十月
招待状
学生と社会人、となると、そもそも接点がある方が珍しい。
教師や学校職員ならともかく、俺のように一般企業に勤めているのなら、せいぜい企業見学や、採用試験の際に、いかにもなリクルートスーツを纏った連中が正門付近に群れているのを見かけるくらいだ。
だから、この年になって、こんなものが届こうとは予想もしていなかったわけで。
「……第五十四回・
単身寮の五階へと向かうエレベーターの中で、派手な標題の文字が躍る一枚のパンフレットを手にしながら、俺は一人なのを幸いにそう呟いていた。
きちんとチケットの体裁になっている、その『招待状』を見ながら、どうしたもんかと眉を寄せる。寮の集合ポストから回収した、チラシなどの雑物に混じって、妙に綺麗な緑の封筒が入っていると思えば、中身はこれだった、というわけだ。
しかも、二枚。
「行くにしても、佐伯と一緒ってのがなあ……」
そう一人ごちてから、何故だか『行かない』という選択肢がないことに気付いて、俺は無意味にチケットをひっくり返していた。
「佐伯、お前この日予定あるか?」
翌日の朝、職場の更衣室で佐伯と顔を合わせるなり、俺は送られてきた封筒を差し出した。
「んー?あれ、歌ちゃんからじゃん。なになに、恋文的なー?」
「そんなわけあるか。文化祭があるからって連絡くれたんだよ」
「ああ、世間的にはそんな時期かー。そういや、なんか会社帰りに学生が色々やってんなーとは思ってたけど」
そう言葉を切ると、チケットと同封されていた手紙を取り出して読み始める。と、いきなり不満そうに眉を寄せると、
「何これ。俺ちょっとついでみたいじゃね?」
「ついでって……普通の内容だろうが」
目を通し終わった佐伯の手から手紙を取り上げると、俺はあらためて文面を読んだ。
拝啓
お元気でしょうか。
早速ですが、同封しているパンフレットの通り、文化祭があります。
もしお時間がありましたら、どうぞお越しください。
クラス展示は、展示内容の欄に印をつけてあります。クレープは美味しいです。
手芸部は、結構頑張ったので、作品を見てもらえると嬉しいです。
通学の電車の窓から、澄んだ空が日に日に高くなっているように見えます。
涼しくなったせいか、散歩しているおはぎも元気です。
それと、この間言っていた、小さい頃のおはぎの写真を入れておきます。
写真も可愛いけど、本物はもっと可愛かったです。
もし、来ていただくのが難しいようなら、ご連絡ください。
それでは、失礼します。
敬具
追伸
忘れるところでした。
チケットは二枚あるので、良かったら佐伯さんにも差し上げて下さい。
よろしくお願いします。
深山 歌
「別に、慣れないもん書いてて書き忘れただけだろ」
クローバーの透かしが入った、可愛らしい感じの便箋を見直して、俺がそう返すと、
「だってさー、わざわざ郵送だしー、封筒の宛名もお前だけだしー」
「当たり前だろ。それにお前はそもそも連絡先知らせてないだろうが。どうやって送るんだよ」
「それに、おはぎの写真入ってないじゃん」
「俺の部屋に置いてあるよ。なんだよ、見たいのか?」
「いんや、それほどでも」
「……で、行かないんだな。ならさっさと返せ」
「えー、行かないなんて言ってないじゃーん。ひょっとしたら、可愛い新任の先生とかいるかもしれないしさー」
……相変わらず、こいつは訳が分からん。
とりあえず封筒を取り返し、きちんと二部入っていたチケットとパンフレットを渡すと、丁度、始業五分前を告げるチャイムが鳴った。
ロッカーを閉めて、さて、行くかと気を引き締めたところで、不意に背中に佐伯の声が掛かった。
「ところでさー、おはぎの写真貰うとかって話、いつしたの?」
「写真?ああ、少し前にメールで……」
そう言いかけた途端、佐伯の表情が例のチェシャ猫笑いに変わり、俺は思わず顔をしかめた。
「なんだよ、その笑い方」
「いっやー、現役女子高生とメールねー、ふーん」
「お前が言うと、何かとてつもなくいかがわしげに聞こえるな……言っとくが、内容はほとんどおはぎの近況ばっかりだぞ」
バーベキューの時のプリンがとても美味しかった、という礼から始まって、俺はスマホ、歌はパソコンから、ぽつぽつとやりとりをしている。
とはいえ、向こうが携帯ではないから、せいぜい三日に一往復、という程度だが。おかげで、俺のスマホにおはぎの画像が着々と増えている。
証拠のように、それらをほら、と見せてみると、佐伯はうんうんと頷いて、
「犬がかすがいってわけかー。ま、文化祭とかいい機会じゃん、頑張れー」
「……何を頑張るんだ」
「ただのほのぼの系メル友から、なんか違う関係へ進展とか?」
「あのなあ……自分の方こそさっさと新しい相手でも見つけて来い!」
