐雨

「やだぁ、雨降ってきたぁ」


 突然の雨に女子高生は空を仰いで表情を曇らせる。

 傘はなく、雨宿りができそうな場所もない。


 すぐに諦めて走るでもなく、歩調を変えることなくゆったり歩く。


 彼女の隣を歩く黒い着物を着た男性は彼女が走ろうとしないのを憮然と見やり、空を仰いだ。

 小雨だった雨は徐々に強さを増す。

 が、彼女は濡れた髪をかき上げ、空を忌々しそうに見やっただけで一向に走ろうとしない。


「もっと濡れてしまえ」

 男はニヤリと笑ったが、すぐにつまらなさそうに立ち止まる。

 その横を黒い折り畳み傘を差したサラリーマンが足早に通り過ぎて行く。


「つまらんな」

 男が呟くと雨はまた小雨に戻った。


 田畑を見て回る。

 実る作物を見ると顔が綻んだ。

「この辺りも随分と田畑が減ったな」

 男は淋しそうに呟く。


 元田んぼだった場所はマンションや駐車場などへと変わっていた。

 今も何かを建てるべく、ブルドーザーやショベルカーなどの重機が雨の中作業している。


 ふと男は道路の真ん中で空を仰いだ。

 行き交う車は男をすり抜けて行く。


 男は人には見えない。

 人にはその声も聞こえない。


 男の名は『叢雨むらさめ』という。

 雨のあやかしだ。


 気まぐれに人の世界に来ては雨を降らす。

 雨を降らせば喜ぶ者もいた。

 今は喜ぶ者がどれだけいるだろうかと不安になる。

 雨は厭われる存在でしかなくなっている気がした。


 そんなことを考えていると雨は激しさを増した。


 建設現場に足を踏み入れる。

 雨が激しくなると工事は中断されると叢雨は知っていた。


 田畑が消える姿は見ていて悲しい。


 叢雨は重機を止めるべく、雨よもっと降れと言わんばかりに空を鋭く見つめた。


 その視界に土砂が降り注ぐ。

 しまった、と思ったが遅かった。


 なんとか埋まる前に這い出ることには成功したが、弱った叢雨は工事現場から出たところで倒れ込んだ。

 途端に雨は小雨に変わり、すぐに止んだ。


 目が覚めたのは恐らく数日経ってからだった。

 体が鉛のようにだるかった。

 這うようにして民家の庭に辿り着き、庭木の下で仰向けに転がった。


 何の為に人の世界に来たのか、怒りに似た感情が沸々と湧き上がる。

 それと同時に自分への情けなさも感じていた。


 昔、とても人に感謝されたことがあった。

 その時の高揚感と何とも言えない誇らしさをもう一度味わいたくて、ついつい人の世界に来てしまう。

 だが、感謝されるどころか邪険にされ、いつ止むのかと問われる。

 おまけに今回は土を被って自力で橋を渡れないほど弱ってしまった。


「私は何がしたいのであろうな? 何を……しているのであろう?」


 呟いて両手で顔を覆った。

 こんな姿を他の雨に見られたくはなかった。


「あら。この近くで土砂崩れですって」

 家の中から声がした。

「さっきの雨が原因かしら? 怖いわねぇ」

 老齢の女性が一人、テレビに向かって話しかけていた。


「そんなもの私のせいではないぞっ」

 叢雨は叫んだが女性にその声は届かない。


 実際、女性が見ていたニュースは地名が良く似た他県のものだった。

 この近くでは工事現場で掘り起こした土の山が僅かに崩れた程度のことは起こっていた。

 それに巻き込まれた雨がいた。

 さあ雨を降らそうかとこちらに来てみれば、既に雨が降っていたのでどうしたものかと思案していたところ、その崩れた土の下敷きになったのだ。

 その雨も数日後になんとか自力で這い出し、近くの民家の庭先へ避難した。

 奇しくも叢雨と同じ工事現場でのことで、逃げ込んだ先も同じ民家の庭だった。


 後から来た雨は叢雨ほど強くなく、庭に入るなり植えられていた花に雨粒の姿で宿った。

 が、テレビを見終えた女性がその花を手折り、居間に置かれた小さな花瓶に一輪挿しとして活けられた。


 その様子を叢雨はずっと見ていた。

 家の中の雨は随分と弱っていた為、庭木の下に転がる叢雨には全く気づいていない。


「弱い雨がさらに弱るとは哀れだな」

 叢雨はそう思いながらも這うようにして縁側に移動し、部屋の中をそっと覗き込む。


「でも雨が降って良かったわ。お花が元気になった気がするもの」

 女性は花に笑みかけた。


 女性は独り言が多い。

 誰もいない家で誰にともなく思っていること全てを口に出しているようにも思えた。


「たくさん雨が降ると困るけど、小雨くらいなら風情があって良いと思うのよ。たまには雨に濡れるのも良いと思うし、私は雨が好きだわ。ね、あなたもそう思うでしょう?」

 女性は花に向けてそう笑んだ。

 花の中から雨が弱々しく頷く。


 女性は一人住まいのようで、誰もいない部屋の中、テレビに向かって話すこともあれば、料理をしながら鍋に向かって話すこともあった。

 そして、庭の草花に水をやりながら話しかけ、「ごめんなさいね」と言いながら手折ってはそれを一輪挿しにしたりと楽しんでいた。


 雨は女性が花を活け替える際にテレビに移動した。


「あら、これ美味しそう。ちょっとメモするから待って待って」

 ある時は料理番組を見て慌てる女性を見、雨も慌てる。

「やだ。聞き逃しちゃったわ。何を混ぜてるのかしら?」

