九月
河川敷
まだ礼らしい礼も出来ていなかったし、こちらから伺うついでに、何か手伝うくらいは別に構わない。というより、俺が世話になった内容を考えれば、むしろそうしてもらった方が有難いくらいだ。
ただ、ひたすらに疑問なのは。
「はーい、とうもろこし焼けたよー、歌ちゃん食べる?」
「食べる。有難う」
……なんで俺の隣で、佐伯がこの席に一緒に来ているのかということで。
しかも、お前までいきなり『歌ちゃん』呼びってどういうことなんだ。
なんとなく妙な心地で、俺は皿に盛られたとうもろこしを、やけに一生懸命に冷ましている歌を見やっていた。
発端は、八月の最終週。俺が寮の自室から、深山家に電話を掛けたことだった。
コール二回で、すぐにぷつりと音が響いて、そろそろ聞き慣れた声が応えてきた。
『はい、深山です』
「夜分遅くに申し訳ありません、倉岡と申しますが」
『あ、こんばんは。凄い、おはぎ』
「?何が凄いんだ?」
挨拶に続いていきなりの台詞に、俺がそう尋ねると、歌は小さく笑って、
『普通の電話だったら、おはぎは何も言わないの。声、聞きつけたみたい』
「ああ、そこにいるのか?元気にしてるか」
『夏バテもしてないし、大丈夫。ね』
応えるように、わん、と声が聞こえる。確かに元気そうだ。
それはともかくとして、俺はさっそく用件を切り出した。
「長いこと連絡できなくて悪かった。ちょっと仕事が忙しくてな」
『ううん。なんだか大変そうだ、って上村さんから聞いてたから』
「……ちょっと待て。なんで上村さんからそんなことを聞いてるんだ?」
『うちのお客様になってくれたから、この間、仕上がりの電話したの。その時に話してくれた』
あっさりとした答えに、なんだ、と息をつく。確かに、ここのところ日が変わりそうな時間まで連日残業していたし、上村さんとも長く顔を合わせてはいない。
「とにかく、やっと暇が出来たから、今週末にそちらに伺おうと思ってるんだけどな。少しだけ時間割いてもらえるか、聞いておきたくて」
『分かった。ちょっとだけ待ってて』
そう言うなり、すぐに保留音が流れる。さすがに曲名は出て来ないが、聞き覚えはある。穏やかなメロディのクラシックだ。
耳に馴染むようなフレーズが一巡りしたころ、またぷつり、と音がして、今度は意外な人物の声が流れてきた。
『よお、久しぶりー。湿布効いた?』
「ああ、謡介さん、お久しぶりです。おかげさまで良く効きました」
『そりゃ良かった。あれ、うちの会社の新製品だからさー、効かないと困っちゃうし……あ、それでさ、今週末なんだけど、そっちは一日空いてるの?』
「はい、他に予定は入ってませんが」
『よし。じゃあ、倉岡さんもバーベキュー参加ねー』
「は?」
唐突な発言に俺が戸惑っていると、やけに機嫌のよさそうな声が続いた。
『いやー、夏場は混んでてなっかなか予約が取れなかったんだけど、九月に入った途端すかっと取れたんだー。じゃあ、準備はこっちでしとくから』
「え!?ちょ、謡介さん!?」
そう声を上げるも、返事は返ってこない。どうしたもんか、と思い始めたタイミングで、歌の声が聞こえてきた。
『……ごめん、兄さん、強引で』
「いや、っていうか、俺の参加は既定ってことか?」
『ううん、そんなことない。だめだったら、ちゃんと私から兄さんに言うから』
初めて聞く、真剣に怒っているような声に、俺は思わず頭を掻くと、
「あー、まあ、メンツによっては別に構わねえんだけどな。誰が行くんだ?」
『お母さんと、兄さんと、私と、おはぎと、上村さん』
……どんだけ深山家と仲良くなってんだ、上村さん。まあいいけど。
おはぎがきちんと人数に数えられているのに気付いて、なんとなく笑みを誘われながら、俺は言った。
「分かった、行くよ。何か用意していくものとかあるか?」
『ご飯はこっちで用意するから、大丈夫。上村さんがちらし寿司持ってきてくれるし、飲み物もあるし……あ、デザート、あるといい』
「デザート?何がいいんだ?」
そう聞き返すと、うーん、としばらく悩んでいた様子だったが、
『……カスタードプリン。シュシュの』
「?なんか聞いたことあんな」
『芦萱の駅前の店。あれ、凄く美味しい』
