赤い石
十二月も半ばとなると、ボーナスの支給も終わり、どことなく職場全体が浮き足立ってくる。まあ、年末調整が綺麗に終わるまでは、総務と庶務はまだ気が抜けないが、それはそれで毎年のことだ。
そんなどことなく緊張の緩んだ雰囲気の中、俺は机の端に置いたスマホを見つめていた。まだ、昨夜いつものようにメールが来て以来、これまで着信はない。
今日は、十二月十五日。歌の試験結果の発表の日だ。
「倉岡ー、さっきの案件のファイル飛ばしたから見といてー」
「分かった」
佐伯に声を掛けられて、常に起動してあるメーラーを確認して、添付ファイルを開く。先に打ち合わせ済みの案件だから、特に作業内容と受注内容に相違がないか、あらためてチェックしていく。と、
「そういえばさあ、まだ歌ちゃんから連絡ないのー?」
狙いすまして放たれた佐伯のその台詞に、シマ中の視線が一瞬にしてこちらに向けられる。内線で話していた隣席の
俺は眉を寄せると、周囲の反応を黙殺したまま、ファイルの確認を終えると席を立つ。それから、斜め向かいの佐伯の席まで向かうと、ジャケットの襟を掴んで、
「終わった、問題ない。佐伯、休憩行くぞ」
「えー、俺もー?ちょっと待ってー、今の資料主任に転送するからー」
完全に面白がっている口調で、それでも、一瞬でメールを送信した佐伯を引きずって、興味津々、といった風情でこちらを見ていた主任に声を掛けてから、事務室を出る。
廊下の奥に設けられている休憩所で、自販機に硬貨を放り込みながら、俺は言った。
「お前、いい加減わざとらしすぎんぞ」
しかもよりによって、『歌ちゃんから』の部分を強調までしやがって。
コーヒーを手にして、不機嫌を隠さずに睨み付けると、佐伯はいつもの如くへらへらと笑い返してきた。
「だってー、俺も結果は気になるもーん。それにお前こそ、朝からずっとスマホばっか気にしてるくせにー」
「……仕方ねえだろ。あいつ、めちゃくちゃ緊張してたんだから」
まだ開けていないコーヒーの缶を、意味もなく手の中で回しながらそう応じる。
結果は、合否に関わらず郵送で通知されるそうで、明日と分かっていても、どうしても落ち着かない様子だった。試験自体は全力を尽くした、とは言っていたから、俺も合格を祈っといてやる、と返すくらいしか出来なかったのだが。
「でもさー、もう四時過ぎてるじゃん。いくらなんでもそろそろ分かるんじゃないの?」
「まあな。おはぎと瑞枝さんが朝から家で待ち構えてる、とか聞いてるし」
歌の学校は、校内での携帯の使用が禁止されているから、授業中に結果が出たら、謡介さんが俺にも連絡をくれる段取りにはなっている。
とはいえ、もうとっくに放課後のはずだよな……
そう考えた時、ばたばたと何やら忙しない足音が近付いてくる。何事かと顔を向けると、右手で何故か俺のスマホを高々と掲げながら、瀬戸が休憩所に駆け込んできた。
「倉岡さん!えっと、すみません!」
息せき切って言いながら、ぴしりと俺の正面に立つなり、眼鏡が飛びそうな勢いで頭を下げてくると、
「あの、歌ちゃんって子からメール来たみたいなんで、主任が持っていってやれって!見ちゃって申し訳ないです、でもすぐ傍だからどうしても目に入っちゃって!」
と、深々と腰を折った姿勢のまま、真っ直ぐに両手にしたそれを差し出してきた。
俺は頭を抱えたい気分で、うっかりスマホを置いてきたことを心底後悔しながら、声を絞り出した。
「……悪い。瀬戸は気にすんな、その分こいつ締めとくから」
「えー、何気にひっでー。で、結果どうなの?」
佐伯に聞かれるまでもなく、俺はそれを受け取るなり、即座にメールを開いた。
From:深山歌
Title:受かった!
今、お母さんからのメールが届きました。
奨学金も受けられるって!