そう言い返した途端、今度は始業を知らせる音楽が鳴り響く。さすがに俺も佐伯も、慌てて更衣室を後にした。
そして、寮へと帰ってみれば、上村さんにも同じものが届いていると分かって。
立ち話のついでに、貰い物だとかで、ちりめん山椒を一パックおすそわけされたので、俺は部屋に鞄を放り込んでから、切れていた米を買いに出かけた。
幸い、駅前のスーパーは営業時間が長い。残業が多少長引いても、午後十時までは営業しているから、もうすっかり日の落ちた今くらいの時間なら、余裕で間に合う。
頭の中で、他の足りないものを思い返しながら歩いていると、芦萱高校の辺りに差し掛かった。緑の防球ネットを透かして何気なく中を見ると、佐伯の言っていた通り、色々と準備が進んでいるようで、運動場の端には、何やら櫓めいたものが建てられており、四階建ての校舎の窓には、まだそこここに灯りが点いている。
あいつも、今頃どこかでなんかの作業してるのかもしれないな、と思いながら、道路に面した正門の前を通り過ぎる。と、あるものに気付いて、俺は眉を寄せた。
「……なんだ?」
防犯上の意味があるんだろう、門から続くコンクリートブロックの壁の上には、かなり照度の高いライトが左右対称に設置されている。そこから伸びた光にさらされた、歩道の街灯の下で、歌がしゃがみこんでいた。
曲げた膝の上に腕を組んで、そこに頭を乗せているのが、どう見てもぐったりしているように見えて、俺は慌てて駆け寄った。
「おい、歌!どうしたんだ!?」
俺の声に、歌はぴくりと身を震わせると、のろのろと顔を向けてきた。
「あ、倉岡さんだ……」
こんばんは、と力ない声で答えるのに、俺の方が力が抜けそうになるのをこらえながら、とりあえず尋ねてみる。
「律儀に挨拶してる場合じゃねえだろ。お前、大丈夫なのか?」
「大丈夫……コンビニか、スーパーまで行ければ」
「は?」
「お腹、すいた……」
歌は、酷く切なそうにそう言うと、うー、と小さく泣き声めいた声を漏らして、通りの向こう、宵闇に煌々と光るコンビニの看板を見つめていた。
「……そういうわけなんで、軽く腹に入れてから帰らせますので。いえ、こちらこそ、それでは失礼します」
俺は通話を終えると、目の前で湯気を立てているカフェモカと、ミックスサンドに手を付けないまま、じっと待っていた歌に顔を向けた。
「先に食ってていいって言ったろ?本気で倒れるぞ、お前」
「うん、有難う。いただきます」
小さく頷くと、きちんと手を合わせて、それからやっとカップに口を付けた。
……これか。多分、皆で『いただきます』が必須なんだろうな、深山家は。
空腹が原因、と分かってから、俺は足に力が入らない様子の歌をなんとか立たせると、腕に掴まらせて、駅前の喫茶店(年季は入っているが、飯は美味い)に引っ張っていった。とりあえず、この様子では座らせないとやばい、と考えたからだ。
それから、俺のスマホから家に電話を掛けさせて、状況説明をしたあと、俺が替わって謡介さんに『飯を食わせて落ち着いてから、責任もって帰す』旨を伝えたのが今だ。
壁の時計を見上げると、時間は午後七時五十分。ここは八時半まではやっているから、食べるのが遅めの歌でもなんとかなるだろう。
既に来ていたミンチカツ定食に箸をつけながら、俺はふと思い立って尋ねた。
「そういや、お前の学校、帰りに外食禁止とかの校則ないか?」
「禁止にはしないけど、迷惑行為は絶対だめ、ってなってる」
「そっちの方が確実だな。どうせ高校生なんて、人生で一番腹が減ってる時期だし」
「うん、さすがに今日は、倒れるかと思った」
「シャレになってねえぞ……たまたま通りかかるなんてことはめったにねえんだから、きちっと自己管理しろよ。何やってたんだ?」
それでなくても、あんなところに座り込んでて、相当心臓に悪かったってのに。
若干叱るようになった俺の口調に、歌はすまなさそうに眉を下げると、
「手芸部の展示する服、手直ししてたんだけど……顧問の先生に注意されるまで、遅くなったの全然気が付いてなくて。帰ろうって支度して、普通に歩いてきたのに、急に力が出なくなった」
「昼は?ちゃんと食ったのか?」
「お弁当食べた。多分、いつもは六時半くらいに晩御飯だから、エネルギー切れかも」
それを示すかのように、前に見た時よりも若干食べるのが早い。ご飯ものでなくパン類だからか、などとどうでもいいことを考えながら、俺も箸を進めた。
やがて、メニュー内容のせいか、俺より早く食べ終わった歌がフォークを置いた。と、
「ごちそうさまでした。美味しかった」
予想通り、またきちんと手を合わせてそう言うと、幸せそうに小さく息をついた。
「おう。顔色もマシになったな」
