バレンタイン

 入寮してからこれまでに、この部屋に招き入れた人間と言えば、引っ越しの時の親兄弟、佐伯、瀬戸、それから同期の連中くらいのものだ。

 興味本位で見に来た母親を除けば、むさくるしいほどに全て男ばかりで、当然ながら、遠慮も気遣いも何もあったものではなかった。

 だからというか、こんな風にえらく緊張した様子で、おずおずと入ってくる姿が、どうにも可愛らしくて。

 「別に、何か奥から飛び出してくるわけじゃねえぞ?」

 玄関に立ち尽くしている歌に、笑いながらそう声を掛けると、うん、と小さく頷いて、意を決したように靴を脱いで、おそるおそる上がってきた。

 「……えっと、お邪魔します」

 用意したスリッパに足を通して、丁寧に頭を下げると、顔を上げてもの珍しそうに首を巡らせる。面倒なことに、キッチンと部屋に仕切りがないので、目隠しに置いてある白い折り畳み式のパーティションの陰から、そっと奥を覗くと、

 「広い。倉岡さん、この部屋って、どのくらいの広さ?」

 そう尋ねて来るのに、俺は歌が持って来た食材を受け取って、片っ端から冷蔵庫に入れながら、返事を返した。

 「フローリング八畳、クローゼット一畳、キッチンが三畳、一応レベルでバストイレ別、おまけに半端なく狭いベランダ、ってとこだな」

 「凄い。寮って、もっと狭いのかなって思ってた」

 「まあ、そのおかげで佐伯にしょっちゅう乗り込まれるんだけどな……」

 寮自体は、そもそも会社の方針で、利用者が減少した場合ノーマルな賃貸マンションとして運用、もしくは売却できる前提で設計してあるから、結構設備は整っている。

 とはいえ、所詮ワンルームだから、シングルのソファベッド(今はソファにしてある)、その向かいに浅めのチェストと机を並べて、テレビと炬燵を置いている程度だ。

 しかし、俺があまりものを置かないせいか、調子に乗って同期全員(俺含め十一人)がこのスペースに乗り込んできた時には、さすがに何が何やら分からなくなったが。

 「八畳でそうなんだったら、六畳で六人、は大丈夫かな」

 「?何するつもりなんだ、お前」

 ふと零れた妙な発言にそう尋ねると、何か考え込むように指折り数えていた歌は、俺を見て小さく笑うと、

 「この間、里沙が無事に合格したら、うちで手芸部の皆も一緒にお泊り会しよう、って相談してたの」

 「全部で、六人か。普通に考えればギリ、ってとこだとは思うけどな……宇佐美だけは無理があるんじゃねえか?身長的に」

 「じゃあ、いっそ、対角線上に里沙で、あとは全員平行に並ぶとか」

 「……いや、そんな微妙な寝方じゃ安眠できねえだろ」

 結局、一番無難なのは、一面に布団を敷き、左右に三対三に別れて頭を寄せて寝るのがいいんじゃないか、という結論が出たところで、大方の荷物は片付いた。

 「とりあえず、なんか飲むか?コーヒーかお茶くらいしかねえけど」

 今日は、晩飯を作りに来てくれる、という目的ではあるものの、まだ時間は随分早い。

 頷いて、手伝う、と寄ってきた歌に、棚からマグカップを出してもらうように頼むと、希望の通り、コーヒーメーカーにフィルターをセットする。

 豆を適当な杯数だけ放り込み、薬缶に水を汲もうと動くと、気付いた歌が手渡してくれた。

 「はい、これでいい?」

 「……ああ、悪い」

 一瞬、妙な既視感を覚えて、返答が遅れる。

 水を入れながら、しばらく考えていると、不意に思い当たることがあった。

 河川敷に行った後、歌がコーヒーを入れてくれようとしていて、それで。

 「倉岡さん、いつも使ってるの、どれ?」

 その声に回想を断ち切られて、顔をそちらに向けると、棚に並んだ五つのマグカップを前に、歌が困ったように眉を下げていた。一人住まいだというのにこの数なのは、ここに越してきた当初、母親が、客が来た時に便利だ、と言って置いて行ったからだが、