合格通知、来るのが遅かったみたいで、
帰りの電車の中で、やっと分かったの。
だから、ずっとそわそわしてて、今日の
授業、全然頭に入ってなかった。
昨日は、凄く不安だったのが嘘みたいです。
ずっと相談に乗ってくれて、有難う。
お仕事中なのに、ごめんなさい。
また、夜にメールします。それでは。
「……受かったってよ」
添付されていた、おそらく瑞枝さんが撮ったらしい、合格の文言がはっきりと記載されている画像を見て、深々と安堵の息をつく。
「おー、やったじゃん!じゃあ、俺も上村さんに連絡しとこーっと」
横から覗き込んでいた佐伯が、早速とばかりに電話を掛け始める。
その横で、どうにも立ち去るわけにもいかなかったのか、所在無げに佇んでいた瀬戸が、おそるおそる尋ねてきた。
「えっと……おめでとうございます、で、いいんですか?」
「まあな。ほら、これやるよ」
俺は苦笑を返すと、佐伯のテンションにいささか困惑している様子の瀬戸に、そのまま持っていたコーヒーを手渡した。
それから、終業時間までは、微妙に過ごしにくい時間をどうにかやり過ごして。
寮の自室に着いた時には、心底ほっとした。あのあと、自席に戻りがてら主任に一応の礼を告げに行けば、何やらやたらと嬉しそうな様子で肩を叩かれるわ、シマの連中からは生暖かい視線が飛んでくるわで、さんざんだったからだ。
おまけに、佐伯が親切ごかしに、
『今日はさっさと帰れよー、歌ちゃんが待ってるんだろー』
と、とどめの一撃を食らわしてきた上に、何を思ったのか瀬戸までが気を遣ってきて、週末だというのに、さっさと送り出されてしまった。
まあ、どうせ飲みに行ったところで、落ち着かなかっただろうしな……
いつもなら、帰ると多少は出入りがかち合うはずの寮も、何か静かだった。
確か今日は総務課全体の忘年会だったはずだし、上村さんも元はそちらの畑だったから、当然のように呼ばれていて、寮監室まで早々に灯りが消えていた。
ともかく、早く帰れたのをいいことに、普段通りに飯を作り、風呂に入りとしていると、瞬く間に時間は過ぎていったが、
「……来ねえな」
ふと違和感を覚えて時計を見れば、もう十時を過ぎていた。
おそらく、あの一家のことだから、合格祝いでも盛大にやってもらっているんだろう、とは思う。それでも妙に律儀な性格だから、する、と言ったことを忘れるとは思い難い。
たまにはこっちから連絡するか、と考え始めた時、まるでそれを見透かしたかのようなタイミングで、メールが飛んできた。
From:深山歌
Title:まだ起きてますか?
今から、電話してもいい?
異例の短さと、その内容に俺は戸惑いつつも、すぐさま返事を返した。
To:深山歌
Re:俺から掛ける。
そのまま待ってろ。
間違いなく送信されたことを確認してから、十ほどカウントを終えたあと、即座に言葉通りにする。三度目のコール音の途中で、ようやくふつりと音が途切れた。
「……歌か?どうした」
そう声を掛けたものの、何故か返事は返ってこない。さっきのメールのこともあって、何かあったのか、と心配になりはじめた時、やっと細い声が耳に届いた。
『あの、ごめんなさい。遅くなのに』
普段よりは、えらく力のない声に、それでもほっとしながら俺は応じた。
「どうせ夜中まではいつも起きてるから、気にすんな。それと、良かったな」
『有難う。帰ってきてから、あらためて通知見て、ちゃんとほんとなんだ、って思って』
それから、おはぎを落ち着くまで抱き締めていたこと、後輩と友達にも連絡したこと、学校に連絡したら、先生が声がひっくり返るほど喜んでくれたこと、などを、嬉しそうに話してきた。段々と、声の調子もいつものようになってきたので、内心で息をつく。
「謡介さんと、親父さんも喜んでたろ」
『うん、兄さんは、合格おめでとうってケーキ買ってきてくれて、お父さんは、仕事が終わってすぐに電話がかかってきて、号泣してた』
「……親父さん、お前絡みだとしょっちゅう泣いてないか?」
もちろん、顔を合わせたことは一度もないわけだが、以前にも謡介さんからそんな話を聞いた覚えがある。そう言うと、歌は小さく笑って、
