第38章 冬 紫 霧 無 終 祝

38―1 【冬】


 【冬】、上部の「夂」は編み糸の末端を結びとめた形であり、下部に氷りを加え、「ふゆ」の意味になったとか。


  ♪ 春が来た 春が来た ♪

 こう歌えば誰しも浮き浮きする。

 しかし、高村光太郎、余程【冬】にこだわりがあったのだろう、「冬が来た」と詩を書いた。


   きっぱりと冬が来た

   八つ手の白い花も消え

   公孫樹いちょうの木もほうきになった

   きりきりともみ込むような冬が来た


   人にいやがられる冬

   草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た


   冬よ

   僕に来い、僕に来い

   僕は冬の力、冬は僕の餌食だ


   しみ透れ、つきぬけ

   火事を出せ、雪で埋めろ

   刃物のような冬が来た


 人にいやがられる冬、それを餌食にしてやると、なんと力強い詩だろうか。

 しかし、ちょっと……「火事を出せ」って、おいおい、大丈夫か?


 いずれにしても、寒さは辛い。

 早く ♪ 春が来た 春が来た ♪ と歌いたいものだ。



38―2 【紫】


 【紫】、この字の「糸」の上部の「此」は、人が並ぶ様であり、要はちぐはぐを意味する。

 そのためか、バラバラの赤と青を混ぜ、染めた糸の色。それが【紫】だとか。


 そして万葉の時代から【紫】染めの原料は紫草(ムラサキ)の根だった。その根はまた解熱、解毒の漢方薬として重宝された。


 少しややこしいが、その植物は多年草で、初夏から夏にかけて、白い花を「群がって咲かせる」、だから『ムラサキ』と呼ばれるようになったとか。

 しかし今の時代、自生地はほぼ壊滅し、幻の紫草は絶滅危惧種となっている。


 そんな【紫】の薬草刈りに額田王ぬかたのおおきみは出掛けた。そして、そこで前の夫を見掛け、一句詠った。

 その歌こそが、現代においての万葉集一番人気。

 「茜指す 紫野行き 標野しめの行き 野守は見ずや 君が袖振る」


 元の歌は──

 「茜草指 野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流」

 この「武良前むらさき」だ。

そして、その意味は……そんなに袖を振らないで、今の夫の野守(前夫の兄:天智天皇)が見てるから、と。


 それを受けて、元夫の大海人皇子おおあまのみこは返歌する。

 「紫の 匂へるいもを 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」


 あなたはもう人妻になってしまったが、今も恋してますよ、と。

 【紫】という字、それは万葉のロマンスなのかも知れない。


 しかし、これがドイツとなるとそうでもない。

 【紫】根は「ボラギナーチェ」。それに油脂の「オール」を合わせ、「ボラギノール」となる。


 『ボラギノール』、確かに聞いたことがある。

 そう、痔の薬。

 所変われば、まったく――違った話しとなってしまうのだ。


 一方古代ローマでは、アッキガイ科の巻貝の分泌物・プルプラで作られた染料で【紫】に染めた。

 いわゆる貝紫かいむらさき、英語ではロイヤルパープルと呼ばれている。

 まさに王家の【紫】であり、王家に生まれたことを……「 born in the purple 」という。


 この貝紫、年数を重ねるほどその【紫】はさらに映えてくると言われている。

 まさに吉兆だ。

 そんなこともあり、アレキサンダー大王はこの貝紫を自分だけの色だと決めた。

 またシーザーはこの貝紫のマントを纏い、クレオパトラは艦船の旗を貝紫色にした。


 だが染色方法はフェニキア国の秘伝であり、ローマ人は決して作れなかった。

 その後、染色技法は途絶えてしまい、新たな貝紫の布や織物は長年製作されることはなかった。

 それを再現させたのが宮崎県の綾の手紬染織工房だ。なんと藍染の原理と同様の方式で発色させたのだ。


 こうなれば、貝紫色、やっぱり手にしたくなる。調べてみればネット販売されている。

 王家の【紫】を庶民が纏える、世の中も変わったものだ。


 とにかく【紫】、万葉のロマンスであったり、また痔の薬になったり、その上に、「 born in the purple 」、王家生まれが味わえたり、いやはや――ちぐはぐな漢字なのだ。



38―3 【霧】


 【霧】、「雨」と「務」の組み合わせ。なぜ「務」なのだろう?

