河川公園
いつも、倉岡さんを見ていて、好きだな、とか、やっぱり男の人だなあ、と思うことは、たくさんあるのだけれど。
なんだか可愛いな、と思ってしまったのは、今朝が初めてのことで。
「……起きない、よね」
思わず囁き声になって、隣についてきているおはぎに尋ねてしまう。彼女はといえば、ほんの少し首を傾けて、どうでしょう、というように、尻尾を左右に振り返してきた。
兄と佐伯さんに、まだ寝てるから起こしてきてやって、と頼まれて、和室に入ったのはいいのだけれど、その姿は、なんというか、無防備で。
掛け布団の上に両の腕を出して、半ば抱き枕のようにしたまま、少し身体を傾けていて、
瞼はしっかりと閉じられている。膝立ちのまま身を寄せて、そっと顔を近付けてみると、微かな寝息が聞こえるから、確かに眠っているようだ。
……ごめんなさい、倉岡さん。誘惑に、勝てない。
密かに心の中で謝りながら、携帯のカメラを起動して、おそるおそる近付ける。
佐伯さんのおかげで、倉岡さんの画像はここ数か月で凄く充実したけれど、まだ一度も自分で撮ったものがないのだ。カメラを向けると照れてしまう、ということもあるけれど、たまに、『じゃあ、俺も撮らせろ』と反撃されて、私が逃げてしまうからで。
だから、ちょっと卑怯だとは思いつつも、寝顔を撮れる機会を逃すつもりもなくて。
液晶画面をじっと見つめて、ピントが合ったところで、すかさずシャッターを切る。と、
「……何やってんだ」
不機嫌そうな声とともに、屈みこんでいた私の手首が、大きな手に掴まれて。
思わず声を上げると、顰めていた眉を開いて、ひとつまばたきをしたかと思うと、
「なんだ、お前か……悪い、てっきり、佐伯かと思った」
手を離して、それからのろのろと身を起こすと、倉岡さんは無造作に髪を掻き回した。
寝起きの姿は、見るのは二回目になるけれど、お昼寝と本気寝(という単語があるのかどうかはわからないが)では、なんとなく雰囲気が異なる。
だから、仕草ひとつも見逃さないように、じっと見つめていると、それに気付いたのか倉岡さんは私を見て、小さく笑うと、
「もう、出かける支度完璧だな。もしかして、寝坊したか?」
「ううん。まだ八時前だから」
腕の時計を確認すると、午前七時三十九分。でも、今日は土曜日だから、お休みだ。
幸い、私のアルバイトも入っていない日だから、少しくらい寝坊しても平気なくらいなのだけれど、実は、ちょっとした約束をしてある。
それは、二人でおはぎと一緒に、朝の散歩に行こう、ということで。
「おーいそこのプレ新婚夫婦ー、もう朝のいちゃいちゃ終わったー?」
突然背中から飛んできた声に、私がびくりとして顔を向けると、半分空いた襖の向こうからリビングを挟んで、兄と並んでキッチンに立っている佐伯さんがこちらを見ている。
思い切りからかうようないい笑顔で、大きく手を振ってくるのに、倉岡さんはどうしてだか、むっつりと黙ったまま、しばらく何も返さないでいたけれど、
「……こっちだったら、見えねえな」
不意にそう呟いたかと思うと、私の腰に腕を回して、半ば持ち上げるように引き寄せて。
胡坐を組んだ膝の上に乗せられると、そのままぎゅっと抱き締められて、私はすっかり慌ててしまった。
「倉岡さん、あの、ちょっと」
襖に遮られて、確かに皆からは見えない位置だけれど、やっぱり恥ずかしい。
それに、ふわりと、倉岡さんの匂いに取り巻かれてしまうから、余計に。
腕力ではとても敵わないから、腕の中でじたばたと身じろぎしていると、倉岡さんは、私の肩に顎を乗せてきて、
「……朝起きたら、お前がいるのっていいな、って思ったんだよ。だから、少しくらい堪能させろ」
ぶっきらぼうな口調なのに、耳元で囁く声は、とても優しくて。
何かを確かめるように、私の髪や背中を撫でてみては、深々と息を吐く。
そんな風にされてしまって、抵抗する気持ちもすっかり削がれてしまった私は、おそるおそる倉岡さんの背中に腕を回して、そっと抱き締め返してみた。
