八月

単身寮

 俺が寮に入ったのは、至極散文的な理由だ。

 一、通勤至便(立地が会社の真横)、二、家賃低廉(1DKで月額一万五千円)、三、静寂閑雅(後半はやや誇張)、と、俺にとってそれなりに利のあるものだったからだ。

 数年前に兄が結婚して、実家が二世帯住宅になった、という背景もあるが、ともかく、人生初の一人暮らしは気楽極まりなくて、二年の転勤から戻ってくるなり、運よく空いていた同じ部屋に入って、また単調ではあるが平和な毎日がやってくる、はずだったが。

 「おーい、倉岡ー、外線、上村うえむらさんからー」

 「は?なんでまた」

 広い事務室内、同じシマの同期である佐伯さえきにそう言われて、俺は間抜けな声を上げた。

 上村さん、というのは、俺が住んでいる単身寮の寮監だ。御年いくつか、は怖いので誰も聞けないが、うちのOGだという話ではある。

 「何かお客さんがどうとか言ってたぞ。ほれ、そっち飛ばしたからさっさと取れって」

 「……おう」

 俺に客なんか来るか?と思いながら、スタンドのアームを手元に引っ張って受話器を取る。と、

 「はい、倉岡」

 『ああ、倉岡さん?あんたに可愛いお嬢ちゃんのお客さんが来てるよ。あたしんとこで待って貰ってるから、終業したらさっさと戻ってくるんだよ、じゃあね』

 ですが、と続けることすらできず、上村さんはまさに立て板に水とばかりにまくしたてると、一方的に通話は切れてしまった。

 半ば呆然としながら受話器を戻すと、斜め向かいから佐伯が声を掛けてきた。

 「なに?ひょっとして家族でも来たの?」

 「いや、わかんねえけど……とにかく終わったら速攻で帰れってよ」

 そう適当に返しながら、俺は『可愛いお嬢ちゃん』に該当する人間の心当たりを必死で探していた。と、一人だけ思い当たる奴がいたことにようやっと気付いた時には、終業の鐘が辺りに鳴り響いていた。



 ともかく、幸い残業する必要もなくて、さっさと机上を片付けると、俺は慌てて職場を出た。カードリーダーに社員証を通して、通用門に立つ守衛の男性に挨拶を済ませると、何故か同じスピードで隣を歩いている佐伯を振り返る。

 「なんでお前がついてくんだ。別になんもねえぞ」

 「いやー?そんなことねーでしょ」

 にやにやと、まるでチェシャ猫ばりの嫌な笑い方をしている佐伯に、若干イラっとしながらも、俺はますます足を速めた。それになんなくついてきながら、また声を掛けてくる。

 「だってさ、お前難しい顔して考え込んでるかと思えば、急にはっとした顔して慌てて出ていくだろ?なんか面白いことありそうだー、とか俺が思ってもしょーがねーじゃん」

 ……こいつ、とことんいらないところだけ気の回る……

 ともかく、職場と単身寮はまさしく目と鼻の先だ。通用門を出て左手に折れ、二車線の道路を渡れば、すぐ目の前に建っている。

 地味な灰色の、鉄筋五階建てのそれを一瞬見上げた俺は、ちゃっかりとついてきている佐伯を一瞬見やったが、今さら追い返す訳にもいかない。軽く息を吐くと、諦めて中へと足を進めた。

 賃貸にありがちな、両開きのガラス戸を引き開けて入るなり、すぐ右手に寮監室がある。扉に『在室中』の札が下げられているのを認めて、俺は近付くと、拳で二度扉を叩いてから声を掛けた。

 「すみません、倉岡です」

 「ああ、来たね。さっさと入っといで」

 ややドスの効いた声で応答があり、俺はすぐに扉を開けて身体を滑り込ませると、佐伯が入ってくる前にすかさず鍵を閉めた。

 「えー、ちょっとー、締め出しとかひどくなーい?」

 「やかましい!規定通り面会簿でも書いとけ!」

 そう言い捨てて、俺はたたきで靴を脱ぐと、失礼します、と声を掛けて奥へと入った。と、

 「あ、倉岡さん」

 「やっぱりお前か……」

 畳敷きの六畳間、中央にまさしくちゃぶ台、という感じの円卓が置かれている部屋に、妙にしっくり馴染んだ感じで、制服姿の歌が座っていた。その横に、寮監のおばちゃん、上村さんが並んで座っていて、どうやら揃ってお茶を飲んでいたらしい。

