三月
卒業式
自分の高校の卒業式はといえば、五年という長さだったし、それなりに楽しんだから、感慨はあったものの、先に待つ漠然とした不安や期待が入り混じって、複雑な思いだった。
だから、歌のそれは、遠く流れてくる音楽や声を耳にしながら、静かに懐かしく思い返せるだろう、などと思っていたのだが、
「倉岡ー、もう親父さんシミュレート完璧ー?」
「あのな、質疑応答の想定なんか出来る内容じゃねえだろ……」
常のごとく軽い調子で佐伯が聞いてくるのに、事務室のある三階から、エレベーターに乗り込んでしまうと、眉を思い切り寄せて俺は答えた。
月開け、三月一日。今日は、歌の高校の卒業式だった。
当然ながら俺は仕事だし、式自体には、施設の収容数もあるだろうが、参列が許されるのは親族のみだから、二日後の土曜日に会う時に、個人的に祝うことにしていた。
ところが、昼休みに届いた謡介さんからのメールで、俺にとっては完全にイレギュラーな事態が起こったのだ。
たまには社食で、と、珍しく瀬戸と佐伯との意見が一致して、社屋最上階(といっても四階だが)の、それなりに広い食堂に向かって、それぞれに食券を購入して。
スピードも味もまあまあ、な日替わり定食をトレイに乗せて、なんとなく、歌の高校がわずかに見える窓際の席を確保すると、スマホをその脇に置いた。と、
「なになにー、歌ちゃんからのメール待ち?」
「ああ。見計らって送る、って言ってたからな」
オムカレーのいい匂いを振りまきながら、隣に座った佐伯に、俺はそう応じた。
歌は、俺の勤務時間中(昼休みも含む)には、余程のことがない限り、絶対にメールを送ってこない。それも、今までにあったのは、合格発表の報告の時だけで、あとは本当に決まった時間にしか連絡を寄越さないのだ。
まあ、ごくたまに、『少し早く電話してもいい?』と聞かれる時もないわけではないが。
ただ、今日はさすがに特別な日だから、卒業式の写真を送る、と言っていたので、一応すぐに見られるようにこうしているのだが、
「あ、彼女さんですか?いいなあ、ほんと仲良しですよねえ」
そう言いながら、中華そばとミニチャーハンのセットを前に置いた瀬戸が、テーブルに置かれたコショウをこれでもかとばかりに振っている。俺はちょっと呆れ気味に見返すと、
「スープ、なんか真っ白になってんぞ。大丈夫か?」
「そうそう、そのせいでお前彼女にドン引きされたー、とかこないだ言ってたじゃん」
「いいんです!ちゃんと折衷案を提示して、週一回までならやっていいって決まったんですから!」
……その一回がこれっていうのは、割と問題なんじゃねえのか?
鼻がむず痒くなりそうな光景から、俺はさりげなく目をそらすと、瀬戸に尋ねた。
「けど、そういう話が出るってことは、お前の方も上手くいってるんだろ?」
「ええ、まあ……ただ、まだお友達状態ではあるんですけど」
さっきのテンションからはかなり下がった表情で、瀬戸はわずかに頬を赤くした。
それでも、だいたい週に二回ペースで昼飯を一緒に、これまでに一回晩飯と飲み、それとは別に二度ほどデート、とこなしているらしい。聞く限りでは、順調なようだ。
「瀬戸っちにしてはなかなかやるじゃん。けど、スローペースに過ぎて、気が付いたらずーっとお友達、もあり得るかもしんないぞー留意せよー」
「怖いこと言わないでくださいよ……それに、外堀先に埋めにかかるより、彼女の心を先に貰えないと、どうしようもないじゃないですか」
だから、僕は長期戦も覚悟なんです、と佐伯に返した瀬戸の言葉に、何か引っかかりを覚えた途端、スマホが短い着信音を鳴らした。と、即座に佐伯が反応して、
「ん、歌ちゃん?」
「いや、違う」
歌が俺の着信音を個別設定しているのに気付いて、俺も分かりやすいようにこの間からそうしている。この音は、それ以外の全員に設定しているものだ。
ともかく取り上げてみると、液晶に表示された名前は意外なものだった。
「謡介さん?珍しいな」
「卒業式に出てたんだから、それこそ写真でもくれたんじゃないの?」
「いや、親父さんが帰ってこれることになったから、出席はキャンセルのはずなんだ」
そう応じながら、メールを開いて、ざっと目を通す。
From:深山謡介
Title:悪いんだけど
倉岡さん、今晩残業の予定とかある?
