夏の花・5

 実のところ、生を受けて四半世紀にもなるというのに、花火大会なるものに出向くのは、これが初めてだ。幼い時から外に出るのも人込みも好まなかったせいか、身内や仲の良い友達に誘われても、さほど行きたいとも思わなかった。

 我ながら、可愛げのない子供だった、とは思う。そして、本当に幼かったな、とも。

 だから、こんな風に自ら装って、誰かとともに行く気になったことが、驚きで。

 「……あの、佳苗さん、どうしたんですか?」

 不意に名を呼ばれて、纏まりのない思考が四散したかと思うと、すっと焦点が定まる。

 と、すぐ隣の席に座っていた瀬戸くんが、こちらを見ながら、何故か頬を赤くしていて。

 「ごめん、ちょっとぼんやりしてた。瀬戸くんこそ、もしかして暑い?」

 「あ、いえ、そうじゃないんですけど……」

 そう語尾を濁すのに、私は意図的に、その目をじっと見返してみた。

 こうしていると、最後には根負けして、何故、どうして、を話してくれることが多い。何度も一緒に出かけるうちに、判明した彼の癖だ。少しだけ、反応を楽しんでいることは、正直否めないのだけれど。

 と、予想通り、瀬戸くんは眼鏡の奥の瞳を見開いたかと思うと、顔をそらして、

 「その、さっきから、ずっと僕の顔を見てるから……何か、変なのかなって」

 その言葉に、しまった、と思わず眉を顰める。ひとりとりとめのない考えに沈んでいると、たまにこうなってしまうのだ。

 「大丈夫、変なんてことはないよ。いつも通り、いいひと、な感じ」

 苦笑を返しながら、からかうようにそう言うと、困ったように眉を下げて。

 「佳苗さんまで……どこに行ってもそんなこと言われますけど、あまり褒め言葉、とは言えないですよね」

 「そうかな。割と、掛け値なしにそう思うんだけど」

 真面目に返しながら、手にした団扇で軽く彼を仰ぐ。この席につくときに、スタッフがくれたもので、花火大会のロゴと七色の花火のイラストが描かれていて、なかなか綺麗だ。

 「だって、こんな取りにくい席、頑張って取ってくれたんでしょう?」

 私はそう言うと、目の前に広がる川面の揺らぎに、反射しては煌く細かな光の粒に目をやった。日はもうすっかり落ちてしまった中で、対岸の会場では打ち上げの準備が着々と進められているのが見える。

 今いる場所は、いわゆる桟敷席だ。とはいえ、大仰なものではなく、小さなパラソルの付いたガーデンテーブルに、木製の椅子が二つ。隣のテーブルとは、適度に離してくれているから、二人ならこれで十分なほどだ。加えて、軽いものだけれど、食事と飲み物まで手配されていて、居心地はとてもいい。

 「それほどでもないですよ。まあ、ペア席は人気が高いから、ちょっとだけ」

 照れたように髪に手をやって、小さく笑ってくれたのに、素直に良かった、と思う。

 ここを手配してくれたのは、絶好の観覧席だというのは勿論、多分、こちらが人込みが苦手なことを知っているからなのだろう。私を外に連れ出してくれるたびに、いつもそうするように、先に先に、と手を回してくれる。