 短い半白の髪を軽く振りながら、上村さんは深々と俺に頷いてみせると、

 「歌ちゃんは、若いのになかなか良い子じゃないか。今時、親御さんの手伝いで配達をしてるだなんて、そうそう出来ることじゃないよ」

 ……なんでもう『歌ちゃん』なんだ。そりゃ、孫くらいの歳だとは思うけど。

 ともかく、俺は曖昧に返事を返すと、歌に向き直った。

 「わざわざ届けに来てくれたのか?取りに行くって言っといたのに」

 「うん、でもついでがあったから。それに、出来ました、ってメールで知らせようって思ったら、なんか届かなくて」

 「届かねえって……もうスマホも復旧したんだけどな」

 向かいに腰を下ろし、見てみると、確かに言う通り、それらしいものは届いていない。念のため、アドレスを表示して見せると、歌はしばらく画面を見つめていたが、

 「……ごめん、一文字、スペル間違えてた」

 ちょっと情けなさそうに眉を下げて、うなだれる。

 なんとなくしゅんとした犬みたいだな、と考えていると、玄関に面したガラスの小窓ががらりと開いて、佐伯が顔を出してきた。

 「おーい、ちゃんと面会簿書いたよー、入れてくれよー」

 「ああもう、うるさいね、ちょっと待ってな!」

 遮るように上村さんが立ち上がると、そちらへ向かう。歌は、俺に顔を戻すと、当然の疑問を投げてきた。

 「同僚の人?」

 「同期。ここに客ってのが珍しいからって、ついてきやがったんだ」

 「入るの、厳しいの?上村さん、説明したらすんなり入れてくれたんだけど」

 「ここは男ばっかりだからな。お前みたいな若い子がうろうろしてたらまずいだろ」

 「え、男子寮なの?」

 「いいや。でも実質そうなってる」

 職場恋愛なり結婚については結構オープンな会社だから、女子が入ってきてもさっさと結婚して、家族用社宅に移るか引っ越すかのパターンが多い。そんなわけで、余った男がここに積もってくる、ということだ。……まあ、俺もその一人になるわけだが。

 そんな余談はともかく、俺は歌の持ってきた袋を受け取ると、中を確かめた。

 「お、綺麗に直ってる。凄いな」

 出てきたシャツは、本気で感心するレベルだった。おそらく転がっている間に踏みつぶしたんだろう、草の汁に汚れていたシミは綺麗に取れているし、派手にちぎれ飛んでいたボタンも、多少色は異なるものの、揃いのものに全て取り換えられていた。

 皺ひとつないそれを袋にしまうと、俺はじっとこちらを見つめている歌に尋ねた。

 「有難うな。それで、いくらになるんだ?料金表とかあるか?」

 「ある。これ」

 ちゃんと言い含められて来たのか、すぐさま脇に置いていた布製の鞄から取り出すと、小さな紙を渡してきた。俺はざっとそれに目を通すと、料金を告げた。

 「それ、多い。そんなに手間もかかってないし」

 「洗濯代に、配達料も含んだつもりだったんだけどな。だめか?」

 「勝手に来ちゃっただけだから、だめ。定期もあるし」

 「定期って……」

 そう言われて、俺はあらためて歌の着ている制服を見やった。要するにセーラー服で、ベースは白、襟は紺、二本の白いラインが入っていて、白のスカーフを付けている。

 そこまで見たところで、俺はやっと思い出した。

 「ああ、お前、隣の高校の生徒か!」

 「……今、気が付いたの?」

 「駅の方に行かねえと、その制服も見ないからな」

 少し呆れたように歌に言われて、俺は言い訳めいた答えを返した。

 隣、というのは、俺の勤務先の敷地の隣、という意味だ。冶金を主としている工場に、社屋、社員用の駐車場、運動場などの他、本社だけあってかなりの面積がある。

 俺が普段詰めているのは、高校のある方角とは丁度反対になるから、こちらから見えることはないが。

 「お前こそ、俺の住所見ても全然ピンと来てなかっただろうが」

 「だって、こっちの方には普段来ないから。おかげで、ちょっと迷った」

 「はあ?学校からならマジですぐだろ、どうやって迷うんだ」

 「……多分、角、曲がるの間違えたと、思う」

 ……ひょっとして、方向音痴か?

 俯きながらだんだんと小声になったところを見ると、それなりに気にしているらしい。俺はそこで追及するのを止めて、財布を取り出すと、既定の料金を手渡した。

 「毎度有難う御座います。それでは、これ、領収書です」

 律儀に頭を下げると、既に用意してあったらしい名前入りの領収書を差し出してくる。礼を言って受け取ると、俺は壁掛時計を見上げて立ち上がった。同じように慌てて動いた歌に顔を向けると、