「務」は、ほこをあげて、人にせまり、矛を使いこなす意味だとか。

 そして、字の中の「力」はすきの形で、農業につとめることを言うらしい。


 【霧】は以上のような理屈っぽい「務」の上に「雨」。だが、それとは関係なく、音が(ム)ということであり、単に「きり」となったようだ。


 なんだよ、これ! と文句を付けたくなる【霧】だが、そこには哀愁がある。

 特に1960年代、【霧】をテーマにした歌がよく唄われた。

  霧の摩周湖         布施明

  夜霧よ今夜もありがとう   石原裕次郎

  霧のかなたに        黛ジュン

  夜霧のむこうに       西田佐知子

  霧にむせぶ夜        黒木憲

 昭和世代の人たちには懐かしい歌ばかりだ。


 そんな【霧】がよく発生するのが京都の亀岡盆地と九州の湯布院盆地。これが世界ではとなると、ロンドンとサンフランシスコだろう。

 1962年 I Left My Heart In San Francisco

 これはトニー・ベネットの歌、その時の邦題は「霧のサンフランシスコ」


 しかし、今は原題に近い「思い出のサンフランシスコ」となっている。

 ♪ I left my heart in San Francisco

   High on a hill, it calls to me

   To be where little cable cars climb halfway to the stars

   『 The morning fog 』may chill the air, I don't care

   ……♪


 『 The morning fog 』 : 朝霧が冷たいけど、私はかまわないわ

 1960年代の日本人の皆さん、余程【霧】が好きだったのか、この一説から当時の日本人は邦題を「霧のサンフランシスコ」としたようだ。


 そんな【霧】ブーム、また近々に復活して、人たちに哀愁を呼び起こしてくれることだろう。

 こんな予感がするのだが……。

 なぜならば、今の時代が1960年代にどことなく似ているような気がするからだ。



38―4 【無】


 【無】、象形で元々は舞う人の形だとか。

 その舞い始めの時間が止まった瞬間、何もない状態を【無】とも言われている。

 そんな【無】、無理、無駄、無能と多くの熟語を作る。


 だが、その中でも最近気になるのが「無茶苦茶」。

 語源は客が来ても、茶も無く、出てきたとしても苦い茶。

 要は無茶苦茶。


 だったら滅茶苦茶は? これがよくわからない。

 滅びた茶、要は腐ったような茶が出されたのか?


 他に「無味無臭」、この言葉を気に入ってる。

 化学物質では「H2O」、水だ。

 苦過ぎる味と悪臭で生きてきた我が幾星霜。

 残る生涯は無茶苦茶でなく、無味無臭で生きて行きたい。


 そんな【無】に憧れる今日この頃だ。



38―5 【終】


 【終】は、糸の末端を意味する「糸」偏に「冬」。

 その「冬」は四季の「ふゆ」の意味だが、元々は編み糸の末端を結びとめた形だとか。

 いずれにしても、末端末端で、【終】は必然的に「おわり」の意味になったのであろう。


 そんな【終】の熟語で、難解な読みがある。それは「終日」と「終夜」だ。

 「終日」は(しゅうじつ)でもあるが、(ひねもす)と読む。


『春の海 終日ひねもすのたり のたりかな』

 与謝野蕪村の俳句の──ひねもす──だ。


 「終夜」は(しゅうや)だが、(よすが)と読む。

『冬は落葉深く積みて 風吹く終夜よすが 物の囁く音す』

 国木田独歩の「武蔵野」の一節だ。


 【終】は、そんな情緒ある言葉を作る。そして、そんな中でも、最も旅愁を誘う言葉が『終着駅』。

 女優・ジェニファー・ジョーンズと男優・モンゴメリー・クリフトがローマのテルミニ駅を舞台に、ラブストリーを演じた。


 米国人の人妻メァリーはローマで一人の青年のジョヴァンニと恋に落ちる。

 しかし、数日が過ぎ、帰国しなければならない。

 いろいろな騒動が起こった。


 しかし、メァリーは列車に乗って去って行く。

 悲劇を知らずに。

 そして、メァリーの新しい人生のドラマへと。


 この映画の原題は「Stazione Termini」、それを日本語に訳せば「終点」。

 しかし、この映画の内容からして、『終着駅』という言葉が生み出され、邦題として命名された。


 旅の終わりに辿り着く駅、確かにそれは『終着駅』。

 しかし、考えてみれば、それは決して終わりではないように思う。

 そこからまた新しいドラマが始まる『始発駅』なのかも知れない。


 本エッセイの漢字一文字の旅、38章まで至った。

 ひとまず【終】に近付いたが、それはまさに新たな旅への――『始発駅』にしたいものだ。



38―6 【祝】


 【祝】、「示」と「兄」の組み合わせ。

 「示」は神を祭る時に使う祭卓。

 「兄」は頭に祝詞を載せて祭る人のことであり、その役目は長男であったとか。

 これにより祭卓の前で神を祭ることが【祝】だそうな。


 この「漢字一文字の旅」、旅は道連れ、世は情け、みなさまの熱い情けをいただき、ここまでで228の漢字を訪ねる旅を終えることができました。


 気分一新、また漢字一文字の旅に出たいと思います。

 さらなるお付き合いのほどよろしくお願いいたします。


 それでは祝い酒で、神を祭って──【祝】!


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