 「ああ、俺は右端の青いラインのやつ。お前は……」

 どれにする、と聞きかけて、その中には、どう転んでも使わせられないものがあるのを思い出して、慌てて付け足す。

 「あー、赤いドットのやつは佐伯が勝手に使ってるし、緑のはこの間瀬戸に出したから、それ以外にしといてくれ」

 「分かった。じゃあ、このオレンジのにする」

 イエローも混じったチェック柄のそれを両手にして、歌はしばらくそれをじっと見つめていたかと思うと、ふいに俺の方を向いて、真剣な口調で言ってきた。

 「倉岡さん、どこかに、こっそり名前書いてもいい?」

 「え?いや、別に構わねえけど……なんでまた」

 別に、他の誰に使わせることもないから、書かなくても支障はないのだが。

 そう思いながら尋ねると、歌は赤と緑のマグを指差してみせて、

 「佐伯さんと、瀬戸さんが名前、書いてるから」

 「……はあ!?あいつら、いつの間に!」

 よくよく見ると、赤には取っ手の腹に、楷書で『佐伯』、緑にはかなりよれた字で、胴の部分に『せと』と書かれている。

 ……この間の、歌と電話してた時だな。十中八九、佐伯の差し金か。

 瀬戸は断りもなくこういうことが出来る性格ではないし、おそらく、したたかに酔ったところをそそのかされたんだろう。佐伯は、もちろん言わずもがなだが。

 ともかく、奥の机から油性ペンを取ってきてやると、歌は嬉しそうに笑って、

 「有難う。どこにしようかな……」

 しばらく、考え込みながらマグをくるくると回していたが、やがて取っ手の根元辺りに決めて、書き始める。と、

 「……出来た」

 何故か『うた』とひらがなで書いているのと、飾りに描いた小さな花が、妙に可愛くて。

 出来栄えに満足したのか、満面の笑みで差し出してくるのに、俺は腕を伸ばして、その頭を撫でてやった。



 それから、炬燵に入って、淹れたコーヒーと一緒に、歌がくれたブラウニーを食べて。

 俺向きに作ってみた、というそれは、くるみだけでなくナッツが何種類か入っていて、ほんのりと塩気もあって、確かに美味かった。

 心配そうな様子に、素直にそう伝えると、ほっとしたのか、ようやく自分も食べてみて、納得したようにひとつ頷く。と、

 「そう言えば、倉岡さん、瀬戸さんから連絡は来たの?」

 「一応、ついさっき来たんだけどな」

 そう応じると、スマホを取り上げ、メーラーを立ち上げる。

 相談に乗って貰った経過もあるから、歌には瀬戸がどうなったか、はだいたい知らせてある。とはいえ、俺が知っているのは、『十四日の帰り際に相手を捕まえ、どうにか渡すのに成功した』ことと、『十六日(つまり昨日)に飲みに行く約束を取り付けた』ことだけだ。

 そして、今日、駅まで歌を迎えに行く直前に来たのが、こういう内容だった。



 From:瀬戸智紀

 Title:伝えました!


 結果は、まずはお友達から、ということで。

 でも、真っ赤になって、一生懸命に考えた上で

 そう返してくれたので、あとは僕次第、かなと。

 とにかく、頑張ります!


 あらためて、背中を押してもらって、

 有難うございます。

 彼女さんにも、宜しくお伝えください!



