空の袋

 例の女子会が終わった翌日、日曜日。

 バレンタインの礼は何がいいか、と尋ねたところ、歌の『俺の作った飯が食べてみたい』という希望に沿って、正直大したものは作れねえぞ、との前置きの上で、まずは昼飯から振る舞ってやることになって。

 「悪い、そこのあさつき洗って、水気取ったら小口切りにしといてくれるか?」

 「分かった。このボウル使っていい?」

 「ああ。その辺りはお前のいいようにしていいから」

 前回と違い、ひらひらのエプロンではなく、文化祭の時のそれを身に付けた歌が、俺の隣で手伝ってくれている。

 曰く、『これだったら恥ずかしくない』そうだが、実際のところ、中身が変わるわけでもないから、可愛いことには変わりない。

 口にすれば、きっとまた逃げられるから、間違ってもそんなことは言わないが。

 まだ慣れていない、と当人が言う通り、確かに包丁を動かすスピードは速くはない。しかし、律儀に基本通りに指を曲げ、猫の手、と小さく呟きながら、一生懸命に切っている姿に、思わず頬が緩む。と、

 「……何か、変?」

 視線に気付いて手を止めると、心配そうに見上げてきた歌に、俺は少し迷った。

 思ったままを伝えてもいいが、そうなると、めちゃくちゃ恥ずかしがりそうだしな……

 そんなことを考えている間、俺はひたすら、じっと歌を見つめていたようで、

 「……倉岡さん、お湯、沸いてる」

 「あ?ああ、そっか」

 頬を赤くした歌にそう言われて、昔、同期に『引っ越し祝い』と称して貰った寸胴鍋の蓋を取り、二人分のパスタを放り込むと、スマホで起動しておいたタイマーを掛けた。

 祝いにわざわざ鍋が選ばれたのは、別に、元から俺が料理好きだとか、そういったわけではない。単に、

 『これだったらさー、十一人分のカレーとか闇鍋とかできそうじゃん?』

 という、佐伯のふざけた一言であっさり決まったらしい。実際、一人暮らしを始めて、さほど家事が嫌いではないことに気付いたので、それなりに役に立ってはいるが。

 「……闇鍋、楽しそう」

 「そこに食いつくのか……やらされた側から忠告しといてやる。やめとけ」

 「え、食べられるものだけ縛りでも、だめ?」

 「それでやって、酷いことになったんだ」

 言ったことはほぼ間違いなく実行してくる佐伯主体に、阿呆なノリで賛同した同期多数。食えないものは却下、としたにも関わらず、コーヒー豆(挽いてない)と奈良漬とブルーチーズ(大量)が投入された時点で見事に異臭騒ぎになって、当時の寮監はじめ多方面に平謝りする羽目になった。

 そんなことを思い出しながら、シリコン製のパスタサーバーを手にして、麺がくっつかないように混ぜていると、歌が何故か目を輝かせて、覗き込んできた。

 「それ、可愛い」

 「……そうか?これも同期からなんだけどな」

 「この間、久しぶりに会った、って言ってた人?」

 「いや。選んだのは確か、根岸ねぎしだったって聞いた」

 根岸は入社当初から営業畑で、ずっと支社詰めだ。同期の中では、一番最初に結婚した奴で、嫁が便利だって言ってた、と発言して、藤林と水島にくすぐられて悶絶していた。

 そうなんだ、と呟いた歌は、俺を見上げて小さく微笑むと、

 「これね、うちにもあるけど、木製なの。だから、綺麗な色のもあるんだな、って」

 丸みのあるグリーンのそれに、思わず俺は目をやると、何か唐突に腑に落ちた気がした。

 隣にいて酷く居心地がいいのは、こういうところだ。俺の周囲にある、何気ないものに興味を持って、しかも好き、だとか可愛い、という言葉で表してくれる。

 だから、余り関心もなく使っていたものが、ふいに色を持った気がして。

 「……歌」

 名前を呼ぶと、湯切り用のザルを用意していた歌が、次の指示か、というようにぱっと顔を向けてくる。一瞬、何かとんでもない言葉が零れそうになるのを、どうにか抑えると、

 「そのエプロン、ここに置いて帰れよ」

 我ながら唐突な台詞を吐くと、驚いた表情になった歌から、顔をそらして続ける。

 「家には、前のひらひらのがあるんだろ。ここ専用にしとけ」

 そう言いながら、俺は照れを誤魔化すように、鍋の中身をぐるぐると掻き回していたが、

 「……うん。そうする」

 しばらくして耳に届いた声に顔を向けると、頬を赤くした歌が、手元を見下ろしたまま、嬉しそうにはにかんでいて。

 それに引かれるままに、空いた腕を伸ばしかけた時、タイマーが音を鳴らした。

 「あ、えっと、ザル、支えてればいい?」

 「やめとけ、火傷でもしたらどうすんだ!危ないからちょっと避けてろって!」

 取っ手のないただのステンレス製のそれを、妙に張り切った様子で両手で構えた歌に、俺は慌ててそう言うと、今更のようにコンロの火を止めた。



 それから、二人で作ったものを、残さず綺麗に平らげて。

 食後に、歌が持ってきてくれた紅茶(フレーバーティ、らしい)を淹れてみると、何か甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。

 「なんか、えらくいい匂いだな」

 嫌みのない甘さ、というのか、果物のような不思議な香りに、俺が呟くと、

 「これ、麻野さんが勧めてくれたの。モールの二階に、紅茶専門のお店があって」

 様々な銘柄の茶葉はもちろん、茶器やサーバー、ティーカップなども置いてあるところで、店内で飲むこともできる。軽食や菓子類は特に出していないが、モール内で購入したものの持ち込みは可、ということだそうだ。

 渋みもさほどなく、さっぱりとしていて飲みやすい。今度行ってみてもいいな、と考えながら、とりあえずの疑問を投げてみる。

 「結構美味いな。そこ、なんていう店なんだ?」

 「えっと……あれ、お店の名前、思い出せない」

 確か、その国の神様の名前だって聞いた、と続けるのに、俺は尋ねてみた。

 「さっき言ってた、妙な名前は違うのか?」

 「あれは、茶葉の産地なんだって。倉岡さん、パソコン、貸して貰ってもいい?」

 確認したい、というので頷くと、有難う、と言って、歌は奥の机に近付いた。スリープ状態のまま放ってあったので、マウスに触れるなり軽い駆動音が鳴って、すぐに復帰する。

 椅子を引いて、腰を下ろしかけたところで、その動きがぴたりと止まった。

 なんだ、と思って目を向けると、じっと視線を注いでいる先には、脇に置いてある黒のトレイがあった。無くしがちな小さいメディアなどを放り込んであるものだ。

 ただ、今は、それとはまるで異なるものを置いていたのを思い出して、俺は立ち上がり、静かに歌に近付くと、

 「それ、中身、とっくに引き取ってもらった」

 横合いから掛けられた言葉に、弾かれたようにこちらを向いた歌は、すっかり戸惑った様子で俺を見つめてきた。

 小さく折り畳んであるのは、淡いブルーのレースに、白のリボン。

 歌が、あの箱を包んでおくために、わざわざ作ってくれていたものだ。

 『あずかりもの』と書かれた小さなタグも、並べて置いてある。中に入れておこうかと思ったが、紙なので折れてしまうことを考えて、やめてしまった。

 俺はトレイごとそれらを取り上げてしまうと、歌を促してソファに座らせた。その横に並んで腰を下ろすと、口を開く。

 「お前に返してもらってから、次の日、すぐに買った店に行ってきたんだ」

 「え、そんなに、早く?」

 「預かって貰ってた期間も考えれば、遅いくらいだろ」

 驚いた様子の歌にそう応じると、俺は手にしたトレイを見下ろしたまま、静かに続けた。

 「なんか、思ったより簡単だった。店員に渡して、必要が無くなった、って話して……箱ごと渡して」

 箱が手から離れたその途端、すっと心が軽くなったような気がして、求められるままに必要な書類を記入し、礼を告げて席を立って。

 一言も余計なことを聞かず、店員はただ頷いてから、最後に深々と一礼をして、

 「静かに『有難うございました』ってだけ言われて、そのまま真っ直ぐ帰ってきた」

 繁華な場所にある店を出ると、まだかろうじて街はクリスマスの様相で、やたらと白い電飾の群れが、降ってもいない雪のように明滅していたのを、何故だか覚えている。

 それから、ここに戻ってきて、間を置かずに歌からのメールが来て。

 まさしく、昨日の今日、という状況だったから、少しぎこちないような感じの文面に、ふっと肩の荷が下りた気がして、

 「なんていうか……ずっとあれを言い訳にしてたんだな、って思って」

 「……何の?」

 言葉を切った俺を見上げて、歌が当然の問いを向けてくるのに、思わず躊躇する。

 言うのが嫌だ、とかそういうことではなく、ただ単に、気恥ずかしいだけの話なのだが。

 手にしたままだったトレイを脇に置いてしまうと、俺は歌の頬にそっと触れて、


 「……だから、とうの昔に、お前に惚れてた、ってことだよ」


 最初は、単に嫌なものから目をそらして、逃げを打っただけのことかもしれない。

 けれど、どこかで繋がりを切ろうと思えば切れたのに、あえて長引かせるような真似をして、そのくせ、構いながらもこちらから何を言うこともせずに、中途半端なままで。

 だから、その心を貰えた以上、何もかも必要が無くなったと、やっと気付いて。

 どうにか目をそらさないまま伝えてしまうと、案の定というか、歌は固まっていた。

 それから、予想通りに真っ赤になって、逃げ出そうと身を引きかけるのを、肩を掴んで阻止してしまうと、半ば無理矢理に抱き寄せる。

 「こら、いい加減に観念しろ」

 「……だって」

 微かに震える声で、そう言ったきり、腕の中で身を固くしている歌の頭を撫でながら、俺は軽く息をつくと、つい本音を零してしまった。

 「そう逃げられてばかりだと、正直、きついんだぞ」

 慣れていないんだろうことも、恥ずかしさが先に立つのだろうことも分かってはいるが、何かと可愛いところばかり見せられて、触れられないのはかなりつらい。

 それでも、無理強いして嫌われるのは何よりも堪えるから、俺はそっと腕を緩めた。

 と、身じろぎした歌が、おずおずと俺を見上げてきて。

 いつかのように、俺の両肩に手を掛けたかと思うと、ぐい、と強く身体を引かれて、


 「ごめんなさい。でも、ちゃんと、好きだから」


 ほんの一瞬、唇に触れた感触のあと、少しくぐもった声が耳元で響く。

 しばらく事態が把握できないまま、俺はそのまま硬直していたが、

 「……お前なあ……なんでそういうところは妙に潔いんだよ」

 深々と息を吐きながら、身を寄せたままの歌の背中に、あらためて腕を回す。

 どうにも、してやられた感が拭えずに、それでも、ほんの少しだけ普段より高い体温をくるみこむように抱き直すと、俺は諦めたように、細い肩に顔を埋めた。



 次の週、リボンのかかった、平たい包みを持って来た歌が、えらくにこにことしながら俺に渡してくれて。

 さっそく開けてみると、見事に俺のサイズに合わせたピンストライプのエプロンだった。しかも、胸元には凝ったフォントの英字で、しっかり俺のネーム入りで。

 ……これだけは、絶対、佐伯に探られない場所に隠しとかねえと。

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