しろくろ
胸の内を、彼女にはっきりと伝えてしまってから、もう四か月余り経ってしまった。
もちろん、その間無為に過ごしていたというわけじゃなくて、機会を見ては職場で話しかけたり、負担にならないくらい(だと、思う)の頻度で、食事やデートに誘ったりと、近付く努力は怠っていないつもり、だった。
それなのに、いざ相手に一歩踏み込んでこられることが、これほど怖いものだなんて、思いも寄らなくて。
「瀬戸くん、その白い子、乗せて、って言ってるよ」
「えっ、あの、か、噛まれませんか……?」
店の壁際にどん、と据えられた、人が七、八人は余裕で掛けられそうな、大きなソファ。
すぐ傍で、並んで座っていた細見さんにそう言われて、僕はうろたえていた。
とっさにそんな台詞が零れたのは、僕の記憶にあるそれとは、まったく違うものだったからだ。確かに、綺麗な緑の瞳をしているし、長い体毛も手入れされていて、とてもふかふかと気持ち良さそうなのだが。
でも、このサイズで猫、と言われても、にわかには信じがたいというか。
膝の上に、白い手をそっと乗せて、じっと僕を見上げている様子に、細見さんは小さく微笑むと、彼女の膝の上を、さっきから堂々と占拠している黒猫を撫でて。
その毛並みにも似た、肩で切りそろえた艶のある黒髪を揺らして、頷いてみせると、
「大丈夫。人懐こい性格みたいだし、困ったら助けてあげるから」
……ああ、この人の、この台詞に弱いんだよなあ。
惚れるきっかけになった言葉を貰ってしまっては、折れるより他なくなってしまって。
「……じゃあ、どうぞ」
遮るように置いていた自分の腕をのけると、白い猫はよし、というように顔を上げて、膝によじ登ってくる。それから、座りの良いようにしたいのか、その場でぐるぐるとしばらく回っていたが、ようやく身体を落ち着けると、満足したかのように鼻息を漏らした。
「……君、重いね。可愛いけど」
重さといい体格といい、控えめに見積もっても、僕が知る限りの猫の二倍はあると思う。なので、膝のほぼ全面を占拠したその姿に、思わず正直に口にしてしまったのが悪かったのかもしれない。
次の瞬間、鈍い音とともに、視界が白とピンクに覆われて、しばし。
「もう、女の子に体重のこと口にするから……平気だった?」
「……ちょっと鼻が痛いです」
そう言いながら、衝撃を受けてずれた眼鏡を外してみると、レンズには、見事に肉球のあとが付いていた。……なんか、梅の花みたいだな、これ。
それを見て、細見さんはおかしそうに僕を見て、声を立てて笑って。
可愛いなあ、と、隠しようもない想いを自覚しながら、僕は力なく苦笑を返していた。
こうして、細見さんと一緒に猫カフェに来ることになる、少し前のこと。
僕は、営業所に出張に行っていて、午後から戻ってきたところだった。前年度は、まだ新採だったから、倉岡さんと二人で行った用件だったけれど、今年はさすがに単独行だ。
だから、戻ってくるなり緊張が解けて、ちょっとぐったりもしていたのだけれど。
「……え、意外。こんなところに行くんですか?」
更衣室へと続く廊下の奥、ドリンク類の自動販売機が並ぶ休憩所の方から、聞き慣れた声が聞こえてきて、僕は思わず足を止めた。彼女だ。
聞こえてきた言葉からすると、総務の先輩と一緒なのかな、と思いつつ、疲れも抜けた気分で、せめて挨拶だけでも、と思いながらそちらへ向かう。
と、意外な光景が目に飛び込んできて、瞬きを繰り返す。
……倉岡さんと、佐伯さんだ。
ほとんど恒例化している、三時から四時の間のコーヒー休憩なんだろう、それぞれに、ブラック(倉岡さん)と微糖(佐伯さん)の缶を手にしているのが見える。
その前に、レモンティの缶を手にした細見さんが、佐伯さんの手元に目を向けていた。
休憩所は、ちょっとしたブースになっていて、入口以外、透明な壁に仕切られている。さっき声が聞こえたのは、多分彼女がその近くにいたんだろう。今は少し奥にいるから、まるでテレビの音声を消しているかのようにも見えて、不思議な光景だ。
ここで鉢合わせるのは珍しいなあ、と思いつつ、混ざらせてもらおう、と近付いた時、俯き加減だった細見さんの唇が、小さく動いて。
それに対して、佐伯さんが笑いながら何か言って、倉岡さんもつられるように笑って。
その途端、勢いよく顔を上げた細見さんの頬が、見る間に赤くなっていって。
二人に向けて、怒ったみたいに小さく拳を振り上げると、くるりと踵を返して休憩所を飛び出してきた。と、まだ数メートル先にいた僕と、まともに顔を合わせてしまって。