 「言えたんだ……良かった」

 「その後、佐伯からも来てたけどな」

 お友達からのランクアップが一番めんどくさいのにねー、まあ勝手にやればいんじゃね、と、はなはだ投げやりな内容だった。それでも、何かと話は聞いてやっていたようだが。

 メールを読み終えて、俺にスマホを返しながら、歌は不意に身を寄せてきた。それから、何か秘密の話をするかのように、声を潜めると、

 「あのね、今日、兄さんと里沙がデートしてるの」

 「マジか。どっちから誘ったんだ」

 「里沙からみたい。でも、前期試験前だから、お茶するだけ、って言ってたんだけど」

 差し入れ、ということで、大量に買い集めたチョコレートのうち、歌に好みを確認して厳選したものを持って行ったらしい。……正月には、わかんねえって言ってたのにな。

 そう言うと、歌は小さく頷いて、

 「兄さん、ずっとそうなの。自分のことになると、なかなか言わないから」

 「……確かに、そんな感じだな」

 にこやかにしながら、微妙な内心は決して漏らさない兄に対して、歌が、意外なほどに感情の動きを隠せないのは、誰に似たんだろうかと考えていると、

 「あ、そうだ、忘れてた」

 いきなり声を上げると、慌てたように脇に置いていた赤い紙袋を探り始める。角ばった英字の黒いロゴが印字されたそれから出てきたのは、紺の小さなビニールバッグだった。

 「これ、兄さんから倉岡さんに、って」

 「俺に?」

 何かを貰うような心当たりはなかったが、とにかく受け取って中をあらためる。と、

 「……なんだこれ。DVDか?」

 「参考資料だ、って言ってた。見てもらえば分かるからって」

 歌の言葉通り、市販のプレーンなDVD-Rがプラケースに入っていて、その表面には、


 『参考資料:部外秘』


 と書かれた、白いテープが貼られていた。

 そして、さらにその下には、米粒レベルの文字が続いていて、


 『※ 必ず倉岡様一人でご覧下さいますようお願い申し上げます ※』


 ……この文言で、一気に胡散臭さが増したような気がするのは、俺の気のせいか?

 そんなことを思いながら眉を寄せていると、歌は同じ紙袋からさらに何かを取り出すと、立ち上がって言ってきた。

 「そろそろ、ご飯の支度始めるから、倉岡さん、良かったらそれ見てて」

 「手伝わなくていいのか?」

 「うん、ちゃんと修行してきたから」

 きっぱりと言い切ると、手にしたものをさっと広げて、手早く身に付ける。

 それは、要するに白いエプロンだった。何やら凝ったつくりで、裾と胸元に三段重ねのレースが施されていて、肩紐や腰のリボンまで、ひらひらふわふわとしていて。

 よし、とばかりに気合いを入れてこちらを向いた姿を、俺はじっと眺めると、

 「……可愛いな」

 普段、こういう系統の服をあまり着ないせいか、余計にそう思って。

 何気なく零した台詞に、歌は大きく目を見張って、それから見る間に真っ赤になって。

 おろおろと首を巡らせたかと思うと、くるりと背を向けて、パーティションの向こうに逃げ込んでしまった。

 「ちょ、おい……待てって」

 思わず、それを追ってキッチンに回ろうとすると、寸前で動かされた白い壁に阻まれて。

 「こら、何やってんだ。褒めてるんだから、逃げなくてもいいだろ」

 「だめ。あっち向いてて」

 隙間から覗いてみると、どうやら両手を突っ張って、必死でパーティションを押さえているらしい様子に、仕方なく力を緩める。

 それに気付いたのか、ようやく大人しくなった歌に、宥めるように声を掛けた。

 「飯作るのも、手伝うから。お前ばっかり何もかもさせるのも、悪いだろ」

 わざわざ、家から重い荷物を下げて来てくれて。

 駅前で俺を見るなり、ぱっと嬉しそうに顔を輝かせて、駆け寄ってこようとして。

 それでなくても、会うたびごとに、なんだってしてやりたくなるってのに。

 しばらく黙って返事を待っていると、やがて壁越しに、微かな声が耳に届いた。

 「……見られてたら、ご飯、作れなくなるから。お願い」


 ……どうしろってんだ、全く。

 これだけ傍にいるってのに、生殺しだろうが。


 どこに逃がしていいやら分からない衝動を無理矢理に抑え込むのに、相当の時間を要しながら、パーティション越しの攻防に、俺はあっさりと敗北してしまった。



 それから、一人炬燵に戻って、諦めてさっきのDVD-Rをパソコンで再生して。

 ほどなく、それが謡介さん編集の『歌の花嫁修業:料理編・第一弾』だと分かる頃には、気付いた歌が、転びそうな勢いで止めに走ってきた。

 意趣返しに止めないでいると、本気で泣かれそうになったので、慌てて停止したが。

 ……結局のところ、歌には当分、俺が勝てる見込みはなさそうだ。

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