実は、卒業式が終わって、皆もう帰って
きたんだけど、父が、ずっと歌と二人で
話し込んでたんだよ。
どうも、正式にお付き合いしてる、って
聞いたんで、出来たら一度、倉岡さんと
話したい、って言ってて。
ただ、父は今晩には赴任先に戻らないと
いけないから、電話しても構わないか、
って尋ねておいてくれって言われてさ。
ちなみに、このことは、歌は知らない。
お互いにプレッシャーにならないように、
とは思ってるみたいだ。
まあ、本音は、歌に怒られるかも、って
気にしてるだけだと思うけどね。
ほんとに、ごめん。
また、母も全然止めないんだよね……
『あら、いい機会じゃない』って。
それでは、連絡お待ちしてます。
最後まで読み切るのに、ほんの数秒しかかからなかったはずだが、その倍以上の時間、俺は文面を凝視していた。
そんな様子に気付いた瀬戸と佐伯が、それぞれに左右から声を掛けてきた。
「倉岡さん、大丈夫ですか?」
「しかもまばたき止まってるし。ドライアイになっちゃうぞー」
佐伯に目の前で手を振られて、ようやく膠着状態から回復した俺は、無言で腕の時計を確認した。幸い、まだ昼休み終了までは二十五分はある。
既に飯のことなど頭から吹っ飛んでいたので、先に了承の旨を簡単に返してしまうと、即座に返ってきたメールで、細かい時間などを調整する。
と、その合間に、やっと歌からのメールが飛んできた。
From:深山歌
Title:無事に終わりました。
天気も良くて穏やかで、いい式でした。
卒業証書授与は、クラス代表だけだけど、
その時に全員で舞台に上がるので、結構
盛り上がりました。
最後に、皆で文化祭の時のエプロンつけて、
記念写真を撮ってきたので、送ります。
手芸部のみんなも、先生も見送ってくれて、
里沙と一緒に、ちょっと泣いちゃったけど、
三年間、凄く楽しかった。
また今度、五月の連休にクラス会の予定。
皆、その頃にはどんな風になってるのかな。
これから、家族で父を見送りに行ってきます。
やっぱり号泣してたけど、やっと落ち着いた
みたい。目はまだ赤いけど。
あと、倉岡さんのことを色々聞かれたので、
正直に答えました。
また、それは会った時に話します。
それでは、行ってきます。
お仕事、頑張ってください。
それぞれに思い思いのポーズを取っている、カラフルな四色の群れの中から、自分でも驚くほどにあっさりと歌を見つけ出すと、一旦メールを閉じる。と、
「倉岡ー、あと十五分なんだけどー。マジで平気?」
「……なんとかな。悪い」
さすがに何事か察したのか、珍しく案じるように声を掛けてきた佐伯にそう答えると、すっかり冷めてしまった豚の生姜焼きを、半ば無理矢理に口に押し込んで咀嚼する。
心配そうに見てくる瀬戸の視線を頬に感じながら、俺はひたすらにどうしたもんか、と考えを巡らせていた。
とはいえ、佐伯に返した通り、何を話したいのかが分からない以上、対策も何もあったものではない。それに、最初は成り行きだったとはいえ、既に他の家族とは、付き合いもあるわけだから、いずれにせよ、一度顔を合わせておいた方がいいとは思っていた。
確かに瑞枝さんの言う通り、声だけとはいえいい機会、ではあるわけで。
そんなことを話しながら、さっさと帰るべく並んで正門へと向かっていると、また謡介さんからメールがやってきた。
「ひょっとして、なんか続報?」
「一応な。時間、七時頃にあちらから、ってことになった」
「あー、まあ、早い方がいいよなー。ぶっちゃけそれまで落ち着かないだろうし?」
「……お前は、相変わらず楽しそうだな」
ため息を吐きながら正門を出て、にやにやと笑っている佐伯にそう言うと、一向に悪びれる様子もなく、気楽な声が返ってきた。
「だってさー、同期でここまで進展してる状況って久し振りじゃん。あ、藤林と水島、こないだお前の現況話したら、呪ってやるくらいの勢いで羨ましがられてたぞー」
「知ってる。直接連絡も来たからな」
そのうち紹介しろ、とも言われたが、もちろん丁重に断った。佐伯一人ですらこの有り様なのに、これ以上突っ込まれる相手が増えるなど、まっぴらだ。
そのまま歩いて、何故か寮の玄関までついてきた佐伯は、上村さんと話あるからー、と言って、『外出中』の札が掛かっている、寮監室の扉の前で足を止めると、
「ま、あんまり気負わなくてもいんじゃね?どうせお前、何言われようが心変わりとかしないんでしょ」
「当たり前だろ」
反射的に即答すると、佐伯は瞬時に口角を上げて、チェシャ猫めいた笑みを浮かべた。しまった、と思う間もなく、取り出されたスマホがシャッター音を鳴らす。と、
「赤面画像いただきましたー!さっそく卒業祝いに歌ちゃんに送っといてやろーっと」