『私が生まれた時も、凄く泣いたって。そこからずっと、だから、お母さんはもう条件反射レベルだ、ってよく言ってる』
「まあ、単純に、お前のことが大事なんだろ」
『……うん、たまに、そう言われる』
凄く照れるけど、と言って、しばらく声が途切れる。
そう言えば、まだ佐伯と上村さんのことを話してなかった、と思い出して、こちらから話を継ごうとした時、
『倉岡さん、あの』
それだけを言って、また沈黙が落ちる。続く声を待ったが、何かためらっているような気配だけが伝わってくる気がして、俺は促すように声を掛けた。
「なんだ?明日はどうせ休みだし、遅くなっても別に支障ねえぞ」
『うん、あの……お願いが、あって』
「お願い?」
少し、声が震えているように聞こえて、思わず眉を寄せる。
それに、こんな風に切り出されるのも、初めてだ。
「ちゃんと合格したんだし、あんまり無茶なことじゃなけりゃ、聞いてやるよ」
どんなことだ、と、なるべく急かさないように尋ねると、
『……再来週の、日曜日』
やっとのことで届いた声に、俺は顔を上げると、壁に貼ってあるカレンダーを見上げた。
今日、十五日の金曜を起点に見ていくと、二十四日だ。
そこに赤で小さく印字されているのは、どう見ても『クリスマスイブ』の文字で。
『あの、デート、してください』
耳に入ってきた短い言葉に、一瞬で混乱させられる。
まさか、そんなストレートな誘いが来るなどとは、予測もしていなかったから、余計に。
俺の沈黙をどう取ったのか、歌が小さく息を呑む音が聞こえて、しばし、
『だめなら、いい。ごめんなさい』
「は!?ちょ、ちょっと待て、まだ何も言ってねえ!」
弱い声で謝られて、慌ててそれを止めたのはいいが、とっさに続く言葉が浮かばない。
なんで、とか、おそらく聞いたところで相手が困るような問いしか出て来なくて、俺はひたすらに焦っていたが、
「……分かった」
結局のところ、そう答えるしかないことに気付いて告げてしまうと、少し間を置いて、小さな声が返ってきた。
『いいの?』
「別に、めちゃくちゃなお願いってわけでもねえからな。行き先にはよるけど」
よく考えてみれば、どうせ、勢いで買ったものも渡さなけりゃならねえし。
今更ながら、みっともなくうろたえた自分が情けなくなって、意味もなく頭を掻くと、
「どこに行くとかは、決まってるのか?」
『うん。兄さんに、遊園地のチケット、貰ったから』
なんでも、勤務先の福利厚生の一環で、そういったものが毎年配られるらしい。しかも俺でも聞いたことのある(行ったことはないが)有名どころだ。少しばかり遠いが。
……それにしても、自分で使わなくてもいいのか、あの人は。
とりあえず当日の詳細は、お互いに色々と調べてから決めることにして、通話を終える。
耳からスマホを離してみれば、無意識のまま余程強く押し付けていたのか、少し痛い。
指先で揉みながら、ふと目を落とすと、まだ、画面には名前が表示されたままで。
衝動的にそれに触れると、もう一度、俺は歌に電話を掛けた。
『……はい、歌です』
今度は、さほど間を置かず答えた声に、俺は言った。
「悪い。さっきのことだけど、頼みがある」
前置きも何もなく投げられた言葉に、歌は戸惑ったように返してきた。
『どんなこと?』
「……前に、お前に預けたやつ、その日に持ってきてくれ」
返してもらって、あれをどうするかなど、まだ分からない。
だけど、もうこいつには、これ以上預けていていいものじゃない。
『……分かった』
小さく頷くような気配とともに、酷くきっぱりとした声が返ってきた。
責任持つ、と俺に言った時の様子を思い出して、まるで同じだな、と苦笑が漏れる。
短く礼を言うと、すぐに電話を切ってから、やけに疲れを覚えて天井を仰いだ。
振り回されてるのは、結局のところ自分のせいだ、ということにあらためて気付いて、俺はひとり顔をしかめた。
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