そう言われて、ああ、あれかとやっと思い当たった。繁忙期ともなれば、たまに部長級から差し入れ、とかで、その店の焼菓子やら何やらが回ってきたことがある。俺はあまり甘いものは食えないから、大抵は佐伯あたりに融通しているが。
「プリンな。それじゃ買っていくから、また時間とかの連絡、頼む」
『うん。それじゃ、おやすみなさい』
「……ああ、おやすみ」
スマホを耳から離して、通話を終えながら、俺は少し首を捻った。
……なんだろうな、この、妙なくすぐったさは。
時々、歌が言う何気ないひとことに、何かがひっかかっているような心地になる。
まあ、いいか、とスマホをテーブルの上に置いてから、一拍も置かないうちに着信音が鳴った。
「……なんだ、佐伯か」
とりあえず出ようとディスプレイを見ると、着信ありのアイコンが表示されている。
こいつ何回掛けてきてんだ、と思いながら電話に出る。と、
『あー、やっと出た!もー、そんな長々と誰と話してたんだよー』
「お前は俺のお袋か。誰だっていいだろうが、何だよ」
『まあ確かにどうでもいいんだけど。それよりお前修羅場抜けただろ、週末合コン行かない?』
「またかよ……どんだけ好きなんだ」
ややうんざりしながら、俺はそう返した。
この間、ここで洗いざらいをぶちまけてから、やたらとこの手の誘いが増えた。しかも、毎週のようにセッティングしてくるので、断るのに正直辟易していたところだ。
幸いにも、今回ははっきり断る理由がある。予定が入っていることを伝えると、佐伯は何故かさらに食いついてきた。
『えー、予定ってなんだよ、帰省とかじゃないだろー。あ、傷心旅行でもすんの?』
「するか、阿呆!」
その後、さんざんしつこく尋ねられて、限界に来た俺が予定の中身を告げて、さっさと切った。それで話は終わった、はずだったが。
当日の朝、何故か寮の玄関には、上村さんと佐伯が並んで立っていて。
「お前、なんでここにいるんだよ!幹事やるとか言ってただろ!」
「えー、こっちの方が面白そうだから、瀬戸っちに任せてきたー」
「悪いね、あたしんとこに来てあんまりうるさいもんだから、仕方なく歌ちゃんに連絡したんだよ」
へらへらとそう応じてきた佐伯に、すまなさそうに上村さんがため息をついた。
「そしたら、『その人がよければ、別に大丈夫』ってねえ……あの子もそうだけど、一家揃って人がいいっていうか……ああ、迷惑にならないように、ちゃあんと目を光らせとくからね」
……もう既に、そういう問題じゃねえって気がするんですけど。
とにかく、かなり重そうな風呂敷包み(おそらく三段重)を持った佐伯と、白のやけに上品な日傘を差した上村さんと連れ立って、俺は仕方なく駅へと向かった。
それから深山家に着いて、プリンと西瓜(佐伯が買った)を冷蔵庫に入れてもらって、謡介さんの運転するミニバンで河川敷に向かった。
外面の良さを最大限に発揮した佐伯は、なんなく周囲に溶け込んだ。上村さんの気迫のせいもあるだろうが、こいつの場合は一種の才能だ、とも思う。
ただ、おはぎには、俺ほど懐かれないのが少し不思議ではあったが。
「ていうか、かなり豪華じゃね?こんな充実したバーベキューって俺初めて」
「まあ、確かにな」
佐伯が感心したように言うのも無理はない。テントの下には、アウトドア用の簡易テーブルにベンチ。テーブルには上村さんの三段重(松花堂弁当並み)、深山家が提供のサンドイッチとおにぎりがスタンバイされている。それに加えて、焼いた肉や野菜もたっぷりだ。
「しまった、気張って作り過ぎちまったかねえ」
「大丈夫ですよ!俺がいるんで!」
「そうそう。万が一残ったら、有難く晩御飯にさせていただきますから」
少し心配そうに言った上村さんを、すかさず瑞枝さんと謡介さんがフォローしている。歌はといえば、その横で頷きながら、もくもくとちらし寿司を口に運んでいた。
余程気に入ったのか、紙皿に盛られたそれを、やけに集中した様子で食べている。
「……なんかの小動物みたいだな」
思わずそう零すと、歌は何か言いたそうに顔をこちらに向けてきたが、喋るわけにもいかず、ひたすら一生懸命咀嚼している。口が小さいからなんだろうか。
その様子が面白いので、つい見ていると、上村さんがすっと眉を顰めて、
「倉岡さん、年頃の女の子をそう無遠慮に眺めるもんじゃないよ」
