裁縫屋
河川敷のてっぺんから歩道を越え、二車線の道路を渡って、階段を降りたその先。
耳が出るほどに髪の短い、おそらく高校生くらいの女子と、黒っぽい犬おはぎに連れられて、俺は住宅街に入った。整然と区画整理された地域にありがちな、同じ規模の住宅が立ち並ぶ、「閑静な」とでも形容されそうな印象を受ける場所だ。
「ごめん、もうすぐだから」
「いいけどな……ほんとに邪魔していいのか?」
声を掛けられて、俺は戸惑いを隠せないままそう返した。
何しろ、いわば自損事故とはいえ、格好が格好だ。
あらためて自らを見下ろしてみれば、惨状と言っても良かった。ボタンがはじけ飛んでいるせいで、ボタンダウンでもない開襟シャツはみっともなくはだけているわ、パンツはずたずただわ……ていうか、俺のネクタイ、どこにいったんだ?
気合いを入れて新しいのを締めていったってのに、まったく……
そんな俺の様子を、振り向いて一瞥した推定高校生は、小さく頷くと、
「うちだったら、その服、なんとか出来ると思うから」
「どういうことだ?」
「パンツは状態が酷いから、ちょっと考えるけど、シャツは破れてないから……ええと、着いた」
そう言うと、この通りに入ってから数えて五軒目、清潔感のある雰囲気の白いタイルに覆われた家の前で立ち止まる。窓も何もかもが、スクエアで構成されているイメージだ。
と、階段を二段とんとん、と上がって、アルミ製らしき門扉を開けて入っていく。
その背中を見るともなく見ていると、ふとあるものが目に入った。
「……なんだ、この看板」
門扉の横、家のぐるりに巡らされた白い壁に掲げられた、『深山』との名字だけの表札の下に、木製の簡易な看板が吊り下げられていた。
こげ茶色の地に白い字で『裁縫屋』と書かれていて、その下にひとまわり小さな文字で、『お直し、縫製お受け致します』とも書いてある。
なるほど、と納得していると、アプローチの奥、外開きの扉を開けて、さっきの女子が顔を出してきた。
「お母さんの許可、出たから。入って」
「あ、ああ、分かった」
そう返すと、ん、と小さく頷いた女子は、近付いてくると俺の手からおはぎのリードを受け取って、先に玄関へと入っていった。……なんで、こんなことになったんだ?
「ああー、結構やっちゃってるわねー」
俺の姿を上から下まで見るなりそう言った女性は、やけに人の良さそうな雰囲気だった。娘と同じく細身で、黒目がちでやや小さ目の唇、という顔立ちも似通っている。樹木のシルエットがプリントされたTシャツにストレートジーンズというラフな格好で、手には何故か長めのめん棒を持っていた。
なんでめん棒なんだ、とかそのあたりの疑問はさておき、俺は頭を下げた。
「お邪魔して大変申し訳ありません、こんな朝早くから」
「いいのよ、どうせこの子たちが起きてる時間には一緒に起きてるし。ここまで酷いと腕が鳴るわー!あ、そうだ、うた」
「なに?」
玄関の小上がりに腰を下ろして、犬専用なのか、綺麗な雑巾でおはぎの足の裏を拭いてやっていた女子が顔を上げた。揃って、機嫌良さそうにおはぎも顔を上げる。
「そろそろいい時間だし、お兄ちゃん起こしてきて。それと、お父さんの部屋に新しいジャージあったでしょ、あれ持ってきてくれる?」
「分かった。おはぎ、けしかけていい?」
「いいわよ。どうせそれやらないと起きないし」
「ん。じゃあ、おはぎ、行こうか」
わん、と声を上げたおはぎのリードを、ぱちん、と音を立てて外してしまうと、女子はスニーカーを脱いできちんと並べて上がって、
「はい、これ持ってて」
断る余地も与えず、リードを何故か俺に預けると、そのまま右手脇の階段を駆け上がっていった。その後を、おはぎがきちんとついて登っていく。
「……これ、どうすればいいですかね」
「そこのフックに引っかけといてくれればいいわ。とりあえず上がって」
「分かりました。すみません、見ず知らずの者が突然……」
さすがに恐縮しながら、俺は言われた通りに上がらせてもらうと、既に用意されていたスリッパに足を通した。女性はいいのよ、と軽く手を振ると、
「しっかし、あの子も色んな物今までに拾ってきたけど、人間を拾ってきたのは初めてだわー」
そう言ってからからと笑うのに、俺は何とも言えずに眉を寄せた。と、
「……うわっ、おはぎやめ……!耳はやめてくれ、そこは俺は……!うわああああ!」
二階から野太い、としか形容しようのない声が降ってきて、ぎょっとして見上げると、
「ああ、あれはいつものことだから。ちょっとそっちの部屋で待っててくれるかしら」
女性は平然とそう返すと、階段横、奥へと伸びている廊下の、すぐ左手にある引き戸を俺に指し示して、娘に続いて二階へと上がっていった。
俺はしばらく所在無げに階段を見上げていたが、物音はするものの誰も降りてくる様子がない。ため息を小さく吐くと、大人しく言う通りにすることにした。
それから、しばらくして。
ようやく戻ってきた、うた、というらしい女子に、ネイビーのジャージの上下、新しいトランクスとアンダーシャツまで入った紙袋を渡されて、問答無用で風呂に案内されて。
「破れた服、こっち。着替えたのはビニール袋に入れて、この袋に貴重品と一緒にしておいて」
口を差し挟む間もなく、てきぱきと指示を与えられると扉を閉められて。
そして、なんともいえない複雑な思いで風呂から出てきたら、
「簡単で悪いわねー。食パン今焼けるから、卵とか先に食べといてくれる?」
「あ、焼けた。バターでいい?」
「あ、ああ。悪い」
「うた、俺もコーヒーくれー」
「ん。ごめん、兄さんにミルク渡してもらっていい?」
「これか?どうぞ」
……いつの間にか、ひとん家の朝食風景にナチュラルに混ざってるとか、何の冗談だ?
