河川公園
冬野ふゆぎり
河川公園
七月
葦の原
近所に河川公園があるというのは、なかなか便利だ。
というのも、うちには犬がいるのだが、雑種の彼女は散歩が大好きで、朝夕欠かさずにそれを要求する。まあ、母のしつけの結果、とても良い番犬だし、当然のことなのだけど。
だから、彼女が耳をそばだて、何かを伺うように鼻をひくつかせた時、私は即座に顔を向けた。
「どうした?何かいる?」
私の声に、彼女は首を巡らせると、一度だけ振り返り短く吠えた。それから、リードをぐいと引っ張り、促すように歩き出す。その先を見れば、川沿いに広がる葦の原があり、水鳥ならともかく、あまり人は足を踏み入れない場所だ。
見る間にプロムナードを外れ、草地を越えてためらいなく歩みを進める彼女に続いて、私も葦の原に踏み込む。幸い、履いていたのはスニーカーだから、足指を傷つける心配もない。ただ、クロップドパンツからむき出した足に、時折草が当たってむず痒くなる。
そうして、私の背よりも高い葦をかき分けていった先で、ついに彼女がそれを見つけた。
「……なんだ、人か」
イノシシでなくて良かった、と小さく息を吐き、思わずそう呟いた瞬間、
「なんだ、ってひでえな……」
湿地に大の字になって寝転んでいたその男性が声を上げ、身じろぎしたのに、私は少し身を引いた。まさか起きているとは思わなかったのだ。
というのも、男性の服装というのが、一言でいえば乱れ放題のスーツ姿。
薄い水色の半袖のシャツは派手にはだけ、ボタンがいくつかちぎれている。ネクタイは見当たらない(クールビズの可能性もあるが)し、パンツは何故かあちこち破れてひどい有り様だ。そして、極めつきには靴が両方とも見当たらない。
そこまで見取っている間に、彼女は男性に近付くと、顔に鼻を近付け、しきりと匂いを嗅いでいる。……吠えないということは、近付いても大丈夫かもしれない。
そう思って、私はそろそろと足を進めると、男性のそばに屈みこんだ。
「お兄さん、どうしたの?」
「どうした、って……そもそもここ、どこだ」
そう言いながら、眩しそうに目を細めた男性は、短い黒髪が汗で額に張り付いているのが気に障るのか、上げた腕で乱暴にそれを拭っている。
とりあえず、散歩用バッグからハンディタオルを取り出すと、その手に握らせて、
「
「あー……そっか、そうだったな」
駅名を耳にした途端、少し顔をしかめた男性は、すぐそばにある彼女の顔に気付いて、少し目を見開くと、
「いい顔してんな、お前。名前なんていうんだ?」
「おはぎ」
そう答えると、男性は一瞬考える様子だったけれど、すぐに思い当たったようだ。
「なるほどな、色合いか……そっか、お前おはぎか」
と、どこか嬉しそうにそう言って、おはぎの頭を軽く撫でている。
その名は、うちの祖母がつけたのだが、彼女が小さい頃に我が家に来た時、
『この毛玉、おはぎみたいだねえ』
と言ったことで、満場一致でそれだ!と決定した。黒ともいえない何とも微妙な毛色を的確に表してくれたので、家族皆がやけに納得したことを覚えている。
「ところで、大丈夫?」
「……大丈夫に見えるか?」
「あんまり見えない。そうだ、水でも飲む?」
と、私はバッグから自分用のペットボトルを取り出した。あともう一本入っているが、これはおはぎの粗相の後始末用なので、間違えたら大変なことになる。
「ああ、悪い……っていうか、今何時なんだ?」
身体が痛むのか、眉を寄せながらもようやく身を起こした男性に水を渡すと、私は腕の時計に目をやった。
「五時二十四分」
「まだ早朝か……お前、早起きだな」
「夏だから。早く行かないとこの子が暑いし、私も暑い」
「そりゃそうだな。今でも結構な気温だしな」
そう言いながらキャップを開け、ぐい、という感じで男性は水を飲んだ。余程喉が渇いていたのか、喉を鳴らしてあっという間に半分ほどを開けてしまうと、口元を拭って、
「あー、マジで生き返る……助かった」
深々と息をつきながら、ペットボトルを返そうとするのに、私は首を振った。