 メモを手に戻って来た女性に雨が必死に身振り手振りで話しかける。


「聞こえぬと知っておろうが」

 叢雨はそんな雨に蔑んだ視線を送ったが、胸にじわりと鈍い痛みを感じた。

 その頃には叢雨はすっかり動けるようになっていたが、それでも庭の片隅に隠れて雨と女性を見ていた。


「あまりそこに長くいると壊れてしまうぞ。壊れたら其奴が悲しむのではないか?」

 叢雨がそう心配していると案の定、その翌日にテレビは映らなくなってしまった。


「困ったわ。どうしたのかしら? 昨日までは元気だったのに……何がいけなかったのかしらね?」

 リモコンの電源ボタンを何度も押していたが、諦めて今度はテレビを心配そうにあちこち覗き込む女性に雨はすまなさそうに何度も謝った。


「無駄なことを。馬鹿な奴だ」

 叢雨はそう呟いたが、家を離れてどこかへ行こうとはしなかった。


 結局、テレビは電気屋に来てもらったが修理はできず、女性は新しいテレビを買うか即決できなかった。


「私の使いかたが悪かったのかしらねぇ? ごめんなさいね」

 女性はテレビにそう話しかけた。

 その横で雨が小さくなって泣いていた。


 数日後。

 雨はかなり回復し、歩き回れるようにまでなっていた。

 そうなると雨は女性の後をついて回り、何をするにも女性の傍を離れようとしなかった。


「良いお天気が続くのも良いけれど、あなた達にはそろそろ雨が恋しい頃よねぇ?」

 縁側で庭の草木に向かって女性がそう呟くと、雨は空を仰ぎ、その場で美しい舞を舞った。

 途端に雨が降り始める。

「あら、天気雨。神様のいたずらかしらねぇ?」

 タイミング良く降り出した雨に女性は思わず笑顔で庭に出た。


 濡れることを厭わず、空を仰いでありがとうございます、と感謝する女性に雨は誇らしげに女性の周囲を舞った。

 が、すぐに疲れて地面に転がると同時に雨は止んでしまった。


「馬鹿だな」


 叢雨は庭の隅でそう呟きながらもその表情が綻んでいることに自身は気づいていなかった。


 だがそれ以降、雨は縁側に座って庭を眺めることが多くなり、女性を辛そうに見つめることが増えた。


 数日後、雨はその家を離れ、橋の前に辿り着いた。

 渡ろうとして踵を返した。


「渡らぬのか?」


 後をつけていた叢雨は初めてその雨の前に立った。


「まだ……渡れぬ」

「なら私がお前を喰ってやろう」

 叢雨の言葉に雨は走った。

 逃げて逃げて再度あの家に隠れた。

 玄関先の花瓶の中に入り込むと中の水を溢れさせた。


「あらやだ。水が零れて……」

 花瓶が濡れているのを見つけた女性はそう言いかけて、異変に気付いた。

 そっと活けていた花を掴み、花瓶から引き抜く。

 尚も花瓶の中から水が溢れ出る様に驚き、気味悪がった。

 花瓶を掴み、玄関から飛び出ると中の水をバシャッと捨てた。

 が、それでも水がちょろちょろと滴り続けるのを見、ゴミ捨て場に持って行った。

 そのまま家に帰ろうとしたが、なんとなく躊躇われ、女性は再び花瓶を手にし、近所の骨董屋の戸を開けた。


 カウンターには若い男性がいた。

 何か帳簿のようなものを必死で見つめ、人が入って来たことにも気づいていない様子だ。

 そっと花瓶を売り物のテーブルの上に置き、声を掛けようと思った。

 が、どう説明して良いか分からなかったし、第一こんなものを引き取って貰えるとは思えなかった。

 悪いこととは思ったが、一刻も早く手放してしまいたかった。

 その気持ちが勝ってそっと店を出てしまった。


「怖がらせてすまなかったなぁ……」

 花瓶の中で雨が呟く。

「いっそ喰われてしまえば良かったやもしれぬなぁ」

 雨はそっと目を閉じ、涙を流した。

 同時に外では晴れた空から雨が降り始めた。


 一方、叢雨は雨を探して走り回っていた。


 あんなに辛そうな雨をこの世界から解放してやろうと思った。

 その苦しみごと飲み込んでしまえたらと。

 そう思って「喰ってやろう」などという言葉が自然と口をついて出ていた。

 正直そんなことを言うつもりで追いかけていた訳ではない。

 なぜだか目が離せなかった。


 その理由を思い出して立ち止まる。


 遥か昔、自分もまた人の喜ぶ顔見たさに気まぐれに雨を降らせたことがあった。

 姿も見えぬのに、声も聞こえぬのに。

 人は雨にではなく神に感謝するというのに。


 あの頃の自分を思い出し、苦しい気持ちも思い出した。


 雨は橋守と出会い、橋を渡らせてもらうことを願った。

 橋守と出会ったのも何かの縁。

 そう思ったのだろう。


 そういう選択もあったか、と叢雨は自嘲した。

 そういう選択は自分にはできなかった。


「狐雨か……」


 空を仰ぐ。

 雨のない空。


 そして狐雨のいない世界。


「声を……掛けていれば良かったのか」

 あの家で話をしていたらどうなっていただろう?

 もしかしたら狐雨はまだこの世界に留まっていたかもしれない。


 そんなことを考えて叢雨は首を横に振った。


「過ぎたことを考えるなど……無駄だ」


 その夜、叢雨は雨を降らせた。

 煌々と照る満月を隠すように。

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