とりあえず、頼まれた通り牛乳のパックを取り上げて手渡すと、学生時代はラグビー部でした、と言われれば疑う余地のないようなガタイのいい青年は、大きく破顔して、
「お、有難うなー、見知らぬ人。そういや名前なんていうの?」
「ああ、名乗ってもなかったですね、すみません。
「どんな字?」
隣に座っていたうたに聞かれて、俺は顔を向けると、反射的にポケットを探った。
「倉庫の倉に、岡田さんとか岡村さんとかの岡。名前の方は表彰状の彰……悪い、名刺持ってきてなかった」
「いいって、分かりやすかったし。こっちはー、俺は
何故か、手元の新聞の端に、家族全員の名前を走り書きして見せてくれた。
ああ、うた、ってこう書くのか、まんまだな。おはぎは書かなくても読めるけど。
しかし、ちゃんとした朝飯食うのなんか、久々だな……
どうやら揃いらしい、白にカラフルな水玉を散らした皿(俺はグリーンだった)には、こんがり焼いた厚めに切ったトースト、それにめいめい好みの焼き方らしい卵、グリーンサラダ、加えて、きちんとドリップされたコーヒー。
「なんかモーニングみたいだな。美味い」
とろりとした半熟のスクランブルエッグを口にしながら思わず呟くと、隣に座っていた歌が、ぱっと顔を向けてきた。
「美味しい?」
「あ、ああ。美味いよ」
「やった」
嬉しそうに微笑むと、小さく握り拳を作っている。それを見た瑞枝さん(でいいだろう)が大きく口角を上げると、
「卵焼いたの、娘なの。気に入って貰えて良かったわ、この子料理はあんまり自信ないみたいだから」
「被服は満点なのにな、歌は。服作る時間を料理に振り分ければ、多分上達するぞ?」
「服?作れるのか、凄いな」
思わずそう言うと、歌はちょっと目を見張って、それから照れたように俯くと、
「まだまだ、お母さんには敵わないから。さっきの服のこと、どうするかは私がやるんだけど……」
「ああ、それね、結構汚れてたから洗って、直してから送るわ。それでいいかしら」
「え?直るんですか?というか、そこまでしていただくわけには」
瑞枝さんの言葉に、俺は慌ててそう言うと、歌が首を振って、
「シャツはほとんど破れもないから、ボタンホールのほつれ直しとボタンを付け直せば大丈夫。パンツはちょっと難しいから、何かにリメイクするかもしれないけど、いい?」
「そりゃ、構わねえけど……そこまでしてくれるんなら、ちゃんと対価がいるだろ」
「いらない。糸とボタンくらいしか使わないし、パンツは生地を貰っちゃうようなものだから」
「それはだめだろ。俺の気が済まねえし」
あの屋号からして、少なくとも親が商売でやってるのは間違いないわけだし、好意とはいえ、そこまで甘えるわけにはいかない。何より、どん底だったのを助けてもらったのは、こっちだから。
そんなことを伝えると、歌はしばらく考えていたようだったが、
「仕上がりに納得してくれたら、でいい。それに、いい練習になるから」
「……分かった。けど、最低限原価はちゃんと請求しろよ?その様子だと、将来お前も商売にするつもりなんじゃないのか」
「うん」
「なら、ちゃんと利益も考えろよ。今回に限り、いくら吹っかけてもいいから」
助けてもらった恩があるしな、と言うと、いきなり謡介さんが腕を伸ばして、俺の肩をばしばしと叩いてきた。それはもう、力の限りで。
「いやあ、倉岡さんって良い人だよね!さすが、おはぎの目に適っただけのことはあるよ!」
「いって!ちょ、打ち身が!マジで痛いんで加減してください!」
予想に違わぬ馬鹿力に俺が悲鳴混じりの声を上げると、リビングの隅で、自分用の飯を食べていたおはぎが、駆け寄ってくるなり鋭く吠えた。
「兄さん、おはぎが怒ってる」
「あー、ごめんごめん。あとで打ち身に効く湿布のサンプルあげるからさー」
結構効くよー、と悪びれない様子で笑ってみせるのを見ながら、俺は小声で歌に尋ねた。