「いい。家が近いから、水はなくてもなんとかなるし、お兄さんが持ってるといい」
「……そうか?なら、有難く貰っとく」
少しすまなさそうにしながら、そう言った男性は、あらためて自身を見下ろすと、ごそごそと身体中のポケットというポケットを探り始めた。
「パスケース……ねえな、財布、鍵……スマホもか。くそっ、残ってんの時計だけかよ、しかも割れてるし」
「もしかして、強盗にでも遭った?」
状況からしてそれしかないのでは、と思いながら尋ねると、意外にも、男性は首を横に振って、
「殴られたとかの記憶はねえし、だいぶ酔っぱらってたからな……酔い覚ましに歩いて帰るか、と思って駅前からこっちに歩き始めたのは覚えてんだけど」
「酔っぱらってた……」
それを聞いて、私は周囲を見回した。丈高い葦が立ち並ぶ中、一角だけ、なぎ倒されている場所がある。もしかして、と思い立ち上がると、
「おはぎ、この人見てあげてて」
「え?おい、どこ行くんだ」
私の指示に、心得ました、という感じで男性の横にちょこんと座ったおはぎに、よし、と微笑みかけると、
「靴、ないでしょ。足、痛くなるからここで待ってて」
そう男性に告げてしまうと、私は背中を向けて歩き出した。むろん、なぎ倒された葦の方だ。
数歩踏み込んだところで、何か柔らかいものを踏んだ感触が足裏に伝わる。目をやれば、いかにもビジネス的な黒い革靴が片方転がっていた。それを拾い上げてから、さらに進むと葦の原を抜け、狭い草地を見渡すと、今度は何やらきらきらと光を弾くものがあって。
「鍵……かな」
近付いてみると、その通りだった。うちのものよりずっと大きめのキーリングに、銀の鍵が二つ下がっている。大きいものと、ごく小さいものだ。
これは何やら大事そうなので、パンツのポケットにとりあえず仕舞ってしまうと、私はさらに先へとずんずん進んでいった。
それから、ちょっとしたヘンゼルとグレーテル気分を一通り味わって。
戻ってきた私を見るなり、男性は目を見張って、声を上げた。
「マジか!?全部あったってのか!」
「多分。まだ朝早いから、拾っちゃう人もいなかったのかもしれない」
実際、夏場に入ってからこの時間帯にずっと来ているけど、すれ違う人などごくまれで、たまにハイスピードで走ってくる、乾さん家のお爺ちゃんくらいしか見ない。
それはともかく、驚いている男性の前に、ひとかかえの荷物を私は下ろして、並べてみせた。まず左右揃いの革靴、二つ折りの財布、ICカード入りのパスケース、黒のスマートフォン、それからキーリングに下がった鍵。
幸いというか、どれも汚れてはいるものの、さほど損傷も見当たらないようだ。
並べていくごとに、ひとつひとつ手に取って確かめている男性を見ながら、最後に見つかったものを地面に置いた。と、
「……これまであったのかよ」
舌打ちでもしたいような表情で、男性はそれを見据えていた。
その瞳に、なんだか申し訳ないような気持ちになってしまい、私は正直に言った。
「ごめん、中身、見ちゃった」
「え?ああ、別に怒ってるわけじゃねえよ」
無意識なのか、傍らに寄り添うように座って、ずっと心配そうに見上げているおはぎの頭を撫でながら、男性は長く息を吐き出した。
「それ、無駄になった。だから酒飲んで、ここまで来て……どうしたんだっけ」
私の置いた、小さな箱を開けてみせると、姿を見せた赤い石が、日の光を弾いて煌く。
あまり貴金属には詳しくないけれど(というより、本物を直に見たのは正直初めてだ)、いかにも婚約指輪です、という雰囲気のそれを見ながら、私は尋ねた。
「ルビー?」
「ああ。あんまり知らなかったんだけど、七月の誕生石なんだってな」
そう言いながら、蓋を閉めてしまうと、力なく地面に投げ出す。それに、見つけた時の姿が重なって、なんだか胸が痛んだ。
緑の斜面に、蓋が開いたまま転がる、グレーの小さな箱。
「ま、単純な話なんだけどな。結構長いこと付き合ってて、俺が転勤で遠距離になって、その間にあっちに別の相手が出来た、ってオチで……忙しくて、ほとんど構えてなかったとはいえ、帰ってきてみりゃこれだし」
