第三十七夜 沈静

【I】

今日は物凄い日だった。

全てを語るには筆舌に苦難するが、強いて言うなら何が凄いって、一日に二度も目覚めるなんてことがあるのか、ということである。


「あ、気が付いた!!」

「........」

「ママ!この子気がついたよ!ママ!」


山霧は視界の範囲一杯に目を動かし現状把握に務める。どうも、意識が戻った直後とは難しい、頭の回転は鈍いし、体も重い。

近くに居る人間も、場所もわからない。


また、何もわからない処に居るのか。


眩しいほどの白い光と、紙の匂い。パソコンと、事務机の並ぶ部屋。その部屋の中央に自分はいるらしい。

階段を誰かが登ってくる。


「タクヤくん、気分は?」


綺麗な女の人。そうそういない程の美女だ。イメージは黒。誰かと似ている。誰だったか....直ぐに思い出せない。いや、思い出した。


「気分.....いい気分です」

「あら、素敵な男ね。やっぱり面白いわ」


理沙は白井に「お水」と言うと山霧が横たわっているソファーの肘掛けに腰掛けた。丁度山霧の顔が見下ろせる。

そして、山霧の腹部を悪戯に押した。


「っ」

「こんなに弟の餌食になっておいていい気分なんて。貴方来るとこ間違えたわ」


体のかしこがギシギシと痛むが、短期間で同じ場所に三度も殴打を受けると流石に治りは期待できない。

理沙は山霧に触れた手を、今度は赤く腫れた頰に当てる。


「ここはね、優しく殿方を日常から慰る処なの。って言うと古臭いかしらね。ま、こんなMっ気晒したいなら別の場所を紹介してもいいのに」


そうじゃない。痛みを受けて心地いいのではない。

麻尾という人間の核を見たような気がしているのである。

だから、つまり。きっと自分は、自分に新しい場面を垣間見せてくれるその男に、より期待をしてしまっている。その期待は間違いではないという確信になっている。


間違いではなかった。

麻尾という男は全く容赦という言葉も加減という言葉も知らない。

僕がルールを知ろうが知らぬが関係ない。破れば相応の罰を下した。


一歩、一歩と自分が違う色に染まっていく。

知らない世界がどんどん広がる。


これが気分良くならない訳がない。


「ママ、お待たせしました」

「ありがとう。さ、タクヤくん。とりあえず口を潤したほうがいいわ。滲みるだろうけど」


ネームプレートを見て、横たわった自分の体を支えて抱き起こしてくれた男の名前が白井だとわかる。

腹部の痛みで反射的に出てしまう呻きに白井は不安そうな顔をするが、理沙はただ笑みを浮かべながら煙草をふかす。

グラスに口をつけて一口飲むと、成程頰の肉がキリキリと痛む。舌も傷がついているようだが熱いものを控えれば問題なさそうだ。口内の傷が治癒が早いというのでそれくらいなら我慢するに難くはないだろう。


「理沙さん、今は何時ですか」

「今は....そうね、九時半を回ったところよ」

「そうですか...後、麻尾さんは今どちらですか」

「あの馬鹿?何、あんなに痛めつけられてどうしたいのよ」

「麻尾さんの側に行かないと」


理沙は大笑いした。


「どうして?そういえばさっきも女の子より透にべったりたっだし...舎弟てやつ?」

「ママ....ヤクザじゃあるまいし舎弟っておかしくはないですか」

「じゃあなんなのよ。子分なの?」


もう一口、水を含む。


「上下関係でいえば、麻尾さんは“親分”かと」

「....ふ、そうでしょうね。逆なら驚きだわ」

「それよりも、麻尾さんは....」


弟ばかりを何故か気にするこの少年....いや、青年。

理沙はため息をついた。


「貴方ね、まずはそこの男にお礼は言った?」


白井はいきなり理沙に示唆されて、ぴっと背筋を伸ばす。


「貴方を動けなくしたのは透だけど。貴方の面倒を見たのはそこの男よ。次をいう前にご挨拶は必要じゃないかしら」


『ここまで運んでやったの、俺なんだけど?』


似たようなことを言われた。と、思い出す。

山霧は白井に頭を下げた。


【II】


山霧は浅尾の事がどうやら気になっているらしいので、理沙は様子から察する現状を伝えた。


「今、あいつはどうも酒が酷く回っているようだから会話にならないわ。酩酊状態よ。ま、滅多に酔うような奴じゃないんだけど」

「そうですか」

「タクヤくん、あそこでお酒でも勧めたのかしら」

「いえ...」


山霧は眉をハの字にした。

彼の先程の状態は、所謂“酩酊”にあたるのだろうか。それともあくまで今現在なのか。

何れにせよ山霧から酒を進めるなどということは記憶の範囲では心当たりはない。


理沙は少し考える風に首を傾けたが、それも接客業が成せる業なのか、さして考えてはいないのにその仕草だけは忘れなかった。


「それで、今日これからどうするつもり?」


今考えてもわからないものを考えるのは無駄である。

そんなことは考えずとも時間が答えを示してくれる、そう結論付けたのか理沙はこれっきりこの場で弟のことは言及しなかった。


「おいとまします、と言いたいところですが....」

「そうよね、その状況で今から帰るのは無理ね」


シャツはしわくちゃだし、痣が首や腕に表れつつある。

しかも、明らかにそういったこととは無縁の外見である山霧では下手な注目を集めかねない。

とはいえ、山霧が気にしているのは見ず知らずの赤の他人からの評価よりも身内に知られることだった。


「白井」


理沙に呼ばれた白井は何もかも察して、車の鍵を胸元から出した。


「....まぁ、それが俺の仕事ですからね」


ポソリとそう呟いた白井は山霧の方に行って苦笑する。


「明日学校は?」

「ありますね」


だよね、と白井は言う。

山霧の鞄や上着を纏めて片手で持つと、空いた手を差し伸べた。


「今日泊まるところに案内するよ、そこでしっかり手当てが出来るし、御家族に心配かけることもない」

「いいんですか?」


助かる。本当にそうしてもらえるなら山霧に断る理由がない。

日本人らしく口先で渋る謙虚さをみせることの重要性よりも、身内にバレる方が遥かに厄介だ。

白井が良いと言うなら、そうさせていただきたい。


「同じ様なコはここに沢山いるから。....タクヤ君は見たところ良いとこ育ちっぽいけど自宅にそれっぽく連絡できる?」


外泊権利はもぎ取ったばかり。

父親が認めているから友人の家で厄介になると言えば済むだろう。


「....問題ないです」

「よし、....じゃあ、ママ。また明日」


理沙は軽く手を挙げる。

白井に少しばかり支えてもらいながら山霧は店を出た。


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