3.氷雨の儀式
酒井さんと近藤さんが氷雨を見たと言ったのは、店から数分ほど歩いた先にある昔ながらの小さな商店街だ。
その商店街で氷雨を見かけたというので、その商店街へと向かった。
この商店街を抜けた先は駅へと続いている為、朝夕の通勤通学時間帯は人通りも多い。
が、日中は閑散としていて人通りはまばらだ。
どちらかというとお年寄りが多い町なので、平日の昼間はだいたいこんなものだ。
「着物着た人はいないねぇ」
商店街の入り口に着いた瞬間、近藤さんがそう漏らした。
人通りが少ない為、入り口から向こう側まで小さな商店街を一望できるのだ。
「人にも見えるとはいえ、そう簡単に会えるものではありませんからね」
魁が苦笑する。
「でも僕に会いに来たなら翠雨みたいにうちの裏庭に来ればいいのに」
「氷雨は呼ばれなければ裏庭には入れません。氷雨は橋守が正式にその役を継ぐ為の儀式を行う役目を担っています。故に本来は呼ばれて来る雨で、今回のように来ることは稀です」
「稀ってことは呼ばなきゃ絶対に来ないってことじゃないんだろ?」
酒井さんが問う。
「そうです。稀にですがこうやって悲しみを予言するようなことをして帰ります」
「なんか嫌な雨だなぁ」
酒井さんが言うと近藤さんも顔を顰めて同意した。
僕もそう思う。
「で? どうやって見つけるんだい?」
近藤さんが問うと酒井さんがニヤリと笑って僕を小突いた。
「ここは橋守の出番だな」
そう言われても僕にはどうすれば氷雨に会えるのか分からなかった。
なので助けを求めて魁を見た。
「雨を呼ぶ方法は実は二つあります。一つは橋の袂で雨の名前を呼ぶ方法ですがこれは知っていますね?」
ぎこちなく頷いて答える。
僕はその方法しか祖父から教わっていない。他にも方法があるなんて聞いていない。
「もう一つは水を入れた器に向かって雨の名前を呼ぶ方法です。水はできれば雨水が良いのですが、なければ川の水がいいですね」
そう言って用意周到な魁は背負っていた鞄を地面に降ろし、そこから水筒と高そうな陶器の灰皿のような器を取り出した。
「あっ! それはまさか……!」
近藤さんが珍しく大きな声を上げ、器を指差す。
「あ、やっぱり分かりましたか? 隅っこの奥の方にあったのでバレないかなぁと思ったんですけど……」
どうやら
「そりゃ結構な値打ち物なんだよ。
「砧青磁くらいは知っていますよ。これでも長生きしてますし、流行り物ではありましたからね」
「そうかい。なら値打ちは分かるだろ? ガラクタなら手前の方にたくさん並んでただろうにそれを選んだのはわざとだな?」
「古くて良い器の方が都合がいいんですよ。しかもこの色具合。氷雨にはぴったりです」
「適当なこと言って……」
近藤さんが奪い返そうとするのを酒井さんがまあまあ、と宥める。
「雨を拝めるんだ。安いもんだろうが」
「安かないっ。青磁だぞ? しかも砧青磁だぞ?」
「絹だか
「砧だっ」
「器は器。使われてこそ価値がある……」
「そりゃ川の水か? そんなもの入れる為の器じゃ……」
二人が言い合っている間に魁は着々と準備を進めていた。
高価な器に水筒から水を注ぐのを見て、近藤さんがさらに怒りを露わにする。
水筒の中身は近藤さんの指摘通り、家の裏手の橋の下を流れる川の水だろう。
山の中の綺麗な小川とは違って生活排水が流れ込む小さな川だ。
そんな水を高価な器に注がれて近藤さんは卒倒しそうな勢いだ。
僕も水筒にそんな水を入れられて嫌な気分になっていた。
もうあの水筒は使わない。
「さあ、この水面に向かって氷雨の名を呼んでください」
すっと目の前に器を差し出され、僕はチラと近藤さんを見、次いで魁を見た。
魁の促す視線に押されて水面を見つめる。
青磁の青い色に染まった水面が微かに揺れていた。
「……氷雨」
囁くような声に魁がもっと強く、と駄目出しをする。
「氷雨ッ」
その声に水面が揺れた。
器一杯に波紋が広がりそれが消えると器の中の水が勢いよく溢れ出し、それが地面に零れ落ちるなり人の姿へと変わった。
藍色の着物に長い髪を一つに束ねた女性が姿を現す。が、その背中に行李はなかった。
「おや。橋守に呼ばれるとは何事か?」
細い切れ長の目が僕を見上げる。
慌てて周囲を見ると、近藤さんと酒井さんの二人は地面に目を落としたまま、きょとんとしている。
その様子を見る限り彼らには氷雨の姿が見えていないようだ。
「耳が聞こえないのかい? 何事かと訊いたんだがね?」
僕がすぐに返事をしなかったので、少々苛立ったように氷雨が再度訊いてきた。
「あ、あの……」
なんで呼び出したのか頭が真っ白になって言葉が出なかった。
「背中の物を買いたいと思いまして」
そんな僕の様子を見かねてか、魁が助け舟を出す。
その言葉に近藤さんと酒井さんが氷雨の方を向いたが、やはり見えないらしくお互い顔を見合わせている。
「なんだい。やっと呼ばれたと思ったら……それなら橋守には特別な物をタダでやろう」
そんな二人が視界に入っているのかいないのか、そう言って氷雨は握り締めた両手を差し出した。
「右は未来、左は過去。どちらがお好みか?」
氷雨はそう言って口元に笑みを浮かべた。
「それはどういう意味ですか?」
「言葉通りだよ。橋守にはいつもこれしか渡さない」
「これまでの橋守はどっちを選んだんですか?」
「一人を除いて未来だね。だからお前がいる」
「それはどういう……?」
「その一人は不思議な選択をしたよ。面白い奴だった。お前はどうする? 右か、左か」
未来を選ぶべきなんだろう。
一人を除いてこれまでの橋守達の選択がそうであるならば、僕が選ぶべきものは決まっている。
でも、氷雨の言葉が引っかかる。
これは橋守を続けるか否かの選択なのか?
でも一人だけ過去を選んだ人がいる、ということなら途中で橋守が途切れたことがあるのだろうか。
そんな話は聞いたことないが、僕が知らないことは多い。
だから、そんなことがあったのかもしれない。
「長くは待てぬぞ。さぁ、どちらを選ぶんだい?」
その握り締めた手の中に何があるのか。
どんな意図があるのか。
選んだらどうなるのか。
魁をチラと見るが、視線を逸らされた。
魁は歴代の橋守達と氷雨のやり取りを見て来たはずだ。
だから全て知っているはずだ。
それなのに何も言わないのはどういうつもりだろう?
肝心なことは何一つ語らないのはなぜなのだろう?
「魁……」
「刀に問うのは公平じゃないねぇ。だが一つ教えてやろう。一人だけ違う選択をした奴がいたと言っただろう? それはな、お前の一つ前の橋守だ」
一つ前。
つまり、祖父が過去を選んだのか?
「これで選びやすくなったか? で、お前はどちらを選ぶ?」
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