 それだから、次はこっちが奢り返す、などでバランスは取っているつもりだけど、でも。

 「もう少し、こっちからの提案も増やさなきゃいけないよね……」

 先に運ばれてきていた、ティーソーダの入ったグラスを持ち上げながら、私は呟いた。

 こちらから行こう、と提案したのは、先月の猫カフェだけで、後は見事に彼ばかりだ。

 さらに、アクションを起こすのは、九割方瀬戸くんの方で、こちらは安穏としたまま、次々と差し出されるものを、口を開けて待っている状態なわけで。

 よく考えなくても、結構、酷いんじゃないだろうか。一応、彼女としては。

 「そう言われてみると、なんだか、餌付けみたいですね。でも、前も言ったでしょう?僕が好きで誘ってるんだし、それに……」

 そう応じた瀬戸くんは、突然言葉を切ると、言いにくそうに口を噤んでしまった。

 それから間を持たせるかのように、テーブルの上に置いていたグラスに触れて、表面に浮いた雫を指先で拭うと、ぽつりと続けた。

 「あの……佳苗さんが嬉しそうにしてくれるのを見るのが、好きなんです」

 「……それは、ありがと」

 酷く真っ直ぐに切り込まれて、私は気恥ずかしくなって俯いた。

 こういう態度に、とても弱い。彼の性格からして、分かってやっているというよりは、間違いなくただの素だけれど、だからこそ恐ろしい、というか。

 細見さん、あの、名前で呼んでいいですか、って言われた時も、真っ赤になって、正面から見据えられて。

 そうなるともう、頷かざるを得ない、という気にさせられて、降参してしまうのだ。

 ちなみに、照れて『物好きだよね』と返した時は、すかさず猛反撃を食らってしまったので、すっかり禁句になってしまった。……ほんとに、物好きだと思う。

 「じゃあ、とりあえず次は瀬戸くんの要望、なんでも聞く、ってことにしようか」

 気を取り直した私が、出来ることならなんとかするから、と言うと、瀬戸くんは、虚を突かれた顔になって。

 「ないことはないんですけど……お願いしにくい、というか」

 「なに、そんなに変なこと考えてるの?」

 「違いますよ!」

 「即答できるくらいなら、言えるでしょう?ほら、遠慮なくどうぞ」

 またうろたえた調子になったのに、促すように笑ってみせると、えらく長い間逡巡していたけれど、

 「……だったら、佳苗さんの部屋に行きたい、です」

 顔を俯けたままの瀬戸くんから、ようやく返ってきた要望に、私は正直、拍子抜けしてしまった。

 「え、そんなことでいいの?」

 「そんなことって……佳苗さん、ひとり暮らしでしょう?」

 「そうだけど。瀬戸くん、とっくに知ってるじゃない」

 何を今さら、という気分で、私は思わずまじまじと瀬戸くんを見てしまった。

 私の実家は少しばかり遠いから、就職すると同時に引っ越している。ただ、寮はあまりにも職場に近すぎて落ち着かないし、結局三駅離れたマンションに居を構えたのだけれど。

 もちろん、瀬戸くんはそのあたりも承知しているし、出かけた時は、当然のように毎回、自宅の前まで送ってくれる。

 けれど、せめてお茶でもと思って、上がっていく?と聞いても、遅いですから、とか、様々に理由をつけて絶対に帰ってしまうから、ちょっと引っかかってはいたのだ。

 「あのね、自分で言うのもなんだけど、ちゃんと片付けてるよ?いつでも来てもらっていいんだから」

 ワンルームだし狭いけれど、ロフトと収納もあるし、家具もなるべくシンプルにして、スペースに余裕を持たせるようにはしている。

 ……まあ、そのせいで『色気ない』『なんか男っぽい』と、容赦のない友達には言われたけれど。凄く掃除しやすいんだから、ほっといてほしい。

 と、じっと黙って聞いていた瀬戸くんが、明らかに不機嫌そうに、眉を寄せて。

 「……それ、わざとなんですか、それとも天然なんですか?」

 いつもより声を低めて、少し怒ったような口調でそう尋ねてくるのに、私はうろたえて。

 まだ目にしたこともなかった表情を向けられて、問いの意味すら汲むことができなくて、情けなくも困惑していると、すっと腕が伸びてきた。

 それから、大きな手が、頭の後ろに回ったかと思うと、そのまま引き寄せられて。

 空いた右手の指が、私の前髪をさらりと分けてしまうと、額に軽く触れる感触があって。


 「もう、どちらでもいいですよ。あなたに意識してもらえるように、こっちだって動きますから」


 ……意識してない、なんてことは、ないんだけど。

 こっちの顔が赤いのとか、気が付いてないわけはないはずなのに、どうして。

 と、いつしか肩を掴んでいた手が、そっと離されて。

 身を引いた瀬戸くんは、椅子の背もたれにどさり、と背中を預けてしまうと、そのまま緩く腕を組んで、川向こうへと視線を移した。

 絡め取るような声と視線から放たれて、思わず空気を求めるように、浅く息を吸い込む。

 それなのに、もう、逃げ場すら無くされたような気がして、私はそっと身を竦めた。

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