冬の星
短い着信音と、イルミネーションのように光を放つ携帯に、針を動かしていた私は顔を上げた。すぐ傍に置いていたから、テレビのテロップに似た雰囲気で、液晶の端に流れる文字を目で追う。と、
「倉岡さん?」
今日のやりとりは、もう終わりだと思っていたから、正直なところ驚いていた。
とり急ぎ、ハリネズミ型の針刺しに縫い針を刺してから、縫いかけの生地を脇に置くと、携帯を取り上げてメールを開く。
それから、いつもより遥かに短い本文を読んで、私は首を傾げた。
「……どうしたのかな」
実のところ、倉岡さんからメールをくれるのは、これが初めてだ。
普段送るのは、必ず私からだし、それに内容に沿ったきちんとした返事をくれるから、なるほど、となって終わるのがほとんどなので、さほど長くは続かない。
とにかく、あまり返事を待たせてもいけない。元のメールが短いのだから、それに合わせて簡潔に返事を打った。
To:倉岡さん
Re:興味ある。
でも、一番近いところでも隣の市だから、
まだ行ったことはないんだけれど。
倉岡さんも、星が好きなの?
「これで、いいかな」
なんとなく頷くと、送信ボタンをそっと押す。すぐに返事が来ないのは分かっていても、ついついじっと画面を見たままになってしまう。やっぱり、心待ちにしてしまうのだ。
そうして、一人そわそわとしていると、ようやく次が届いた。
From:倉岡さん
Re2:割と好きだ。
とはいえ、天文台へ行くほどじゃないけどな。
星座もせいぜい、冬にオリオン座が分かるくらいだ。
その隣の市のプラネタリウムは、よく行ってた。
俺の実家に近いから、親父に連れて行かれてた。
久しぶりに行きたくなったから、お前も行くか?
忙しいだろうから、無理なら遠慮なくそう言え。
それじゃ。
「……え」
思わず小さく声を上げてから、私は少し混乱してしまった。
二人で、っていうことで、いいのかな。
でも、それなら、まるで。
頭に浮かんだ単語を、首を何度も振って振り払うと、頬が熱いことに気が付いた。
そのまま顔を俯けて、うろたえを誤魔化そうとするけれど、なかなか上手くいかない。
しばらくそうしていて、やっと落ち着いたけれど、今度は何と返そうか悩むことになった。
行けないわけではない。あれから随分作品は縫い進めているし、息抜きもしなさい、と母にも言われている。内に篭りすぎるといいものはできない、が母の口癖だからだ。
それに、やっぱり、行きたい。
心を決めてしまうと、私はさっそく返事を打ち始めた。
To:倉岡さん
Re3:行く。
一緒に行っていいなら、そうしたい。
でも、倉岡さんのお休みの都合があるから、
いつがいいか、決めて貰ってもいい?
私は、土日ならいつでも大丈夫だから。
勝手言って、ごめんなさい。
それでは。
一気に書き切ってしまうと、えい、という感じで送信する。
いつもなら少しは見直すけれど、なんだかそれどころではなくて。
返事を待っている間も、どうしても落ち着けなくて、ぎゅっと携帯を握りしめたまま、机に突っ伏す。やがて、閉じていた瞼の裏に光が届いて、私はすぐに身を起こした。
From:倉岡さん
Re4:分かった。
それじゃ、今月の最終週、土曜日でいいか?
