第29章 得 座 絶 鹿 矢 埋
29―1 【得】
【得】の左の行人偏は「行く」の意味。そして右部は、手の意味のある「寸」に「貝」が乗ってる形だとか。
これらの組み合わせによる意味は、南方へと出掛けて行き、価値ある子安貝(貨幣)を手に入れること。
つまり、ここから「える」の意味になったそうな。
うーん、なるほどと感心してしまう。
さて、この【得】は(とく)と読むが、同じ(とく)でもすぐれた品性を表す「徳」がある。
ちょっとこの二つの関係がややこしい。
店舗に物を買いに行ったら、店主が「これ、おとくですよ」と言い寄ってくる。この(とく)は【得】ではなく、「徳」だ。
要は、「気高き商売をしてます、嘘はついてませんよ」という「お徳」なのだ。本当はお【得】の方が安いようで、思わず買ってしまうと思うが……。
また、「早起きは三文のとく」、これも「徳」が正しい。三文の【得】ではないのだ。
なにか早起きした方が儲かるような気がするが……。
どうも【得】という漢字、いつも暮らしの欲が絡まってしまうようだ。
29―2 【座】
【座】、中の「坐」は裁判を受けるため、神の左右に人が「土」に座る形だとか。そして、それは廟で行われたため、その屋根の形の「广」が被せられたそうな。
こんな【座】、寺院や神社、あるいは権力者の保護を受けた組合を【座】と呼ぶ。
例えば、中世の油商人の組織が「油座」、また青苧商人が結成した座を「青芋座」とした。
そんな閉鎖的で権力的な【座】を打ち破るように、織田信長は安土城城下に商業特区、つまり「楽市楽座」を開いた。
当時としてはなんと斬新なアイデアだっただろうか。
この「楽」という漢字はフリー(自由)という意味であり、要は買う側に対してはフリーマーケット。また売る側に対しては楽座、つまり組織に属す必要はないということなのだ。
そして時を経て、豊臣秀吉は「銀座」を全国展開させた。
秀吉は大坂に
その後、覇権を握った徳川家康は慶長六年(1601年)に京都伏見に「銀座」、貨幣鋳造所を開設した。
その後の慶長十七年、江戸新両替町に「銀座」、貨幣鋳造を開いた。
このように「銀座」の歴史は古い。
また「星座」、なぜ【座】なのだろうか?
かっての中国では北極星が皇帝であり、その周りの家臣たちの位置を【座】と言ったとか。それに見立てて、星の集まりを「星座」と呼ぶようになったそうな。
ことほど左様に、【座】という漢字、いろいろなものを座らせてくれているのだ。
29―3 【絶】
【絶】という漢字、織機の糸を切断する形だとか。そこから「たつ」、「たえる」の意味になったそうな。
また元の色糸の意味もあり、それははなはだ優れていて、そのはなはだの意味を込め「絶妙」という熟語が生まれた。
そんな【絶】だが、「絶望」、「断絶」、「絶命」と悲観的な熟語を多く作る。
そして「絶食」などと、食いしん坊にとっては話題にもしたくないが、4年以上も「絶食」し、頑張ってるヤツがいる。
それは鳥羽水族館に棲むダイオウグソクムシという深海生物。
その姿は、言ってみればダンゴ虫の海底版。掃除屋と呼ばれている。
そんな絶食ヤローに係員が美味いアジを与えても、知らんぷり。こうして4年の歳月が流れてしまったそうな。
こいつ、何が楽しみかは知らないが、とにかく食べることに興味がないのだ。
さぞかしダイエットでスリムだろうと想像するが、ダンゴ虫のように鎧を着ており、誰もそのナイスボディを確認していない。
とにかく【絶】という漢字、「絶食」などと厳しい字だが、これを実行してしまうヤツがいるのだから……。
いずれにしてもダイオウグソクムシを精一杯応援し、【絶】賛してやりたい。
29―4 【鹿】
【鹿】、動物の「しか」を横から見た象形文字だとか。そう言われれば、そのようにも見えてくるから不思議だ。
「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く【鹿】の 声きく時ぞ 秋は悲しき」
そんな【鹿】の鳴き声は穏やかで、哀愁が漂う。そして、【鹿】が鳴くことを「鹿鳴」(ろくめい)と言う。
明治十六年(1883年)、鹿鳴館が落成した。その思いを外務卿の井上馨は宣言した。
「国境の為に限られざるの
ここから鹿鳴館時代が始まった。
毎夜、外国人賓客を招き舞踏会が催された。
そして当然ながらそこには華が咲いた。
鹿鳴館の華と呼ばれた
いずれも美貌の貴婦人たちだった。
その一人の大山捨松は新島八重より15年遅く会津若松で生まれた。幼い時は「さき」と呼ばれていた。
さきが11歳の時、津田うめを含む少女たちと共に、米国へ留学した。その旅立つ時、横浜港まで見送った母が「娘を一度捨てた、だが帰国を待つ(松)」とし、「捨松」と改名させたそうな。
11年間米国に滞在し、勉学に励み、また西洋文化を吸収し帰国した。
その後、参議陸軍卿の伯爵・大山巌と結婚する。披露宴は鹿鳴館で開催され、1,000人の人たちが招待され、それは盛大なものだったとか。
美貌の大山捨末はドイツ語、フランス語、英語に堪能であり、鹿鳴館の華と言われるようになった。
こんな華やかな鹿鳴館、本当のところ外国人にはどのように映っていたのだろうか?