 「駅まで送る。この時間だと、もう人通りも少ないしな」

 「え、でも」

 「そうしてもらいな」

 戻ってきた上村さんがそう言うのに、歌は戸惑ったように俺を見上げてきたが、

 「うーえーむーらーさーん!なんで俺だけ入れてくんないんですかー、せっかく貴重な女子高生との触れ合いのチャンスがー!」

 「あんなのがいるからね、危なくってしょうがない……ってのはともかく、年頃の娘は何があるか分からないんだから、ちゃんと気を付けないといけないよ」

 「……分かりました」

 眉を顰めてきっぱりと言い切った上村さんの言葉に、心底納得したように頷いてから、歌は少し小首を傾げて、まだ何やら騒いでいる佐伯の方を見やっていた。



 それから、なんとかうるさい佐伯を黙らせて。

 俺は歌と並んで、駅までの緩い坂道をのんびりと下っていた。この辺りはいわゆる工業団地の一角だから、まだ明るいものの人気は多くはない。

 「荷物、持たなくていいのか?」

 やけに大きい紙袋を下げているのに俺が声を掛けると、歌はひょい、とばかりにそれを肩の高さまで持ち上げてみせた。

 「大丈夫、軽い。鞄は大きいけど、入ってるのは布とかだから」

 「布?そういや、今日はなんで学校に来てたんだ?」

 一応夏休みだろ、と言うと、歌は小さく頷いて、

 「部活、手芸部なんだけど、三年だから、後輩の指導とかもあるの」

 「ああ、それでか。受験生だってのに、まだ引退じゃないんだな」

 「文化祭で引退、っていうことになってるから。それに大学に行くわけじゃないから、凄く忙しいわけじゃないし」

 「そうか。じゃあ、就職組か、専門組か?」

 「専門組。被服関係」

 「なるほど。一貫してんな」

 そんな風に、色々と話を聞いていくと、八月後半に体験入学に行き、実際に服を一から十まで作ったりするらしい。雑巾すらまともに縫えない俺には、まるきり未知の世界だ。

 「それで、あのパンツなんだけど……ちょっと時間貰っていい?」

 「そりゃ構わねえけど。っていうか、別に俺が使うようなもんにしなくてもいいから、好きなようにしてくれればいいぜ」

 「うん、それもどうするかは、まだ考えてるんだけど」

 なんでも、これから十月半ばの文化祭に出展する作品制作と、他の部員の指導、さらに十二月上旬に専門学校の試験で提出する作品の構想を練らなければならないらしい。結構、大変そうだ。

 「それなら、何よりそっちを優先しろよ。一生の話だろ」

 どことなくすまなさそうにしている歌にそう言うと、驚いたように顔を上げて、

 「分かった。有難う」

 「……どういたしまして」

 やけに嬉しそうに笑うのに、少しむず痒い心地になる。……なんか、調子狂うな。

 やがて駅が近くなり、坂道も終盤に差し掛かると、さすがに店も人通りも増えてくる。同じ制服姿もちらほらと見受けられ、このへんまでで大丈夫か、と首を巡らせると、あるものが目に入った。

 「ちょっと、ここで待っててくれるか?」

 「?うん」

 唐突な頼みに、不思議そうにしながらも頷いた歌をその場に置いて、俺は少し先の道路脇に止まっていた車に近付いた。荷台に山と積まれた色とりどりの商品の中から、手頃なものをひとつ選ぶと、手提げに入れてもらう。

 それから、妙にきちんとした姿勢で待っている歌の元に戻ると、それを差し出した。

 「これ、やるよ。好みかどうかはわかんねえけど」

 礼のつもりで買ったのは、小さな花束だった。ガーベラくらいしか正直分からないが、ピンクや赤や、白のふわふわが入り混じったそれが、なんとなく似合う気がして。

 俺の勢いに押されるように受け取った歌は、手渡したものを見下ろして、しばらくじっとしていたが、

 「……私、誕生日、言ってないよね?」

 「いや、聞いてねえけど」

 おそるおそる、といった様子で見上げてくるのに、ふとあることを思い出す。

 そういやこの間、流れで八月、って言ってたな……まさか。

 「今日か?」

 そう尋ねると、歌は無言で頷いた。

 「マジか!?なら、もっといいもんやれば良かったな」

 「ううん、いい。これで十分、嬉しい」

 さすがに驚いて声を高くした俺に、歌は首を横に振って。

 小さなそれを、大事そうに両手で抱えるようにして、柔らかく笑った。



 それから、改札で別れて、同じ坂を引き返し始めて、すぐ。

 「……佐伯か、うるせえな」

 緊急でないならメール連絡でいいものを、わざわざ電話を掛けてくる奴の心当たりなど、一人しかいない。ポケットに突っ込んでいたスマホがしつこいほど震えるのに、俺は仕方なくロックを解除した。

 『あ、倉岡ー、女子高生とデート済んだ?』

 「デートじゃねえ。危ねえから送ってきただけだ」

 『えー、それだけであのプレゼントはないでしょー、どういう関係?』

 ……どっから見てやがった、この野郎。

 タイミングの良すぎる電話に気付くべきだった、と顔を上げれば、通りを挟んで向かい、電柱の陰からにこやかに手を振っている同僚を、俺は眉を寄せて睨み付けた。

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