来週は休日出勤の予定だから、無理なんだ。
いきなり、悪い。
それで良ければ、連絡くれ。
「うん、予定、ない」
携帯のスケジュール帳を、あらためて確認すると、何もない。元々、作業の進み具合がどうなっているかが予測できないから、極力予定は入れないようにはしていたのだ。
それに、二週間後なら絶対にもう終わりは見えていないといけない。出来ていない、はもう許されないのだから。
……よし、頑張ろう。
私は小さく拳を握ると、すぐに了解の返事を送った。それから、もう一度スケジュール帳を開いて、予定に『プラネタリウム』とだけ入れて、星のアイコンを設定してみる。
初めて使ってみたそれは、カーソルを当てると、きらきらと微細な光を放って、とても可愛い。しばらく眺めているうちに、あるものを思い出して、私は立ち上がった。
脇机の一番上を開けると、アクリル製のトレイに小分けしてある、ビーズやボタンの中から、星形のものをひとつかみほど取り出す。
それを机に軽く広げてみてから、私はどう使おうか、としばし考えを巡らせた。
そうして、ついに約束の、土曜日。
「ええと、一両目、二両目、三両目……の、ここかな」
法坂駅のホームで、私は電車の停車位置を確認していた。
今日は、私が通学に使っているのとは反対の、二番線に乗ることになる。だから、倉岡さんが芦萱駅から乗って、ここで同じ車両に乗り合わせることにしたのだ。
次が急行だから、間違えないようにしないと。こっちは、あまり乗ったことがないし。
ホームに描かれた『快速・急行』の、丸い印のある場所を確認して、腕に巻いた時計を見る。午前十時四十分だから、時刻表の赤文字の四十三分、これで間違いない。
その三分が意外と長く感じて、小さく息をつくと、思わず最終チェックを始めてしまう。
ワンピース、裾ほつれなし、めくれなし。カラータイツ、電線なし。ストール、ほつれなし、糸、出てない。ショートブーツ、汚れなし。カチューシャ、ずれてない。
家を出る前に、さんざん母と兄とおはぎにチェックはされたものの、なんだか落ち着かなくて、うろうろとしてしまいそうになるのをなんとかこらえる。
と、電車が近付いてくる旨のアナウンスと、それに続いて聞き慣れたメロディが流れてきて、私は少しだけ身構えながら、ホームに滑り込んでくるのをじっと見つめた。
一両目、二両目、三両目。
進行方向から数えて二番目のドアに倉岡さんの姿を見つけて、ほっとしたのも束の間、そのまま電車は前進していってしまう。間違えた、と気付いた時にはもう遅くて、やっと止まった時には、随分と前へ行ってしまっていた。
慌てて走るけれど、『ドアが閉まります』のコールがもう掛かっている。やっと三両目に辿り着いた時、声が届いた。
「歌!」
一番近い扉まで走って来てくれた倉岡さんが身を乗り出して、私の腕を掴むと、ぐい、と引っ張る。その勢いのまま乗り込んでしまうと、すぐ後ろで扉が閉まった。
「……危ねえな。おい、大丈夫か?」
頭の上から声が届いて、はっとして顔を上げる。と、とっさに倉岡さんのジャケットにしがみついてしまっていたのに気付いて、慌てて手を離すと、
「大丈夫、有難う。乗るとこ、間違えたみたい」
「ああ、今日休日用ダイヤだろ。時間帯で乗車位置が変わるからな」
そう言って、とりあえず座るか、と、休日の割には意外と空席の多い車内を示してくれるのに、頷いて動こうとしたけれど、
「あ」
「……何やってんだ?」
声を上げて、扉の前で止まってしまった私に、倉岡さんが戻ってきて、見下ろしてくる。後ろを向いたまま、私はなんだか情けない気持ちでストールを引っ張ると、
「……挟まった」
「え?」
「端っこ。取れない」
フリンジ部分だけでなく、結構派手に挟まってしまっていて、なまなかなことでは取れそうもない。動けずに困っている私に、倉岡さんは喉を震わせるようにして笑うと、
「次で開くから大人しくしてろ。十分くらいかかるけどな」
私の立っている横に並んで、とん、と、扉に背を預けた。
軽く腕を組んで、窓から流れる景色に目をやりながら、何気なく聞いてくる。
「服、もうかなり出来たか?」
「ん。九割五分、っていうところ」
「そうか。あと、何すれば完成なんだ?」
「このへんの、刺繍。上村さんに教わりながら、仕上げに掛かってる」
そう言いながら、私は着ているワンピースの裾の辺りを示した。実際はもう少し長く、膝下十センチくらいになる。裾のぐるりと、メインの大きなものを仕上げれば、完成だ。
そう言うと、倉岡さんはふうん、と感心したように私を見ると、
「ひょっとして、今日の服も自作なのか?」
「ううん。ワンピースはお母さんが作ってくれたけど」
大判の白いストールは、私が店先で一目惚れして買ったもので、手触りがとてもいい。