フランスの海軍仕官、ピエール・ロティは後の小説に描写した。
鹿鳴館は温泉町の娯楽場、振る舞いは笑劇、まったく猿真似だ、とまことに辛辣。しかし、どうもその通りのようで、まんざら嘘ではなかったようだ。
明治20年4月20日、時の権力者・伊藤博文は鹿鳴館の横滑りで、首相官邸でファンシー・ボール、つまり仮装舞踏会を開催した。
これに400名が参加し、牛若丸、白拍子、七福神などと着飾って……、とどのつまりが乱痴気騒ぎに。
男たちは酔っ払って服を脱ぎ、女たちは悲鳴を上げて逃げまどう始末。
結果、「某所の宴会」での、「某」と「某候の妻」が……との噂が流れた。
すなわち、伊藤博文が岩倉具視の次女・鹿鳴館の華の戸田極子夫人と仲良くなろうとした、と。
さらに、極子は裸足で逃げ、なんとか無事だったと、こんなスキャンダルを新聞が報じた。
このような目に余る風潮を批判し、「女学雑誌」は社説で、鹿鳴館は「姦淫の空気」と断じた。
いやはや【鹿】という漢字、本来は――「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 【鹿】ぞ鳴くなる」と趣のある漢字だが、それ以来、全国の【鹿】が怒ってるとか。
29―5 【矢】
【矢】、まさに矢の形だ。
【矢】は神聖なものであり、誓約の時に矢が使われるため、「矢う」(ちかう)とも読まれる。
また音読みでは(シ)、誓う言葉は「矢言」(しげん)、流れる矢は「流矢」(りゅうし)という。
さてさて、時代は「今でしょ」のアベノミクス。
(1)大胆な金融政策、(2)機動的な財政政策、(3)民間投資を喚起する成長戦略
これらが3本の矢だという。
元々3本の【矢】は
矢1本なら1人の力で折れる。だが3本となれば折れない。従って3人で力を合わせれば強い、という息子たちへの教え。
だが、この伝説は後から作られたものだとされている。
それ以外に、実は3本の矢はバキッと折れてしまった、という説もある。
それは、3人協力し合っても、折れる時は折れるものだという悲観的な教訓となっている。
いずれにしてもアベノミクスの3本の【矢】、折れないことを祈るが、毛利元就の【矢】も含めて、真実はたった一つなのだ。
そう、いつの世も、光陰【矢】の如しなり……なのだ。
29―6 【埋】
【埋】、元の字は草冠に「狸」の「薶」で、
そんな【埋】、なにも埋めるものは犠牲だけではない。
黄金を埋めたものが、埋蔵金。
武田信玄、明智光秀、豊臣秀吉の埋蔵金といろいろとあるが、やっぱり最も有名なのが徳川埋蔵金だろう。
江戸城は1868年4月に無血開城となった。
明治新政府は幕府御用金を資金にしようと目論んでいたが、城内の蔵を空っぽ。
新政府は諦めが付かない。そこから御用金探しが始まったのだ。
候補地は日光、赤城山、足尾銅山と一杯あるが、今も見付かってない。
だが、
♪ かごめかごめ
夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ? ♪
この歌の中にヒントがあるとか。
かごめは籠の目で、
徳川が建てた神社仏閣は、江戸/駿府/土岐/明智/佐渡/日光。これらを結べば、六芒星形。
その中心が、日光東照宮。
そして、そこにあるのが鶴と亀の像。
♪ 夜明けの晩に ♪
つまり、それに朝陽が当たった時に伸びた影の先に、見ざる言わざる聞かざるの猿の彫刻がある。
その猿たちの視線の先にあるのが眠り猫の像。さらに、その先の階段を登り行くと――徳川家康の墓がある。
♪ 後ろの正面だあれ ♪
墓の後に、「下」を意味する暗号が刻まれてある。
ヤッター! ついにわかったぞ!
徳川埋蔵金は家康の墓の下に眠ってるのだ。
しかし、ここまでわかってるのに掘り起こした者がいない。
なぜ?
理由は……【埋】という漢字、地中に
どうも罰が当たって、犠牲にされ、埋められてしまうという噂があるから……だとか。
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