二月
男子会
平均気温は例年並みとはいえ、時折、思い出したように雪がちらつく季節。
夜明け頃から続いているみぞれ混じりの雨に、傘を動かして、巻いたマフラーに水気がつかないように避けながら、会社への道を歩いていると、
「倉岡さーん!」
背後から呼ぶ声に振り返ると、千鳥格子柄の傘を手にした瀬戸が、足元の水を跳ね飛ばしながら走り寄ってきた。
「おはようございます!頼まれてたもの持ってきましたよ!」
「ああ、わざわざ悪い、有難うな」
「大したものじゃないですから。それに、先払いのご飯が美味しかったですし」
眼鏡の下の瞳を細めて笑うと、紙袋に入ったそれを差し出してくる。俺は頷いて受け取ると、中身をざっと確認した。
「それにしても、えらくたくさん持ってきてくれたんだな」
瀬戸が持ってきてくれたのは、車のカタログや専門雑誌だった。それぞれに厚みの差はあるが、十冊以上は入っている。前々から車好きだと聞いていたので、話の流れで色々と貸して貰えることになった、というわけなのだが。
そう言うと、瀬戸は当然でしょう、というように何やら胸を張って、
「だって、彼女を乗せてあげたいんでしょう?凄く大事なことじゃないですか!」
「……まあ、それもあるけどな」
俺は意味もなく頬を掻くと、やたらと力説している瀬戸から目をそらした。
恥ずかしげもなく、こういうことをきっぱりと言い切れる素直さは、こいつの長所ではあるのだが、それをストレートに向けられると、正直いたたまれない。
と、唐突に瀬戸の背後から、見慣れた人影がぬっと顔を出したかと思うと、
「なにあっさり認めてんの!まるで倉岡じゃないみたい!」
「いきなり生えてくんな!ていうかお前気配消してただろ!」
「いや、僕の後ろに隠れてたんですよね、三秒くらい前から……」
苦笑混じりの瀬戸の言葉にあらためて佐伯を見ると、わざわざそのためだけに傘を畳んでいたらしく、ベージュのコートの肩が濡れて色を変えている。さすがというか、阿呆だ。
手にした青いそれを一度振って、水滴を道路に向けて飛ばした佐伯は、再び差し直すと、何故かくるくると回してみせながら言ってきた。
「ところで倉岡ー、今晩、瀬戸っちがお前に重大なお願いがあるんだってよー」
「……瀬戸が?」
どう見ても何か楽しんでいる雰囲気の佐伯と、明らかに動揺した様子の瀬戸を見比べて、俺は二人の背後に目をやると、
「佐伯、瀬戸、話は後な。主任が来た」
「え、マジ!?時間やばいじゃん!」
「ほんとだ!主任、すみません先行きます!」
数十メートルは先にいる主任に、わざわざ頭を下げてから、瀬戸はようやく走り出した。俺と佐伯はと言えば、後も見ずにさっさと正門に向かって突き進みながら、
「倉岡!タイムトライアル!」
「そんな余裕あるか!主任があの位置だったら遅刻率八割だぞ!」
「えー、この悪条件でギリ間に合うのがドラマチックなのにー」
「知るか!お前だけ滑っとけ!」
スマホでストップウォッチを起動している佐伯にそう言い返すと、俺は水たまりを回避しながら、ひたすらに足を速めた。
なんとか三人とも(主任も間に合った、らしい)遅刻せずに済んだ、その夜。
「どうでもいいけどお前ら、何かあるたびに俺の部屋でつるむのもいい加減にしろよ」
「……申し訳ないです」
ため息とともにそう言った俺に、青のボーダーのパジャマ姿で小さくなっている瀬戸が俯く。その横で、赤っぽいノルディック柄の派手目なパジャマで堂々としている佐伯が、満面の笑みで冷酒の封を切ると、
「まあ、いいじゃん。そこらに飲みに行くよりは断然安く上がるしさー」
「それに、なんか、サークルの時みたいで楽しいですよね」
並んで座っている二人の目の前には、カセットコンロに掛けられた、鍋。
昔買った炬燵(邪魔なので布団は掛けていない)の天板には、その他に呑水、玉杓子、取り分け用の箸と割り箸を用意して、後は煮えた端から食べるばかりとなっている。
ベースは市販の寄せ鍋つゆなので、間違っても失敗する気遣いはないはずだが、佐伯が何か色々と適当に突っ込んでいたので、見た目は微妙だろう。……それだけならいいが。
俺は自分用の缶ビールを手に、その向かいに座ると、さっそく瀬戸に尋ねた。
「で、お前の相談、ってのは何なんだ?」