三年が一瞬でパーだ、と自嘲気味に呟くと、ふと思いついたように顔を上げて、
「そうだ、お前、何月生まれ?」
「私?八月」
「そっか。微妙にズレるけど、礼にそれやるよ」
さらりと言われた言葉が一瞬理解できなくて、思わず男性を見つめると、それを避けるかのように、転がる箱に目を落とす。と、
「いっそのこと、売っぱらってくれてもいいぜ。二束三文かもしれねえけどな」
こいつの餌代くらいにはなるだろ、と、おはぎの頭をさらに撫でた。
私は膝を伸ばして立ち上がると、箱を拾い上げた。
それから、こちらの動きにつれて顔を上げた男性の右腕を掴むと、半ば無理矢理に手を開かせ、箱を押し込んで握らせると、
「いらない。他の人への想いが詰まったものなら、余計に貰うことなんてできないし、貰うのなら好きな人から貰うのでなければ、嫌だから」
一息にそれだけを言うと、男性はぽかん、とした顔でしばらくこちらを見ていたけれど、不意に唇を歪めて、
「そうだよな、悪かった。じゃあ、当初の予定通りにするよ」
少しよろめきながらも立ち上がると、手にした箱を見下ろして。
それから、腕を大きく振りかぶると、思い切り川に向かって投げた。
と、綺麗な放物線を描いて飛んでいくそれを、おはぎが全速力で追いかけていって。
「あ」
「おはぎ、こっち!」
川に届くか届かないか、のところで黒い身体が跳ね、ぱくり、とキャッチしたのを見るなり、私はいつもの習慣で声を上げていた。
おはぎはすかさず駆け戻ってくると、私ではなく、きちんと投げた男性の足元にそれをぽとり、と落として。
それから、私の足元に寄ってくると、とても満足そうな様子で見上げてきた。
その後。
「なあ」
「なに?」
「なんで俺がおはぎのリード持ってんだ」
とりあえず、私の家に向かうことになって、しばらくして。
不満げ、というよりは、腑に落ちない、といった表情で、男性は尋ねてきた。
その横をいつもの散歩ペースで歩いていた私は、顔を向けると、
「そうしておけば、逃げられないから」
「俺は犯罪者か」
「でも、そんな格好で一人で歩いてたら、正直通報されると思う」
「……早朝で良かったってことだな」
どこか気の抜けたようにそう漏らした男性のポケットには、さっきの箱が入っている。
さすがに、もう一度川に投げる気力はついえたようで、ため息をつきながら拾い上げると、黙ったまま無造作に突っ込んでいた。
その重みは、多分、そう簡単には軽くはならないのかもしれない。
悪いことをしたかな、と思いながら歩いていると、男性は、ペットボトルを持った腕を大きく空に向けて、試すように上げてみせて。
「いってえ……こりゃ、あっちこっち打ってるな」
「あれだけ転がり落ちてるから、そうだろうね」
顔をしかめた男性にそう応じると、私は堤防の下を見下ろした。
もう葦の原の辺りからは随分歩いてきたから、男性が残した跡はもうかすかにしか見えない。でも、整備された緑の芝生が少しばかりえぐれていたくらいだから、かなり派手に落ちて行ったことは間違いないだろう。
ひとつひとつ、一度剥がれていったものを、またひとつひとつ、拾い集めて。
全部返してしまったけれど、最後に、この人の中には何が残るんだろう。
とりとめのないことを考えていると、不意におはぎが短く吠えた。
その声に顔を向けると、何か途方に暮れたような顔で、男性が少し先からこちらを見ている。と、
「……どっちに行けばいいんだ?」
見れば、その足元でおはぎがきちんと足を揃えて座り込み、こちらを見ながらしきりに尻尾を振っている。その様子に、私はなんとなく笑ってしまうと、
「ごめん、そこの横断歩道を渡って、すぐ先の階段を降りるの。おはぎ、ゆっくり案内してあげて」
そう続けた私の声に、一声短く吠えたおはぎは、立ち上がるなり元気よく歩き出した。
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