「は?あ、ああ、悪い」
「……大丈夫」
ようやく呑み込めたのか、口元を押さえながら歌は言うと、紙コップのお茶を飲んで、小さく息をつく。その横で、おはぎが伺うように見上げていた。
「そういや、おはぎの飯は?」
「ちゃんと用意してある。いつものご飯と、ささみ」
そう言われてテーブルの下を見ると、水の入った金属製の皿、白い皿に盛られたドライフード、茹でたささみを細かく裂いたものが、それぞれ並べて置かれている。もう、結構食べてしまっているようだ。
その横にあるものに気付いて、俺はえらく派手な色合いのそれを取り上げた。
「これ、フライングディスクか?」
「そう。おはぎ、得意だから」
「……だろうな」
俺の放り投げた箱を、見事に受け止めたあの姿は、そうそう忘れられるものじゃない。
「あ、俺それやりたーい。歌ちゃん、あとでやらせてもらっていい?」
「ん。大丈夫」
幸い、横から首を突っ込んできた佐伯の台詞で、思い出しかけたことは吹き飛んだ。
まだ、あれは引き取れそうにないな、と思いながら、俺はそのままそれを佐伯に渡した。
それから、あらかた飯を食べ終わって。
「……本気で、大半平らげましたね」
「ああ、俺大食らいだからね。三十路入っちゃったからそろそろ減らさないとなー」
やっぱり代謝落ちてくるしね、と妙に爽やかにそう言った謡介さんと俺は、テントから少し離れた芝生の上で、フライングディスクに興じている二人と一匹を眺めていた。
その横では、上村さんと瑞枝さんが、俺には到底分からない和裁についての話題を繰り広げている。どうやら、急速に仲良くなった背景には、趣味の一致があるらしい。
「俺と父さんが良く食うせいか、反動みたいにお袋と妹は小食なんだよね。だから歌がたまーにだけど貧血起こしたりするんで、ちょっと心配なんだけど」
「まあ、確かに二人とも細身ですね」
……というより、この人と比べたら誰でも小食になるんじゃねえか?
そんなことを考えながら、ごく社会人的に勤務先の話題をあれこれと話しながら、その様子を見るともなく見ていた。
試しに、何度か歌が投げてみせ、おはぎがそれを受け止めるのを繰り返したあと、交代した佐伯が思い切り遠投しているのが見えた。……いきなり無茶しやがるな、あいつ。
しかし、おはぎはそれに一向構わない様子で、見事に追いついてキャッチしている。
「凄いな……おはぎ、雑種ですよね?」
「うん。あの子は、もう三年前かな、歌が河川公園で拾ってきたんだよ」
おはぎ、お前、俺と同じか……だから懐かれてるのか?
ふとそんなことを考えていると、謡介さんが続けた。
「このへんって、野良犬はほとんど見ないから、多分捨てられたんだろうね。散歩してたら、葦の原の辺りから、歌を目がけるみたいに、丸々した子犬が尻尾振りながら寄ってきたんだって」
それであっさり陥落、と言って、謡介さんは笑った。
場所まで同じかよ、といささか複雑な思いでいると、ふと視界の端で佐伯が動いた。
また全力の遠投の後、歌に近付き、何事か話しかけている。しばらく頷きを返していた歌が、不意にくるりと踵を返して、駆け戻ってくるおはぎの元へと走って行く。
と、急にしゃがみこんで、おはぎに覆いかぶさるように倒れ込むのが見えた。
「!おい、大丈夫か!」
おそらく、貧血、と言っていたのが頭にあったのかもしれない。
俺はすぐさまベンチから立ち上がると、真っ直ぐに歌の元へと走った。幸い、というかさほど離れていなかったせいで、すぐに傍へと辿り着く。と、
「……倉岡さん?」
ゆっくりと上げられた顔が、ほんのりと赤みを帯びている。貧血じゃないのか、とほっとするものの、次に熱中症、という単語が頭に浮かんで、俺はますます慌てた。
「なんでおはぎを抱き締めてんだ!暑いだろ、大丈夫なのか!?」
「……大丈夫。なんでもない」
何故か俺から顔をそむけると、しきりに小さく鼻を鳴らしているおはぎを、ひたすらにぎゅっとしている。どうやら、転んだとかそういう訳でもないようだ。
歌に抱き締められているおはぎの、どこか途方に暮れたような顔を見ながら、どうしていいやら分からず、俺はただその傍に立ち尽くしていた。
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