「あれー、倉岡、冷酒いらないの?せっかく大吟醸買ったのにー」
グラスを手に、間髪入れずに話の腰を折ってきた佐伯に、俺は眉を寄せると、
「あのなあ……あんまり酔えねえんだよ、今日は」
「え、ひょっとして明日デートですか?」
「いや、そうじゃ」
「あ、分かった。歌ちゃんから電話だろー」
ない、と言い掛けた途端、割り込んできた佐伯に言い当てられて、俺は口を噤んだ。
ここのところ、特に予定がない限りは水曜か金曜の夜に電話をする、というサイクルが出来てきた。謡介さんの勧めで歌が無料通話プランに入ったので、遠慮なく掛けて貰えるようにはなったのだが、
『あんまり毎日話すと、贅沢になるから』
と言って、余程の用件がない限りはなかなか掛けて来ない。だから、一応日を決めた、というわけだ。まあ、俺が声を聞きたくなって、掛ける時もあるが。
そんなことを簡単に話すと、瀬戸が妙に感心したように何度も頷いて、
「健気ですねえ……僕だったら、そんなこと言わずに毎日でも掛けてきて欲しい、って言っちゃいそうだなあ」
「えー、俺そんなのぶっちゃけめんどくさいー。仕事終わったら、完全にオフモードに入りたいもん」
「そのポリシーは分からんでもないけどな、俺を毎回理由にすんのはやめろ。こないだ藤林にいきなり愚痴られて、何事かと思ったじゃねえか」
「あーごめーん、でもあいつ話し始めると長いんだもーん。話にまとまりねえしさー」
「……僕も訳分かんなかったんですけど、そういうことだったんですか」
「お前もか……いや、ここで被害状況集約してる場合じゃねえんだよ」
佐伯から冷酒の瓶を取り上げると、既に空いた瀬戸のグラスに注いでやる。礼を言って受けた後輩は、ようやく本題に入り始めた。
「えっと……もうすぐバレンタインデーじゃないですか」
「ああ。そういやそんな時期か」
もう二週間を切っているので、駅前のシュシュでもそんなような宣伝をやっているのを見かける。歌と同じ高校の制服を着た生徒が、やけに賑やかに騒ぎながら寄っていた。
「それで、その……逆チョコって、女の子的にはありなのかな、って……」
鼻の頭まで赤くして、そう言ってきた瀬戸に俺が眉を上げると、鍋の具を適当に取り分けながら、佐伯が口を挟んできた。
「瀬戸、理系だったじゃん?軽く尋ねられるような女の子が近くにいないんだってよ。職場はねー、下手打つと変な風に広まりそうだしさ、ネットは眉唾だし」
「それで、俺か?お前の妹がいるだろうが」
「一応リサーチしたけど、あいつらアクセとか死ぬほど高いチョコとかふざけんなって感じの要求ばっかだったから、全部却下してきた」
……たまに話に出るけど、どんな性格なんだ、お前の妹は。
うっかり聞くと長くなりそうなので、俺は瀬戸に向き直ると、
「要するに、歌も含めて女子の意見を聞きたい、ってことか」
「はい……相手の人がチョコ大好き、というところまでは確認したので」
普通は、ホワイトデーに何か贈る、というところなのだろうが、相手の好みとインパクトも考慮して、あえてバレンタインデーに勝負を賭けたい、らしい。
そこまで考えているのなら、あとは実行すればいいようなものだが、あえてリサーチを試みるのがこいつらしいというか、なんというか。
「……ちょっと待ってろ」
幸い、時間はまだ七時過ぎだから、さほど迷惑にもならないだろうということで、俺は用件を纏めてメールを送った。と、一分もしないうちに着信音が鳴って、返信が来た。
From:深山歌
Re:分かった。
それじゃ、皆にこれから聞いてみる。
里沙から、演劇部の子にも協力してもらうって。
少しだけ時間、ください。
あと、兄さんから伝言です。
『チョコなら俺にお任せ!』だって。
自分で食べるつもりで、いっぱい予約してるから、
個人的おすすめランキング教えるよー、って。
それでは、また後で。
妙な頼みにもかかわらず、実にあっさりと了解、と返ってきて、いささか拍子抜けしながら読み終える。と、
「ランキング、って……謡介さん、自分が貰う可能性とか考慮してねえんじゃねえの?」
「さあ。営業先から義理チョコは結構貰うよー、とかは聞いたけど」
「貰えるだけいいですよ!僕なんか義理ですら難しいのに!佐伯さんなんか去年は社内ランク一位だったらしいじゃないですかー!」
「……誰データなんだ、それ」