ワンピースはネイビーと淡いブルーの大きめのチェックで、今は見えないけれど、腰と首元に黒のリボンがついている。袋に縫ったベルベットで、これも触ると気持ちがいい。
「作ったのは、これくらい」
言いながら、少し俯いてみせると、髪につけたカチューシャを見せる。
ワンピースの余った端切れで筒状に細身のリボンを作り、手持ちの星形のボタンをランダムに縫い付けてから、市販の細いカチューシャに通して、端を始末すれば完成だ。
なんとなくだけれど、何か、今日のために作ってみたくて。
と、微かに触れられた感触に顔を上げると、倉岡さんが手を引いて、
「悪い。つい、どうなってんのか気になって」
「星?」
「それもだけど、こういうもんがなんか、珍しいっていうか」
話を聞いてみると、倉岡さんは三兄弟の真ん中で、あまりこういうものに触れる機会がなかったらしい。確かに、男の人ばかりでは、カチューシャはなかなか縁がないだろう。
「どんな感じか、試しにつけてみる?」
「……それは勘弁してくれ」
結構、真面目に勧めたのだけれど、当然ながら固辞されてしまって。
そうこうしているうちに、次の駅に電車は滑り込んでいく。まだ降りる駅は先だから、邪魔にならないようにどかないといけない。
と、扉が開く前に、私が振り向くのと同じタイミングで、倉岡さんがすっと背中に腕を回してきて、
「ほら、こっち来い」
開くと同時に、するりと外れたストールとともに、軽く引き寄せられる。そのまま奥の方へと連れて行かれて、向かい側の扉の脇に落ち着くと、
「勝手に悪い、ここで乗ってくる客が多いから。もう次で降りるからな」
「分かった」
倉岡さんの言う通り、降りた人より乗ってくる人が遥かに多くて、あっという間に混んできた。とはいえ、ラッシュ時とは比べ物にならないほどの余裕だから、あれこれと話しているうちに、目的の駅へと着いてしまった。
一度も降りたことのない駅なので、慣れた様子で歩いていく倉岡さんの後ろになるべくくっついて歩く。万が一、はぐれでもしたら大変なことになるからだ。
改札を出てからは、見慣れない街並みに、品揃えがなんだか楽しげな雑貨屋、そろそろ冬物が揃ってきたブティックなどが並んでいて、つい目を引かれてしまう。
そんな様子に気付いたのか、倉岡さんは腕の時計を示してくると、
「とりあえず、寄るんだったら帰りにしとけ。開始時間も迫ってるから」
「うん。あとどのくらい?」
「もうすぐ着く。あのビル、見えるだろ」
指差した先には、白い外壁にショーウィンドウが並ぶ、大きな商業施設だった。その十五階建ての最上階に、プラネタリウムがあるのだ。
ドーム状のそれは、ここから見ても分かるくらいで、綺麗に空の半球が描かれていた。さすがに、いつの空だとかは分からないけれど、煌くような星々に目を惹き付けられる。
「ほら、信号変わってるぞ」
ぽん、と背中を叩かれて、慌てて足を進める。
道路に敷かれた縞々を、ひとつひとつ越えながら、私は少しだけ前を行く背中をじっと見つめていた。
幸い、土曜日とはいえ、満員になるほどではなかった。チケットを買うのに少し並んだくらいで、すんなりと真ん中あたりの席を確保すると、息をつく。
携帯をマナーモードにしてから、私はぐるりと頭上に広がるドームを見回した。
まだプログラムの上映前だから、白い半球には照明の加減なのか、あとから入ってくる人達の影が映っては、それぞれの席を目指して動いていくのが見える。
ゆったりした椅子にもたれながら、それを目で追っていると、
「まだ始まってねえぞ。面白いのか?」
「ん。コントラストが、ちょっと」
例えばスカートで、白地にグレーや黒のシルエット、などというデザインも面白いかもしれない、と言うと、倉岡さんは少し眉を上げて、同じように半球を見上げた。
「職業病か。何でもそっちに結びつくんだな」
「小さい頃からの癖、かな。だから、今日星を見るの、凄く楽しみにしてた」
刺激になる、というのももちろんだけれど、こうしてちゃんと会えるのは、久しぶりだ。そう考えて、そっと、隣に座る倉岡さんをあらためて見てみると、何故かほっとする。
と、眉を寄せていた倉岡さんは、軽く息を吐き出すと、
「なら、良かった。息抜きになるんじゃねえか、って思いつきで誘ったから」
「……うん」
どこか、照れたような口調でそう言うのに、口元がほころぶ。
その途端、プログラム開始のアナウンスとともに、緩やかに照明が落とされる。静かな音楽が流れ始めて、椅子に深く掛け直すと、ふいに視界が星で満たされた。
全身が何とも言えない浮遊感に包まれるのに、思わず小さく声を上げると、倉岡さんがこちらを向いて、大丈夫か、というように見てくる。慌てて頷くと、二人揃って座り直す。
