マフラー

 微かに漂う、花のような香りに、一息の内に取り巻かれる。

 肩に置かれている歌の手の感触と、耳元に伝わる熱の正体にようやく気付いた時には、するりと、それが離されていって。

 「……困らせて、ごめん」

 真っ直ぐに俺を見上げてくると、細い声で、それだけを告げてきた。

 それから、雪だるまのぬいぐるみを俺の手から取り上げると、両手に抱えてしまう。

 言葉の意味を頭が理解する前に、俯いたまま身を引いた歌は、踵を返すと、走り出した。

 上下に跳ねるオレンジのフードが、やけに鮮明に、瞳に焼き付くようで。

 一瞬、馬鹿みたいにぼうっと突っ立ったまま、俺はそれを見送っていたが、じきに我に返ると、

 「……おい、待て、歌!」

 自分でも驚くほどの声で名前を呼ぶと、それが届いたのか、足を止めた歌が振り返る。

 戸惑ったようにこちらを窺っているのに、ようやく身体が動いた。

 まだ、さほど距離が離れていなかったおかげで、息が切れる前に追いついてしまうと、正面から顔を見据えて、

 「……言いっぱなしでどっか行くな、頼むから。あと、謝んな」

 強い口調でそう言うと、歌は俺を見つめてから、何か言おうとして唇を開きかける。

 それを止めるように、腕を伸ばすと、指先で頬に触れた。

 ひんやりとしたそれが、妙に目を覚まさせる気がして、そのまま一撫ですると、

 「それと、ここからいなくなんな」

 「……それ、どういう」

 さすがに困惑したような表情になった歌に尋ねられて、俺は言葉を探した。

 メールのやりとりも、自分から誘った意味も、誘われてここに来た意味も、何もかも。

 結局のところ、何よりも、自身がそうしたかっただけのことで。

 そう思い至って、静かに答えを待っている歌の目を見返すと、


 「だから……その、傍にいてくれ」


 開いた口から、勝手に転がり落ちるように、望んでいたことが零れて。

 言ってしまった直後に、その意味をあらためて気付かされて、思わず手を引いて、顔を押さえる。と、

 「……倉岡さんが、赤くなるの、ずるい」

 消え入りそうな声でそう言った歌が、抱き締めるようにぬいぐるみに顔を埋める。

 そのせいでどんな表情かは見えないが、首筋も耳の先までも、どうしようもなく赤くて。

 初めて見る姿を、どうにも持て余してしまうような心地で、意味もなく頭を掻くと、

 「仕方ないだろ。言い慣れないこと言っちまったんだから」

 「……それは、そう思う」

 まだ、雪だるまを抱いたまま、少し顔を上げて、深々と頷いてみせる。

 その仕草が、妙に、何か。

 まずいことに、可愛い、という単語しか、それを表す言葉が思い当たらなくて。

 なんとなしに余計なトリガーを引かれた気がして、俺は無言でぬいぐるみをむしり取ると、紙袋を手にした方の、右の肩に乗せてしまった。

 それから、空いた手で半ば無理矢理に歌の手を取ると、ゲートに向けて歩き始める。

 もう、あんな風に逃げられるのは、まっぴらだ。

 いきなりのことに驚いたのか、されるままになりながら、歌は俺の手を握り締めると、

 「倉岡さん、荷物、持つ」

 「いい。重くねえ」

 「でも、バッグもあるし、持ちにくいから」

 「お前がくれたんだろ。持たせられるか」

 一生懸命にそう言ってくるのをことごとく断ってしまうと、手が出せないように紙袋を持った腕を、さらに高々と上げる。

 ……そういや、貰っといて、まだ中身すら見てねえんだった。

 この軽さからしても、十中八九、歌が作ってくれたものだとは思うが、そう考えると、やけに照れくさい。

 浮かんでいる複雑な表情をこれ以上見られないように、俺は歌からわざと顔をそらしたまま、ことさらに足を速めた。



 それから、手を離さないまま、駅まで歩いて。

 ほどなくやってきた快速に乗ると、運よく二人掛けの席を確保できた。

 歌を窓側の席に座らせると、かさばるぬいぐるみを網棚に上げて、俺も席に着く。

 携帯を鞄から取り出していた歌が、すぐに俺の方を向いてくると、

 「有難う、倉岡さん」

 「ああ。メールか?」

 「うん、兄さんから。これから帰る、って返してたの」

 「そういや、謡介さん、今日はどうしてるんだ?」

 歌もそうだが、こういうイベント事をまめにやりそうだし、特にクリスマスにまつわる料理などは、嬉々として準備しそうな気がするのだが。

 そう聞いてみると、歌は小さく笑って、

 「今年は、おはぎとクリスマス」

 はい、と差し出して来た携帯を見てみると、そこに写っていたのは、クリスマス仕様のおはぎだった。背中に大きなツリーが編み込まれているベストに、首にはリースのついたチョーカーを巻いた姿で、その横では、謡介さんが何故か体育座りで手を振っている。