「……あんまり、お前と似てないか?」
「兄さんは、お父さんによく似てる、って言われる」
「マジか」
思わずそう言うと、歌はうん、と頷いて、
「二人揃うと暑苦しい、ってお祖母ちゃんが言うくらい、そっくり」
真面目な顔でそう言うのに、俺はこらえきれずに吹き出した。
ああ、なんか、妙にいい気分だ。
あらためて、笑えるっていいことだよな、とか思いながら、俺はきょとんとした様子の歌と、尻尾を振って見上げているおはぎを見やっていた。
それから。
散歩のついでに駅まで送ってくれる、という歌と、もちろんおはぎと連れ立って、俺は法坂駅への道を歩いていた。
「倉岡さん、家、どの辺り?」
俺の連絡先(住所、携番、メールアドレス)を書いたメモを見ながら、歌が尋ねてきた。こんなアナログな手段になったのは、なんとスマホがいかれていたことが今更分かったので、仕方なく手書き、という訳だ。
まあ、そっちも携帯持ってない、っていうしな……大丈夫か、今時の女子高生。
「住所じゃピンとこねえか。最寄駅は
「何分くらい?」
「北に向かって十五分くらいだな」
「北……」
そう呟いたきり、何故かうーん、と考え込んでいる様子に、俺はふと思い当たって、
「もしかして、コンパスでもねえと方角分からないタイプか?」
「うん。むしろどうして分かるのか不思議」
「パソコンで地図見てみろ。使えるんだろ?」
「それくらいなら、なんとか。帰ったら見てみる」
……ほんとに大丈夫なんだろうな、おい。
眉間に軽く皺を寄せている様子に、俺は若干不安を覚えたが、そんなことには構わない様子で、歌は突然顔を上げると、
「あ、そこを右で、駅」
「こっちか。意外と近くだったな」
言われた通りに角を曲がって、すぐに視界に入った駅舎を見やって腕の時計を確認する。およそ、徒歩五分。風防は割れていたが、機能は生きていたのが不幸中の幸いだった。
ロータリーはなく、微妙な台数の駐車スペースのみの、どこか大人しい風情の駅に着くと、俺は改札前で振り返った。
「すまん、色々世話んなった。まあ、またあらためて挨拶しに来るけど」
頭を下げてそう言うと、歌は、ん、と頷いて、しばらくためらっていたが、
「大丈夫?」
そう言って、少し心配そうに俺を見上げてきた。それに気付いたのか、横でおはぎまで揃って同じように小首を傾げている。……なんか、似てんな。
思わず口元が緩むのを感じながら、俺は屈みこんで手を伸ばすと、おはぎの頭を撫でた。
「なんとかな。お前らのおかげだ」
スマホや時計が壊れたのも、ある意味都合がいい。何かすることがある方が気が紛れるだろうし。ただ、ひとつだけ、どうしようもなく面倒なものがあるが。
俺は膝を伸ばして立ち上がると、ジャージのポケットに手を突っ込んで、例の箱を取り出した。グレーのそれを見るなり、歌がじっと見つめてくるのに、やや気後れしながらも、口を開く。
「……これ、ほとぼりが覚めるまで、預かっといてくれねえか?」
単なる我儘だとは、分かっている。見るのも忌々しいものを、単に自分で整理しきれずに、押し付けてるだけのことだ。しかも、何の義理もない相手に。
だけど、それでも。
と、俺が差し出した手の上から、歌はすっと箱を取り上げると、ぎゅっと握りしめて、
「分かった、責任持つ」
やけに真剣な面持ちで、そう言ってきた。俺は知らず、詰めていた息を吐き出すと、
「悪い。いずれ、ちゃんと引き取りに来るから」
「うん、じゃあ、また来て。おはぎ、倉岡さんのこと好きみたいだから」
ね、と小さく笑って、おはぎを見下ろすと、答えるように尻尾を振っている。
……犬を飼うのも、悪くないかもしれないな。まあ、すぐには無理だけど。
そんなことを考えながら、俺は自然と頷きを返していた。
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