「そうみたい。なんだか、身体があったかくなった」
すっかり頬を緩めているその様子に、俺が内心でほっとしていると、スマホが突然着信音を鳴らした。テーブルの端に置いてあったそれを取り上げると、液晶には、『深山謡介』の表示が出ている。
一瞬、その画面を歌に示してから、俺はすぐに応答した。
「はい、倉岡ですが」
『ごめんねー食事中に。早速なんだけど、今車でそっち向かってるんだよねー』
「え、ってことは運転中ですか?電話、大丈夫ですか」
と、よく聞けば、流れてくる謡介さんの声のバックグラウンドに、踏切の警報音が響いている。なんだ、停車中か、と考えている間に返事が返ってきた。
『あ、大丈夫大丈夫ー、ちゃんとインカム使ってるから。いや、歌が遅いんでおはぎが心配しちゃって、もう一緒に迎えに行っちゃえってことでさー』
その後ろで、わん、という鳴き声が聞こえた。おそらく自分の名前に反応したんだろう。
『それでね、あと十分くらいで着くから、ほんと悪いんだけど、妹と一緒に待ってやっててくれないかな』
「それくらいなら構いませんよ。じゃあ、そう伝えときますから、気を付けて」
そう告げて通話を終えると、何か言う前に歌がうん、と頷いて、
「兄さんの声、大きいから全部聞こえてた」
「だろうな。入れ違いにならなくて良かった」
そういったわけで、俺はさっさと残りの飯を平らげてしまうと、揃って店を出た。
この時期、もう八時を過ぎればそれなりに肌寒い。夜気に身をさらした途端、隣に立つ歌が小さく身を震わせたのに気付いて、俺は尋ねた。
「上着、持ってきてなかったのか?」
「今日は、普通に早く帰るつもりだったから」
そう言って、身体の前に鞄を下げたまま身を竦めている様子は、いかにも寒そうで。
仕方ねえな、と、俺はジャケットを脱ぐと、問答無用で肩からかぶせてやった。
当然だろうが、驚いて歌がこちらを見上げてくるのに、俺は腕の時計を見ると、
「あと五分だ。四の五の言わずにひっかぶってろ」
「分かった。有難う」
礼を言って素直に頷くと、歌は、何故かきょろきょろと首を巡らせたあと、鞄を左右に持ち変えながら、ジャケットに腕を通してみている。
「何やってんだ?」
「意外と大きい、と思って。兄さんより、倉岡さん、随分細いから」
「あの人と比べるのがそもそもの間違いだろ」
「そうかも。でも、当たり前なんだけど、肩も、腕も、全然違う」
そう言いながら、どこか不思議そうに腕を伸ばしてみたり、肩を引っ張って、その差を見定めようとしている。
……それにしても、ちっさいな。袖から指先しか見えてねえじゃねえか。
長袖の冬服の上からでもあっさり羽織れるほどだから、エネルギー切れも無理ねえな、などと思っていると、ロータリーに見覚えのある車が入ってきた。
メタリックシルバーのミニバンは、滑らかにカーブを曲がると、突っ立っていた俺達の目の前にぴたりと止まる。と、助手席の窓から謡介さんと、おはぎが並んで顔を出した。
「お待たせー!倉岡さん、ほんとありがとなー。後ろ開いてるから乗って乗って」
「ああ、俺はいいですよ。そこで買い物して帰るんで」
すぐ傍にあるスーパーの看板を指してみせると、謡介さんはあっさりと言ってきた。
「そうなの?じゃ、ここで待ってるから荷物積んで帰るといいよー。おはぎはちょっと待機なー、歌は買い物のお手伝いしてくること」
「分かった。兄さん、これ置いといて」
「はいはい。あ、お袋からお礼にって緑茶と梅干し持ってきてるからねー。忘れないで持って帰ってー」
そう言いながら、腕を伸ばして歌の鞄を受け取ると、助手席に置いてしまった。
……相変わらず、有無を言わせない勢いだな、この人は。
まあ、米はそれなりに重いし、礼を告げて、申し出は有難く受けることにした。
待たせるのも申し訳ない。大人しく言う通りにするか、と足を進めると、少し後ろから軽い足音が続いて、俺の隣に並んだ。
「倉岡さん、上着、返す」
「まだいい。冷えるだろ、そのまま着てろ」
「でも、もう平気」
そう言いながら、俺を見上げてくるその姿は、やっぱりどうしようもなく小さくて。
なんとなく手を伸ばして、頭を撫でてやった。
「帰る時でいいから。風邪引くだろ」
手のひらに伝わる感触はさらさらとしていて、やっぱりおはぎとは違うな、などと考えた途端、俺は自分のしていることに気が付いた。
歌も、驚いたのか、されるままになりながら、俺を見つめて固まっている。
謝るのも誤魔化すのも何か妙な気がして、俺は最後に髪を一撫ですると、何も言わずに腕を引っ込めて、そのままスーパーに向かった。
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