「……瀬戸くん」
余程驚いたのか、今まで見たこともないようなくらい、大きく目を見開いて。
それから、ぎゅっ、と怒ったように眉を寄せると、無言で近付いてくるなり、僕の腕を取って、
「今晩、連絡するから。二人には何も聞かないで」
そう囁くと、手を離して、そのまま廊下を歩き去っていってしまった。
……あんな表情、初めて見た。
しかも、それを他の人が引き出したことに、思いの外ショックを受けてしまって。
「あーあ、あっさり逃げられたー。からかう暇もなかったじゃーん」
「……瀬戸、妙な誤解すんなよ」
「あ、はい……」
いつもの調子の佐伯さんを、倉岡さんがフォローするようにそう言ってくれたものの、完全に取り残された気分で、僕はそれ以上、何を聞くことも出来なかった。
それから、その晩に、彼女から電話が掛かってきて。
次は猫カフェに行こう、といきなり誘われて、ここにいるわけなのだけれど。
「……細見さんから誘ってくれたのって、初めてですよね」
「そうだよね。ごめん、いつも任せっきりで」
手にしていた背の高いグラスを、目の前のテーブルに置いて、細見さんは苦く笑った。からり、と氷がぶつかる音がして、澄んだ琥珀色の中で白く気泡が弾けるのを見ながら、僕は口を開いた。
「いいんです。僕が好きで誘ってるから……だけど、ずっと気になってて」
言葉を切ると、細見さんはつっと視線を上げて、尋ねるように見つめてきた。それを、まるで真似るかのように、膝の黒猫までが黄色の瞳を向けてくる。
「細見さん、僕がどこに誘っても断らないから、嫌じゃないんだって勝手に思ってたんですけど……本当は、車も、遠出もそんなに得意じゃないんですよね」
僕が告白してから、しばらくして、周りの人たちがそれとなく耳に入れてくれたのだ。
誘いは拒まないけれど、どちらかといえばインドアで、静かな時間が好きで。
反対に、僕は車をどこまでも走らせて、まだ見たことのない景色を一緒に探すことが、とても楽しくて、余計に好きになって。
時折見せてくれた嬉しそうな表情は、気遣いからのものじゃない、とは思うけれど。
「だから、あなたのことをずっと振り回してたんじゃないかって。僕が、一緒にいたい、って思うことばかりが先走って、それで」
「……ちょっと、待って」
小さな声とともに、今度は唇に柔らかい感触が触れる。……今度は、黒猫の、肉球だ。
彼を抱き上げている細見さんを見ると、ほんのりと頬を赤く染めていて、どきりとする。
さすがに嫌そうに身をよじる黒猫を膝に戻すと、宥めるようにその背中を撫でながら、細見さんは言った。
「嫌なら嫌、って言うよ。確かに、今までは凄く苦手意識はあったけど、行ってみたらそれなりに楽しいし、楽しめるんだ、ってことも分かってきたし」
そう言ってから、少しためらうように幾度か唇を動かしかける。息を詰めてそれを見ていると、細見さんはふいに黒猫から手を離して、
「……耳、貸して」
短い言葉に、誘われるように身体が動く。
袖を軽く掴まれて、少しだけ引き寄せるようにされて、顔が近付いて。
「段々と、好きになってきたの。それと、君のことも、同じ」
「……そういうことを、どうしてここで言うんですか」
それぞれが猫に夢中とはいえ、他のお客さんも、店員さんもいる場所で。
おまけに、場所が場所だから、外を歩く人からも見えかねないし、もう。
「……だって、二人きりだったら、瀬戸くん、暴走しそうだから」
耳まで赤くしている彼女に、見事に図星を射抜かれてしまって、ぐっと口を噤む。
確かに、今だって人目がなければ、思うさまに抱き締めてしまいたいけれど。
と、何かを察したのか、ふいに膝の上に立ち上がった白い猫が、どこか慰めるように、僕の肩にその手を置いてきた。
その後、白い猫に頭までよじ登られて、鋭い爪のせいで一騒ぎして。
ありがとうございましたー、と、エプロン姿の店員さんと、きちんと足を揃えて座った白黒の二匹の猫に見送られて、店を出る。と、
「そういえば、この間、休憩室で……」
何を話してたんですか、と続ける前に、細見さんはそっと横を向いてしまうと、
「……佐伯さんに聞いてみて。きっと、嬉々として教えてくれると思うから」
……そう言われてしまうと、聞いてもいいものか、どうなのか。
後が怖そうだなあ、と思いながら、照れたように足を速めてしまった細見さんの背中に、僕は我ながら、すっかり緩んだ笑みを向けていた。
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