それから、朝食の支度が終わるのを待っていた、母と上村さんもやってきて、皆揃ってご飯を食べて。
後片付けが終わってリードを持つなり、待ち焦がれたように玄関に走ってきたおはぎと、すっかり目覚めた様子の倉岡さんと並んで、行ってきます、と家を出る。と、
「天気、いいな」
おはぎの散歩用バッグを持ってくれている倉岡さんが、綺麗に晴れた空を見上げてそう言った。同じように見上げてみると、千切れた綿のような雲はぽつぽつと見えるけれど、日が陰る様子は欠片も見当たらない。
「もう少しあったかくなったら、お弁当、用意してもいいかもしれない」
「それ、佐伯に言うなよ?あいつ、最近妙に料理にハマりだしたみたいだからな」
何するか分からねえぞ、と眉を寄せて倉岡さんが言うのに、私は首を傾げると、
「でも、昨日三人で作ってくれたご飯、美味しかったけど……」
そもそも、うちに二人が泊まることになったのは、『女子会』の話を佐伯さんが聞いて、
『えー、なにそれ俺も参加したかったー。いっそのことお泊り会しよーぜー』
と、倉岡さんに提案したところ即座に却下されて、次に兄と母に直訴したところ、実にあっさりと『いい(わ)よー』と許可されてしまって。
それなら、いっそのこと上村さんも誘ってしまおう、ということになって、私の部屋で母と三人で『女子会2』、一階の和室で『男子会2』(1は先日の瀬戸さん相談事件、らしい)となったのだ。
さらに何故か、晩御飯は男性三人が作ること、となって、とても美味しくいただいたのだけれど、
「そりゃ、九割方は俺と謡介さんで作ったからな。あいつ、これまで料理まともにしたことなかったんだよ」
「え、意外。なんとなくだけど、器用そうなのに」
「やればできるけど、興味のねえことは端からやらないからな」
それで、ここのところ倉岡さんの寮の部屋で、簡単な料理を教えていたそうなのだが、その過程で何かが目覚めたらしく、
「あの阿呆、家でやると母親と妹がうるさいから、とか言って俺の部屋で色々試そうとするんだよ。しかもこの間なんか、使い道に困るスパイス大量に持ってきやがって……」
「?カレーにでもハマったのかな」
「わからん。けど、薬膳っぽいとか言って白飯にクローブ投入するセンスは俺にはない」
……確かに、それはちょっと、分からないかも。
せめてサフランなら良かったのに、と思いながら、河川敷へと向かう階段にさしかかる。通い慣れた道だから、おはぎが軽い足取りでどんどんと登っていくのに、小走りでついて上がると、歩道に出た途端、さっと視界が広がった。
二車線の道路の向こうには、鮮やかな緑がそこここに萌え出し始めた、堤防。
なだらかなラインを描いて伸びる、芝生の斜面の向こうには、いつも歩いているプロムナード。そして、陽の光を浴びてきらきらと光る、織江川だ。
車が来ないか左右を見渡してから、すぐ傍にある横断歩道を渡る。そうしながら、時々おはぎがとても嬉しそうにこちらを振り返るので、思わず笑ってしまう。
伸びがちなリードを調整しながら歩く私に、ふと倉岡さんが尋ねてきた。
「おはぎ、なんかやけにテンション高くないか?」
「そうかも。いつも機嫌はいい子だけど」
そう答えながら、普段の散歩状況を考えてみると、たいていの場合、私(朝担当)か母(夕方担当)だけで、父が帰ってきた時は、絶対父が連れていくことになっている。
兄は、平日は帰りが遅いことが多いので、主に休日担当だ。私が一緒に行くことも多いけれど、その時の雰囲気より、さらに浮かれている気がする。
「多分、倉岡さんが一緒だからじゃないかな」
「俺か?」
「うん。おはぎ、倉岡さんのこと、好きだから」
言葉にしてから、ふと、あの夏の日に、似て非なることを口にしたのを思い出す。
今は、自分がそうだから、余計に彼女の気持ちは分かる気がする。
傍にいてくれるだけで、なんだか嬉しくて、幸せで。
だから、こうして会える日が、いつも待ち遠しくて仕方なくて。
緩やかな傾斜の斜面を下り終え、プロムナードをのんびりと歩きながら、そんなことを考えていたら、突然ぽん、と頭を撫でられて、