「止めろ、この阿呆!だいたいそんなもん祝いになるか!」
「えー、結構喜びの声が続々と届いてるのにー」
「はあ!?どれだけ送ってんだお前!」
思わずスマホを取り上げようともみ合っている間に、買い物から帰ってきた上村さんに、俺と佐伯はこっぴどく叱られた上、廊下の蛍光灯の取り換えを言いつけられてしまった。
それから、部屋に帰り、まるで禊のように風呂を済ませ、軽くあるものを腹に入れて。
パソコンを立ち上げて、歌と謡介さんから送られてきた画像を見ながら、落ち着かなく過ごしていると、ようやく着信音が響いた。
前もって登録しておいた番号と名前が表示されて、俺は浅く息を吸い込むと、三回目のコール途中で通話ボタンを押した。と、
「はい、倉岡です」
短く応答すると、数拍を置いてから、やや低音の、落ち着いた声が耳に届いた。
『初めまして、歌の父の、深山惣一と申します。突然にこんなことをお願いして、誠に申し訳ない』
「いえ、こちらこそ、お疲れのところわざわざお電話までいただいて申し訳ありません」
本当に謡介さんの声と似てるな、と頭の隅で思いながら、これまでに挨拶も出来ていなかったことを詫び、あちらから多忙なので、と恐縮されて、互いに一通りの礼を返す。
と、惣一さんは、軽く息をつくと、短く笑い声を上げて、
『いや、すみません。年甲斐もなく緊張していたものだから、いい方そうだ、と思った途端、どうにも気が緩んでしまって』
「気を張っていたのは、私もです。正直なところ、こういったことが初めてなもので」
『お互い様、ということですね』
どこか嬉しそうな声に少しだけ気が緩んだ時、ところで、と低く切り出されて、思わず姿勢を正すと、
『家内にも息子にも、それにもちろん娘にも、貴方がどういう方かを聞かされていたんです。そして、今日はやっと、歌の気持ちもきちんと聞けて……そうしたら、どうしても、倉岡さん自身の言葉が聞きたくなってしまいまして』
「私の言葉、ですか?」
『ええ。あの子は、この上なく貴方のことを慕っています』
穏やかに断言されて、歌のやつ、親父さんに何を言ったんだ、と一人赤くなっていると、惣一さんは静かに言葉を継いだ。
『だから、というのではありませんが……貴方は、歌のことをどう思っていらっしゃるのか、この際、是非ともお聞かせ願いたい』
一人娘の父親として当然の要求に、覚悟はしていたはずなのに、やはり動揺が走る。
空いた手で、意味もなく拳を作ると、我ながら情けない声を漏らした。
「申し訳ありません。少しだけ、落ち着かせてもらっても宜しいですか」
『ええ。構いませんよ』
わずかに笑みを含んだ声に、すみません、と赤面しながら、どうにか呼吸を整える。
どう伝えたものかと、さまざまな思いが交錯するものの、結局のところ、いくら探したところで、酷く端的な言葉しか浮かんでこなかった。だから、
「……彼女に、惚れています。それと、これからもずっと、傍にいたいと思っています」
心も、望むことも、全てそれに尽きる。
決して我儘にならないように、互いの心を汲みながら、当たり前のように、隣で。
一息のうちにどうにか告げてしまうと、しばらくの間、沈黙だけが返ってきていたが、不意に低い笑い声が耳元で弾けた。と、
『よく分かりました。それに、よく言って下さった』
どうも有難う、と嬉しそうに言われて、俺が一頻り恐縮していると、惣一さんは深々と長い息を吐き出して、
『いやあ……本当にほっとした。歌はね、今も家内に似て可愛いんですが、小さい頃もそれはもう愛らしくて……お父さんのお嫁さんになる!って言ってくれて……』
言いながら、感極まったのか、段々と涙声になってくるのに俺が驚いていると、
『それが……それがこんなに大きくなって……!こんなにしっかりした方とお付き合いだなんて、もう思い残すことは……!いや、歌の花嫁姿、いやいや、孫の顔を瑞枝さんと一緒に見るまでは、頑張って生き延びないと!』
時折、鼻を豪快にすする音混じりに、滔々と『娘への思い』を止められない勢いで話す惣一さんに、結局、俺はその後半時間ほど付き合わされることになった。
ようやく、次回こちらに戻ってきた時に、一度飲みに行く旨約束をして、通話を切って。
すっかり気力を消耗して、スマホを放り出したまましばらく突っ伏していたら、どうも謡介さんが悟られたのか、歌から俺を案じるメールが届いた。
……直に会ってもあのノリかどうか、歌に確認しとくか。
相当慌てた様子の文面を見ながら苦笑を漏らすと、なんて話すかな、と考えて。
つい先刻、惣一さんに言ったことをふと思い出して、俺は赤くなると、一人頭を掻いた。
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