今日のテーマは、冬の空だ。この辺りでも見られる恒星や星座の見つけ方や、それらにまつわる伝説など、どちらかといえば初心者向け、地元向けなものらしい。
普段ならまず見えない、細かな星々まで再現された空に、ひたすら目を奪われていると、
「……オリオンか」
聞こえるか聞こえないか、という細い呟きが、ふいに耳に届いた。
そういえば、確かメールで言っていたな、と思いながら、その形を順に目で追う。
ひときわ鮮やかに輝くのは、ベテルギウス、リゲル。名も知らなかった三連星は、アルニタク、アルニラム、ミンタカ。
ベラトリックス、サイフ、と、耳慣れない星の名前を、声を出さずに呟きながら、彼と、月の女神の、理不尽で悲しい伝説に思いを向ける。
アルテミスは、空に上げられたオリオンに会えたのかな、と思っていたら、月に一度は会うことが出来る、と聞いて、ほっと息をつく。
「……でも、ひと月に一度は、ちょっと寂しいかな」
ふと零した言葉に、思いがけず小声で答えが返ってくる。
「織姫と彦星よりはマシなんじゃねえか?」
「……確かに」
あちらは、一年に一度だ。少し、自業自得な面もあるけれど。
でも、ほんの少しの時間しか会えなくても、ずっと好きで、会いたくて。
それだけは、きっとどちらも同じ気持ちなんだろう。
そんなことを考えているうちに、プログラムは終わって、周囲がすうっと明るくなっていく。光の中に引き戻されるような感覚に、私は深々と息を吐いた。
「なんか、やけに嬉しそうだな」
気が付くと、少し椅子の背から身を起こした倉岡さんが、こちらを見てそう言ってきた。
「うん。楽しかった」
「……そっか」
正直にそう告げてしまうと、倉岡さんは軽く頷いてから、腕の時計を見やった。
「丁度昼過ぎたし、どっか飯食いに行くか」
「あ、その前に、ショップだけ寄ってもいい?」
ショップというのは、プラネタリウムに併設されたもので、オリジナルグッズや星図、書籍などを販売している。その中で、ホームページに載っていたものが気になるのだ。
「構わねえけど、なんか買うのか?」
「ストラップ。まだひとつも買ったことないから」
携帯を買ってから、すぐに色々と探してみたけれど、これという決め手が何故かなくて、結局今まで付けないままだったのだ。
席を立つと、出口へと向かう人の流れはもうまばらで、すぐに外に出ることが出来た。
エレベーターへと向かう通路の左手に展開しているショップに入ると、さっそく目的の物を探しにかかる。多分、まだあるはずだ。
倉岡さんはといえば、店の入口付近で足を止めて、綺麗な写真集を見ている。行ってきます、と断ってから、奥へと進んでいくと、目指すブースが見つかった。
たくさんの商品の中から、青と銀がベースのそれを取り上げると、手のひらに乗せる。
それは、『アストロノーツ』という名前の通り、宇宙飛行士から始まって、人工衛星、星、月、それからちゃんとリングもついた、土星のチャームが繋げられている。
写真より可愛い、と嬉しくなりながら、レジに向かおうと首を巡らせた途端、ひょい、とストラップを取り上げられる。
驚いて振り向くと、一冊の写真集を手にした倉岡さんが立っていた。
「これでいいのか?」
「え、うん。あの」
「そうか。じゃあ、ここで待ってろ」
そう言うなり、少し離れたレジに向かっていってしまう。私がぽかん、としている間に、清算を終えて戻ってくると、白に大熊座がプリントされた、紙のバッグを私に差し出して、
「やる。持って帰れ」
「え、でも、どうして」
すっかり戸惑って受け取れずにいると、倉岡さんは半ば押し付けるように私に持たせて、横を向いてしまうと、
「もうすぐ、試験だろ。合格祈願のお守りだとでも思っとけ」
「……本も、いいの?」
「暇つぶしにでも使え。あれだけ見入ってたんだから、多分気に入るだろ」
そう言って、先に店を出てしまう。足早に歩いていってしまうのを見て、小走りになりながら、やっとのことで追いつくと、袖をなんとか掴む。
眉を寄せながら振り向いてきた倉岡さんを見上げて、私は言った。
「あの、有難う。凄く嬉しい」
本当は、もっと、言いたいことがある気はするのだけれど。
今はどうしても、これだけしか言えなくて。
「……ああ」
一瞬だけれど、どこか困ったように笑って。
それから顔をそらすと、今度はゆっくりとした歩調で歩き出した。
その隣に並んでしまおうか、と迷ってから、やっぱり少しだけ遅れてついて行く。
まだ、言えない。
でも、きっと、もう少し。
白のバッグをぎゅっと握りしめながら、私は唇を結ぶと、前を向いて歩みを進めた。
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