酒が回ってきたせいか、思わぬところから泣きの入った瀬戸を、俺と佐伯で宥めながら、とにかく片っ端から鍋の具(鶏や鱈に混じって何故かロールキャベツが出てきた)を消費することに専念していると、ようやく返事が届いた。
「あ、来た?えーっと、『全然アリ:15人、ナシかなー:2人』ねー」
「サプライズっぽくていい、女子は甘いものとフェイントに弱いですよ!……ってよ」
文面は、多分引用なんだろう、絵文字をほぼ使わない歌のメールとは思えないほどの、なんというか、無駄にキラキラしたものがそこら中に散りばめられている。
ざっと読み飛ばしながらスクロールしていくと、ふと瀬戸が隣で暗い声を出した。
「でも、このナシの子の意見、結構キツイですよね……」
・ナシかなー:2人
⇒甘いものキライだから。自分で贈るのもキツい。
⇒あえて女子からメインのイベントでカウンターって、
ぶっちゃけあざといかなーって思う。
「んー、でもこのへんは相手次第としか言えないしー」
「それに、データ的には好意的な意見が勝ってんだから、やってみればいいんじゃねえのか?」
それぞれにそう言ってみると、瀬戸は力なくうなだれて、ぽつりと漏らした。
「分かってるんですけど、最後の一歩が踏み出せるのかどうか、全然自信がないんです。僕、かなりヘタレだって自覚はあるんで、あの人を前にしたら、凄いテンパりそうで」
生真面目な性格が災いしてか、思い詰めている様子に俺が言葉を探していると、佐伯がそんなことには毛ほども頓着しない様子で、あっさりと言い放った。
「あー、俺その気持ちさっぱりわっかんねえわー。ってわけだから、倉岡頼む」
「いきなりこっちに振んなよ!だいたいなあ、言う方もだろうけど、言われる方だってめちゃくちゃ動揺すんだぞ!」
「……そう言えば、そうですよね」
苦し紛れに発した言葉に、瀬戸が顔を上げて俺を見てくる。まだ、それでも途方に暮れている風情に、俺は頭を掻くと口を開いた。
「マイナスかプラスか、どっちに振れるかなんて最後まで分かんねえよ。けど、黙ったままじゃ、結局なんにも変わらねえんだから、腹くくるしかねえだろ」
あの時だって、くだらねえことにこだわって、こっちから踏み出す根性もなくて。
懸命に伸ばされた、小さい手を取ることが出来たのも、あいつが伝えてくれたからで。
思い返すたびに気恥ずかしさが募って、紛らわせるように髪を掻き回していると、
「ま、正論だよねー。っていうか、彼女までおんなじ意見っぽいし」
「は?……まだ、続きあったのか」
いつの間にか俺のスマホを手にしていた佐伯に渡されて、さっきのメールをあらためて見直す。と、
里沙が纏めてくれたのは、以上です。
あと、アリ、ナシは抜きにして、皆やっぱり
『告白されると意識する』って言ってました。
それと、『後輩さん、頑張って』って。
伝えるのって、凄く怖いけど、
言わないと、いつか傍にもいられなくなるから。
だから、成功するよう、応援してます。
生意気言って、ごめんなさい。
それと、倉岡さん。
今晩は、電話はやめておきます。
お酒、楽しく飲んでください。
お二人にも、よろしくお伝えください。
それでは、おやすみなさい。
一旦最後まで読み切ってから、瀬戸に渡して、目を通させて。
曇っていた表情が、次第に色づいていくのを確かめてから、手元に返してもらって。
「悪い、しばらく出て来る」
「はいはい。風邪引くなよー、歌ちゃん泣いちゃうぞー」
「倉岡さん、彼女に有難う御座いました、って伝えてください」
瀬戸に軽く手を振って玄関に向かいながら、佐伯の投げてきたコートを羽織って。
スマホを片手にしたまま、後ろ手に扉を閉めて、サンダルを鳴らして廊下を進む。
辿り着いた非常階段の踊り場で、ようやく足を止めると、電話を掛ける。
色々と、伝えたいことがあるような気はするけど。
多分、いつものように声を聞いて、何か安らいで、好きだと思って。
「歌か?……ああ、さっきは有難うな」
耳に馴染むような、妙に触りのいい声に、ふわりと身が浮くような心地になる。
酒のせいだけじゃねえな、と、酔いの意味を思い知らされながら、俺はそっと瞼を伏せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます