遊園地
なけなしの勇気をなんとか振り絞って、倉岡さんをイブに誘って。
それから、完成したマフラーの包装や、当日の服をどうするか悩んだりしているうちに、あっという間に日が過ぎてしまった。
その間、父にイブは出かけるから、プレゼントのお礼が遅くなるかもしれない、と先にメールで伝えていたら、何故か兄を通じて、
『あ、父さんが、くれぐれも気を付けて行ってくるんだぞ!って言っといてってさー』
と、後日伝言が届けられたりしたのだけど、それはともかく。
「……やった、着いた」
クリスマスイブ当日、午後二時。
前の日に兄に貰った、手書きの地図を手に、私は小さく拳を握っていた。
現地で待ち合わせることにした、と兄に告げると、改札を出てからどう行くかを、箇条書きと簡単な地図を書いてくれた。そのおかげで、迷うことなく目的地に着けたのだ。
待ち合わせ場所は、遊園地の正門前広場だ。その中心にある噴水の周囲に、たくさんのベンチが据えられているので、そこに腰掛けて、『今着きました』とメールを送る。
ほどなく『もうすぐ着く』と返ってきたので、私はほっと息をついた。
服装も『フードにファーの付いたオレンジの短いダッフルコートに、白いニットと裾レースのミニキュロット』と知らせてあるから、それを目印に見つけてくれるだろう。
ふと、周りを見渡すと、同じように待ち合わせなのか、携帯を手にしている人が多い。
少し不機嫌そうだったり、不安そうだったり、わくわくしていそうだったりと、表情は様々だけれど、人待ち顔なのは皆同じだ。
ともあれ、私は肩から掛けたポシェットを開けると、携帯を中にしまった。ついでに、忘れてはならないチケットをもう一度確認し、いつでも取り出せるようにしておく。
以前預かったあの小箱は、あの時作った包みのまま、絶対落とさないようにしっかりと奥のポケットに入れて、ファスナーを閉めてある。
それから、別に用意したマフラーの入った深緑のバッグ。さんざん迷った挙句、包装は柔らかな和紙風の白い袋に青のリボン、というものに落ち着いた。意外とかさばるので、思ったよりも大きくなってしまったのが、ちょっと悲しい。
これ、渡すの、いつにしたらいいのかな。
流れでいいんじゃない?って里沙は言ってたけど……
「……何ひとりで困ってんだ」
バッグを見下ろして悩んでいると、そう声を掛けられて、驚いて顔を上げる。
全体に少しぼかしの入ったような色合いの、黒とグレーのチェックのコートを羽織った倉岡さんが、幾分申し訳なさそうな表情で私を見下ろしていた。
「悪い、遅れた。寒くなかったか?」
「大丈夫。さっき着いたところだし、あったかくしてるから」
特に、足元はタイツに膝までのロングブーツだから、少々風が吹いても平気なくらいだ。
そう言って立ち上がると、倉岡さんがちょっと眉を上げて、
「……なんか目線が違うな。成長期か?」
「伸びたら嬉しいけど、ヒールのせい」
とは言っても、ほんとに少しだけなのだ。あまり高くても、慣れていないから、歩いているうちに疲れてしまうだろうし。
「まあ、それでもまだちっさいけどな」
そう言いながら、何気なくぽん、と頭に手を置かれて、思わずびくりとする。
うろたえを誤魔化すために顔を伏せると、行こう、とだけ小さく告げて、そのまま正面ゲートに向かって歩き始めた。その横に、なんなく追いついてきた倉岡さんが並ぶのに、少しだけほっとする。
大丈夫、なんとも思われてない。多分。
そう自分に言い聞かせながら、チケットを取り出して、受付の直前で倉岡さんに渡す。
混雑気味のゲートを無事に通過すると、たくさんの赤やピンクのポインセチアが並んだ通路にさしかかる。遠目には巨大なツリーも見えていて、すっかりクリスマス仕様だ。
と、通路脇にいた、トナカイの着ぐるみを着たスタッフの女性が、声を掛けてくれた。
「クリスマス期間にご来場の方にプレゼントなんですよー。どうぞ、お好きなものを、おひとつずつお持ちくださいねー」
にこやかにそう案内してくれた女性は、なんとなくサンタ風、つまり鮮やかな赤に白いふわふわの縁取りがされた布で、綺麗に覆われたテーブルを示してくれた。
「……可愛い」
そこに並んでいたのは、サンタ帽、白の付け髭、トナカイカチューシャ。
それに加えて、案内のお姉さんが胸元に付けているような、リースやツリー型の小さなクリップもあった。特にクリップは、カラフルな電飾がちゃんと付いていて、どういう仕掛けなのか、ちかちかと光を放っている。
その前に立ったまま、じっと動けなくなった私を見下ろして、倉岡さんが言ってきた。
「えらく悩んでんな」
「うん、どれにしようかな、って」
ふさふさの付け髭もなかなか面白そうで捨てがたいのだけれど、カチューシャも可愛いし、クリップも帽子もいい。結局のところ、絞り込めないのだ。
そう言うと、倉岡さんは眉を上げて、それから吹き出すと、
「付け髭も選択肢に入ってんのか。ま、いいけど、とりあえず二つに絞れ」
「二つ?」
「俺は何でもいいから、好きなのにしろよ」
「いいの?じゃあ、髭」
「真っ先にそれか!」
「あ、でも、よく考えたらご飯食べる時に外さないといけない」
「お前がつける気なのか……いや、別にずっとそのままじゃなくてもいいだろ」
そんなやりとりの末、私がトナカイカチューシャ、倉岡さんがツリー型のクリップ、ということでおさまった。
倉岡さんは、意外とすんなり、コートの胸ポケットにそれを挟み込んでしまうと、
「別に邪魔になるほどじゃねえな。そっちは重くないのか?」
「うん、ふわふわだから、軽い」
そう言って、私はトナカイの角をつまんでみせた。根元についた赤いリボンと、小さな鈴がチリチリと微かな音を立てて、かなり可愛い。
ふと、隣に立つ倉岡さんを見上げてみて、私はあることに気付いた。
「角がついたら、身長、追いついたかも」
「いや、まだ低いだろ。ほら」
指差す方向を見ると、ショップの窓に並んだ姿が映っていた。確かに、ちょっと高さが足りない。試しに背伸びをしてみると、それでやっとギリギリだ。
「……惜しい」
「おい、お前が言ってたアトラクション、そろそろ予約時間近いぞ」
「あ、そうだった」
そう指摘されて、慌ててマップを取り出す。今日は、混むことが予想されていたから、行きたい、と思っているところにあらかじめ予約を入れてあるのだが、まずは、
「そういや、なんだ、このE・S・RⅣって」
「エクストリームスパイラルレヴォリューションⅣ、だって」
そこに行くなら絶対!と、里沙に勧められた絶叫マシンの場所を確認しながら、人波を避けつつ進んでいく。だけど、コンパスの差か、段々と倉岡さんとの間が空いてしまって。
しまった、と思いつつ、小走りになった途端、アトラクションから出てきた人の流れに揉まれてしまって、その背中を見失ってしまった。
どう動こうか、と焦りながら、周囲を見回すものの、突破口が見つからずにいると、
「何くるくる回ってんだ。大丈夫か?」
声とともに、腕を軽く掴まれて、引き寄せられる。
驚いて顔を向けると、倉岡さんが心配そうに見下ろしていて、途端に息をつく。
「ごめん、遅れて、巻き込まれた」
「だろうな。マップ見てて、さっさと行っちまって悪かった」
右手にしたスマホを示しながらそう言うと、ほら、と左手を差し出して来た。
一瞬、その意味をはかりかねたけれど、もしかして、と思い当たる。
「繋いでも、いいの?」
「でないと、お前迷いそうだろ。時間もねえし」
眉を寄せながら、どこか照れたようにそう言ってくる。
おそるおそる右手を伸ばしたものの、どうしても手に触れられなくて、結局、コートの袖を掴んでしまった。
でも、これじゃ失礼かな、と心配になって倉岡さんの方を見ると、小さく頷いてくれて。
「荷物、いいのか?」
「え、あの、あとで」
急に尋ねられて、とっさに荷物を持ち直す。何か変な返事をしてしまったけれど、倉岡さんは気にした様子もなく、こっちだ、と歩き出した。
ついて行くのに無理のない速度で歩いてくれるのに、ようやく周りを見る余裕が出来てみると、同じように二人で並んで、手を繋いでいる人達がたくさんいて。
……そういえば、今日、デートなんだ。
自分でそう言い出したのに、思った途端、意識してしまうのは、どうしてなんだろう。
先導してくれている倉岡さんは、マップを表示しているスマホに目を落としている。
それを幸いに、色付いているだろう頬を気付かれないように、私はそっと俯いた。
それからは、なんだかあっという間だった。
コースターは、私が声を出せなくて硬直していたのを、倉岡さんが助け出してくれたり、休憩のために入ってみた、子供向けの着ぐるみショーが予想外に面白かったり、懲りずに乗ってみたフライングパラシューター(巨大空中ブランコ)で振り回されてみたりして。
「お前、意外とシューティングの才能あるな」
「うん、自分でもびっくりした」
高得点の賞品として貰った、雪だるまのぬいぐるみを隣の椅子に置かせてもらいながら、私は手触りのいいそれを撫でてみていた。大きさがほぼおはぎくらいで、気持ちいい。
今いるのは、遊園地のほぼ中心に位置する、大きな規模のカフェだ。特別メニューで、クリスマスプレートが出るので、これも午後六時で予約しておいたのだ。
少しばかり早く着いてしまったけれど、疲れた足を休めるのには、丁度いい。
さすがに食事をするところだから、トナカイカチューシャを外しながら、私は言った。
「でも、倉岡さんの操縦も、凄く上手だった」
さっきまで遊んでいたのは、二人乗りのシャトルに乗って、宇宙空間を疾走しながら、襲い来るエイリアンを撃破する、というアトラクションだったのだけれど、
『動かすか撃つか、お前どっちにする?』
『免許持ってないから、撃つ方にする』
ということで、操縦は倉岡さん、撃つのは私、となったのだ。その結果、ゲートを出るなり派手なファンファーレが鳴って、これを渡されたので、二人とも驚いた。
そう言うと、倉岡さんはああ、と頷いて、
「この手の奴は、さんざん学生の時にやらされたからな」
「やらされた?」
「高校の時、俺の同級生がハマったんだ。年間パスまで持ってやがって、そいつの気が済むまで付き合わされたから、身体が覚えてたのかもな」
それを聞いて、思わず、高校生の倉岡さんを想像しようとしたけれど、意外に難しい。
初めて会った時から、社会人、という感じのスーツ姿だったからかもしれない。
「でも、そうやって、頼まれたら断れない、っていうのは、凄く分かる気がする」
「俺がか?」
「付き合いがいい、っていうのかな。それに、今日も、来てくれたから」
文化祭の時や、佐伯さんとの話を聞いていると、そう思う。面倒見がいいというのか、少しくらい無茶を言っても、やっぱり何かと構ってくれそうで。
「……別に、断れないから来たわけじゃねえよ」
顔をそらしたまま、ぼそりとそう言った倉岡さんは、ふいに脇に脱いであったコートのポケットを探りだした。それから、何やら小さな包みを取り出してくると、
「やる。合格祝い」
大したもんじゃねえけど、と言いながら、そっと差し出してくれた。
一瞬、動けなくなるくらい驚いてしまって、じっとそれを見つめてしまう。
見覚えのあるショッパーは、この間、里沙と兄と一緒に行った、ショッピングモールのものだったからだ。
「……いらねえか?」
「え、ううん、そんなことない」
何か気恥ずかしそうにそう言ってくるのに、慌てて手を伸ばして受け取ると、開けてもいいか確認してから、そろそろと、綺麗なグリーンの包みを解いていく。
「あ、『コンベルサシオン』だ」
「知ってるのか?」
「たまに行くの。前に、母の日のプレゼント、買いに行ったことがあるから」
そう応じて、店名の印字された小箱の蓋を取り上げると、思わず目を見張った。
入っていたのは、四つ葉のクローバーとシロツメクサの花の、ブローチ。
パールめいた不思議な光沢のあるそれは、繊細な細工が施されていて、とても可愛い。
声も出せないまま、私は静かにピンを外すと、ニットの胸元にそれを付けてみる。
白に映える、柔らかな色合いのクローバーを見下ろしたまま、私はやっとのことで言葉を返した。
「有難う。嬉しい」
「……そっか」
短いけれど、どことなく優しい声が耳に届いて、それだけで、何かが零れそうになる。
確かめるように、指先でブローチに触れながら、しばらくそうしていたけれど、
「あ、そうだ、私も」
プレゼントが、と、顔を上げた途端、丁度メニューを手に近付いてきた店員の男性が、滑らかな動きでそれを差し出して来た。
「お客様、失礼致します。本日のメニューでございます」
「あ、有難うございます」
とてもいい笑顔を向けられてしまって、受け取りながらなんとかお礼は返せたものの、結局、私は渡すタイミングをそのまま失ってしまった。
それから、ほどなく運ばれてきた、美味しい夕食を二人でいただいて。
最後のブッシュドノエルと紅茶まで、きちんと制覇してから、私と倉岡さんは、最後のアトラクションに向かっていた。
「まだ、結構人多いな。日曜だってのに」
「皆、やっぱりパレードを見に行くんだと思う」
雪だるまのぬいぐるみを、小脇に抱えてくれている倉岡さんに、私はそう答えた。
七時から開始されるそれは、たくさんのフロートが園内と中央広場を巡る、イルミネーションイベントで、やはりというか、クリスマスバージョンになっているそうだ。
「そういや『人工雪やレーザービームを駆使』とかってあったな……派手そうだな」
「去年、里沙が『テンションあがったー』って騒いでたから、それは保証付きみたい」
などと話しながら、実は、目指している行き先はそのイベントではない。むしろ、少し離れた位置にそびえたつ、観覧車なのだ。
里沙情報だと、間近でイベントを見る派と、観覧車で上空から見る派とに分かれているらしい。彼女は断然、前者だそうなのだけれど。
と、同じ目的なのか、そちらへ向かう順路に差し掛かると、にわかに人が増えてきた。
「ほら、どこでもいいからまた掴んどけ」
「分かった」
そう言われて、素直に袖に掴まらせてもらいながら、少しだけ慣れてきたな、と思う。とはいえ、前を歩いている人達みたいに、腕を組んだりはできないけれど。
そうこうしているうちに、観覧車に近付いてきた。サンタ姿の案内のお兄さんが、『ここが最後尾です』のプラカードを、目立つように掲げているのがようやく見える。
十分待ちでーす、の声を聞きながら、列の一番後ろに並んでしまうと、上を見上げる。
観覧車は、それ自体が眩い光で彩られていて、とても綺麗だ。グラデーションを描いて、刻一刻と色を変えていく様に、ぼうっと見とれてしまう。
「意外と、いいもんだな」
「うん。綺麗」
ぽつりと漏らした倉岡さんにそう応じた時、止まっていた列が動いた。ゴンドラの数が多いので、動き始めると、結構あっという間に順番が回ってきて、無事に乗り込む。
向かい合わせに座って、荷物を落ち着けると、緩やかな速度で上ってゆくその窓から、そろそろと外を覗いてみる。と、
「さすがに、まだ見えないだろ」
「そうみたい。ちょっとかかるかな」
それでも、宵闇の中に様々な灯りが煌くのが見えて、期待が高まってしまう。
と、座席に座り直した拍子に、脇に置いていたバッグのことを、あらためて思い出した。
それと、あの『あずかりもの』のことも。
……今、返した方が、いいかな。
ここなら、他の誰もいないし。
膝に目を落としたまま、どう切り出そうか、と迷っていると、窓の外を眺めていた倉岡さんが、ふいに私の方を向いて、静かに言った。
「……預けたやつ、そろそろ返してもらっていいか」
その言葉に顔を上げると、どこか困ったような表情で、こちらを見返してくる。
私は頷くと、ポシェットからすぐさま包みを取り出して、両の手に乗せて差し出した。
それを見た倉岡さんは、小さく笑うと、
「えらく、可愛いもんになっちまってるな」
「勝手に、ごめん。中は、ちゃんとそのままだから」
「そのへんは、お前を疑ったりはしねえよ」
そう言いながら、手を伸ばして、あっさりと取り上げてしまう。あっけない成り行きに、思わず私が息をつくと、倉岡さんは眉を寄せて、手の中の包みを握り締めた。
それから、そのまま無造作に、コートのポケットに突っ込んでしまうと、
「お前にずっと甘えてて、悪かった。こんなもん、ただの物なのにな」
ほろ苦いものを含んだ声に、私は黙って首を振ると、少し考えてから口を開いた。
「あの時は、ただの物じゃないんだ、って思ったから、預かったの」
鋭く胸をえぐるような、痛み。
思いがけず、そんな心の内を、覗いてしまったから。
「だから、そうじゃなくなったのなら、いいと思う」
私の知らない誰かに向けられていた想いが、薄れて、和らいで、それからいつかは。
いつしか、そんな風に願うようになっていたことに気付いて、私は俯いた。
この人のためを思うのではなくて、これではただの、わがままだ。
「……なんで、お前が泣きそうな顔してんだ」
どこか、宥めるような声音とともに、大きな手が髪を撫でてくる。
答えを返そうにも、喉に何かが詰まったように、言葉が出て来ない。
つかえの取れないまま、そうしてされるままになっていると、倉岡さんの手が離れて、
「ほら、顔上げろ。外、始まってるぞ」
優しい声に、窓の外に顔を向けると、見渡す限りの地上一面が、光の海と化していた。
高く澄んだ冬の空を裂くように上がる花火が、さらなる彩りを添えて、次々に花開く。
「凄い……すぐ傍で見ると、こんな風なんだ」
「ああ、なんか、印象ががらっと変わるな」
と、白い光が鋭く天を目指して上がったかと思うと、弾けたのは、雪の結晶だった。
それを皮切りに、ひとつと同じ形がないようなそれが、光とともに視界を満たしていく。
知らず声を上げたような気がするけれど、それすらも分からないくらいにじっと、私は夜空に弾けては降り注ぐ光の花に、ひたすら見惚れてしまっていた。
「パレード、近くで見なくてもいいのか?」
まだ続いているそれを、首を回して振り返っている倉岡さんに、私は頷いた。
「堪能したから。それに、あんまり遅くなるわけにはいかないし」
私はもう冬休みに突入したけれど、倉岡さんは、まだ明日も仕事だ。
それに、さっきまでの余韻を抱いたまま、帰ってしまいたい気がして。
最後までイベントを見ていく人が多いせいか、出口へと向かう波は緩やかだ。あの熱気から遠ざかるごとに、しん、と寒さが深まっていくようで、白い息をそっと吐いてみる。
と、腕を上げた途端、まだ手にしていたバッグに気付いて、私は足を止めた。
「……忘れてた」
思わず呟くと、中身を見下ろして、どうしようか、と考えている間に、数メートルほど先に進んでいた倉岡さんが、気付いてこちらを振り向いてきた。
どうした、と言うように、待ってくれている姿を見るなり、私は駆け出した。
突然のことに、怪訝そうに眉を上げた倉岡さんに追いついてしまうと、半ば無理矢理にバッグを押し付ける。
「これ、お礼。それと」
言葉を切ると、爪先立ちに背を伸ばして、倉岡さんの肩に手を置いて、引き寄せる。
今日が、最後になるかもしれないけれど、それでも。
「好き」
身を屈めたその耳元に、精一杯の言葉を投げて。
ふわりと、心地よく香るあの香りに身を浸すように、私はきつく目を閉じた。
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