「俺だけじゃなくて、お前のことも、凄く好いてるだろ」
笑いながらそう言った倉岡さんに、そっと空いた手を取られてしまった。
片手におはぎ、もう片手にはとても大事な人、という初めての状況に、私はしばし考えてから、口元を緩めて、
「これって、もしかして両手に花、っていう状況なのかな」
「……普通なら男が使う表現だとは思うけど、まあいいんじゃねえか?」
倉岡さんがわずかに首をひねった時、前触れもなく、おはぎが鋭く吠え声をあげた。はっとして顔を向けると、その周囲にざっと目を配る。周囲には、特に人の姿はなく、堤防にも先に長く伸びるプロムナードにも、特に怪しいものは見当たらない。
と、もう一度わん、と吠えると、リードに繋がれているのももどかしい様子でおはぎが駆け出した。いきなりのことに慌てて足を速めると、倉岡さんも並んで走り出す。
「まさか、またなんか見つけた、とか言わねえだろうな!」
「分からないけど、あるかもしれない!」
人、は倉岡さんだけだけれど、他にイノシシや迷い猫は見つけたことのあるおはぎだ。
根拠のあるようなないような私の言葉に、過去に、彼女に『見つけられた』ことのある倉岡さんは、黙って眉を寄せたが、
「……おい、マジか」
ひた走るうちに、気付けば、目前に広がる葦の原に、呆然と声を漏らした。
見覚えのある景色に、私は頷いた。すぐ傍が、倉岡さんと初めて会った場所だ。
いつの間にか足を止めていたおはぎは、私達の様子に構わず、地面に鼻を押し付けるようにして、しきりに匂いを嗅いでいる。
やがて、すっと顔を上げ、まるで呼ばわるように一声鳴くと、生い茂る葦の原に向けて真っ直ぐに歩いて行く。すると、奥の方から聞き慣れない音が耳に届いた。
「……あれ、鳴き声?」
「なんか、聞こえるな」
顔を見合わせると、散歩用バッグを腕に掛け直した倉岡さんが、私の手からリードを取り上げて、庇うように先に立って足を進めていく。
その少し後ろについて、まだ緑ではないけれど、変わらずに丈高い葦を手で分けながら進んでいくと、微かな、甲高い声に続いて、がさりと草を分ける音がして。
「……ちっちゃい子だ」
ようやく姿を現したのは、子犬だった。せいぜい二ヵ月くらい、というところだろうか、少しばかり痩せていて、薄茶色の毛は艶がなく、ところどころに泥や枯葉がついている。
それでも、くるりと丸まった尻尾を一心に振りながら、傍に寄ったおはぎに、しきりに鼻面を合わせている様子からすると、元気ではあるようだ。
と、傍らに立つ私と倉岡さんにやっと気付いたのか、振り向いてきたおはぎに並ぶようにして、こちらに歩いてくる。
思わずしゃがみこみ、手を差し出すと、ぺろりと指先を舐めてきて。
そっと抱き上げて撫でてやってから、身体中についた汚れをざっと取り除いてみると、なかなか可愛い顔立ちであることが分かった。おはぎの小さい頃に匹敵するくらいだ。
膝の上に乗せたまま、しばらくじっと見つめていると、すぐ横で同じように身を屈めて覗き込んできていた倉岡さんが、当然の問いを向けてきた。
「それで、こいつ、どうするんだ?」
「……とりあえず、連れて帰る」
うちで飼えるかどうかは正直分からないけれど、独りみたいだし、放っておくには忍びない。ちょっと途方に暮れながらもそう言うと、倉岡さんは笑って、
「そう言うと思った。もし里親探すんなら、手伝ってやるよ」
私の頭を一撫ですると、膝を伸ばして立ち上がる。
それから、地面に置いていたリードを取り上げて、手を差し出してきた。
そして、その傍では、おはぎがいかにも機嫌よさげに、倉岡さんを見上げていて。
「有難う。大好き」
だから、その手を取って立ち上がりながら、心のままの言葉を告げて。
見る間に顔を赤らめた倉岡さんに、私は笑みを返すと、万が一にも落とさないように、そっと子犬を抱え直した。
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