 ……これは、こうしないと一緒にフレームに入らなかったんだな、多分。

 そんなことを思いながら、俺は気になったことを尋ねてみた。

 「ひょっとして、マジで一人か?瑞枝さんはどうしたんだ?」

 「お母さんは、金曜の午後からお父さんのところに行ってる。せっかくお休みだから、二人でデートしてくる、って」

 聞けば、仕事納めまでは特に繁忙で、日曜しか休める時がないとのことで。

 単身赴任先の物件は賃貸なので、泊まることも出来るそうで、都合の付けやすい仕事を幸いに、時折こうして親父さんの元に世話をしに行っているらしい。そういったわけで、明日、瑞枝さんが帰ってきてから、あらためてパーティをやるそうだ。

 「しかし、親父さん、気の毒だな」

 「今が二年目で、あと二年の我慢だってよく言ってる。お盆とお正月は、絶対に帰ってくるんだけど」

 「大変だな……まあ、とにかく俺も連絡しとくか」

 そう返すと、俺は腕の時計を確認した。まだ、午後八時十三分だ。

 歌の門限は、驚いたことに特にないそうだが、仮にも未成年を夜中まで連れ回すような真似はできない。これなら九時過ぎには駅に着くな、と安心して、スマホを取り出した。

 とり急ぎ、謡介さん宛てに今日のチケットの礼と、家まで責任を持って送り届ける旨を簡単に連絡していると、ふいに肩に重みがかかった。

 顔を向けると、目を伏せた歌が、俺に寄り掛かってきていた。さすがに半日もみっちり動き回ったせいで、眠くなったんだろう。

 電車の規則的な揺れに合わせて、窓際の方へと身体を戻されそうになるのを、肩に腕を回して引き寄せる。既に眠りが深いのか、その動きにも目を覚ます様子もない。

 寝やすいように身体を傾け、肩に頭をもたせかけてやると、俺も深く座席に掛け直した。

 その動きにつれて、膝に置いていた紙袋が、かさりと音を立てる。

 俺は深い緑のそれを開けると、中のものを取り出してみた。

 出てきたのは、艶のある青いリボンが結んである、何か紙めいた柔らかい素材の白い袋だった。リボンを解き、手を差し入れてみると、ふんわりとした感触が指に伝わってくる。

 「……マフラーか」

 解いた包みを放り込んだ紙袋を、足元に置いてしまうと、試しに巻いてみることにした。

 首を傾け、歌が起きないように気を付けながら、ぐるりと一巻きする。

 やや濃いグレーで、全体に縄目のような模様が編み込まれてはいるが、うるさくもなくシンプルだ。そして、予想通りというか、タグも何もついていない。

 実のところ、単身寮に入ってからは一本も持っていない。高校は自転車通学だったから、いわば必須だったが、特に今は、通勤時間からしても必要ないほどだからだ。

 思った以上の肌触りの良さに、これなら、付けて行ってもいいかもな、と考えていた時、カーブに差し掛かったせいか、車体が大きく傾いた。

 遠心力に引っ張られて、ぐん、と歌の身体が窓の方へと振られる。ぶつかる、と思った瞬間、俺はとっさに身をひねると、腕を差し出して頭をガードした。

 それでも、それなりの衝撃があったのか、歌が小さく声を上げて、薄く目を開けた。

 「……倉岡さん?」

 まだ寝惚けているような、どこか甘さを含んだような声で、呼んでくる。

 その様子に、なんともなかったか、と息をつくと、肩を掴んで座り直させる。すると、幾度もまばたきを繰り返していた歌が、ようやく焦点が合ったのか、さっと頬を染めた。

 「……ごめん」

 「……いや、こっちこそ」

 今更ながら、わざとではないにせよ近付き過ぎていたことに気付かされて、互いに謝りながら、席に戻る。


 ……なんか、やりにくいな。

 今までと、どうにも距離感が違うというか。


 自分であんなことを言っておいて、とは思うが、すぐに切り替えが効くわけでもない。些細なことでいちいちうろたえて、ガキか、と我ながら呆れていると、

 「あ、それ」

 歌の声に顔を向けると、俺の首元を驚いたように見ている。

 そうだった、と巻いたままのそれを見下ろして、手をやると、

 「良く出来てんな。あー……有難うな」

 どうしようもなく気恥ずかしさが沸き上がるのを抑えながら、どうにかそう伝えると、歌が目を見張って。

 「……うん」

 それから、小さく頷くと、酷く嬉しそうに笑った。

 思いつきで花をやった時も、確かこんな風に、柔らかい笑みを返してきて。

 佐伯の指摘もまんざら的外れじゃなかったな、と思いながら、俺は腕を伸ばすと、髪を撫でてやった。



 その後は、歌を送って寮に帰るまで、そのままずっと首に巻いていて。

 翌朝もそうしたところ、上村さんが俺を見るなり、えらく納得したように頷かれて。

 出勤してみれば、更衣室で佐伯に捕まって、即座に見抜かれてしまった。

 ……そんなに分かりやすいのか、俺は。

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