第二十一夜 異常
【Ⅰ】
一週間ぶりに帰宅した我が家。
法務省入国審査局に所属する燈也は、近年の違法入国者といった対策に追われ、自身の住むマンションに帰ることすらままならなかった。
寝に帰るだけの日々。
久々に時間に余裕ができたこの日を逃さず態々実家に帰ったのは、弟の卓弥に会うために他ならない。
目に入れても痛くない、というのはまさにこの事か。
そう感じたのは小学校四年の時。
母親から卓弥が生まれた瞬間。
弟のあまりの可愛さに燈也は文字どおりメロメロになった。
父親に似のややキツい顔立ちをしている自分とは、似ても似つかない愛らしい顔。
そして柔らかな黒髪に反射する太陽の光は正に天使の輪。
そう、我が弟卓弥は私にとって天使そのものなのだ。
風呂から上がった燈也は、濡れた御髪をタオルで拭いながら自室に向かう。だが、入る直前で足を止め、その奥にある部屋に足を進めた。
扉は僅に開いている。
キィ、とごく小さな音を立ててドアを開けると奥のベッドから規則正しい寝息が聞こえてきた。
ここは、弟卓弥の部屋だ。
すん、と卓弥の匂いのする部屋の空気を吸う。
そして、フローリングを少し軋ませながら、健やかに眠る卓弥の側まで行き、その寝顔を見下ろした。
「.............」
やはり、変わった。
前にあった時よりも、シャープになった。
いや、もっと的確な表現がある筈だ。
大人に見える。凛々しさが増した。
何より綺麗になった。
幼さがなくなり、弱々しさもない。
何かを見付けたように瞳は芯を持っていて、自分を取り巻く甘くて居心地のよいヴェールを破こうとしている。
そこにいればよいのに。
燈也はしゃがむと、山霧の額にかかっている髪を払う。
そして、額から頭頂部にかけて大きな手を乗せた。
起きないようにやさしく撫でているとあるものを見付けて─燈也は瞠目した。
顔から下。頸部。
うっすらと痣が浮かんでいる。
それは明らかに人の手によるものだった。
【Ⅱ】
「おっはよう!」
翌日、山霧が登校すると昇降口で肩を軽く叩かれた。
「お早うございます」
この学校唯一の友達、角谷七日だ。
昨夜説得のために言った勉強会の相手というのは目の前の女子、七日のことだ。
どうしても数学でわからない分野があるらしく、今回の範囲のコアな部分でもあるから対策をせずにはいられないということらしい。
「山霧君はいつもこの時間なの?」
「特に交通機関に乱れがなければそうですね」
「へぇー、早いんだね!」
「そう言う角谷さんこそ早めの登校だと思いますが」
すると、七日はグラウンドの方を指差した。
「あ、知らない?知らないか。私陸上部なんだ。朝練でいつもこのくらいの時間なの」
「成る程」
「いつもは
少し照れ臭そうに笑う七日は客観的にとても魅力的なのだが、山霧は好感度として受け止められた。
「............態々こちらにきたのは......」
「なに?」
「......やはり、その......友達だからなのですか?」
ふと、思ったことを聞いただけだった。
だが、七日は僅に視線をさ迷わせると眉を下げる。
「あ、............ごめん、ウザかった?」
七日の気持ちがやや落ちてしまったのを見て山霧は若干早口で正直な気持ちを言う。
「いえ、そうではないです............すみません。僕は言い方がなんとも固いもので、よく不愉快にさせてしまうことがあると思うのですが......今の発言も他意はありません。友達というものが、その、良くわかっていないので直ぐに疑問をぶつけてしまいました。不安にさせたのなら謝ります」
それを聞いて、七日は慌てた。
「そ、そんな!
............ううん、こちらこそ。確かに山霧君は他の男子と違うけど私はそこが......何て言うか、好き、というか......」
七日は言いながら視線を反らし、俯く。
山霧は驚いていた。
明らかに普通の男子高校生とは違う自分に嫌いこそすれ、「好き」という感情を抱いていようとは。
「......そうですか、そんなことを言って下さったのは貴女が初めてです」
「!」
「有難うございます」
純粋にそれに対して七日に感謝を伝える。
普通に考えれば波長の会わない話し方に、苛立ちや異質を覚えて距離を話すところを、どこをどう見て好感的に持ってくれたのかは定かではないが、嬉しかった。
ちゃんと、笑えているだろうか。
七日は意味もなく手をパタパタさせる。
「あ、うん、じゃあ、練習始まるからもういくね?
またあとで!......あ、昼休みに勉強会について決めようね」
「はい。頑張って下さい」
「うん!」
そして、リズミカルな足音と共に去っていったその背中を視線で追う。
本当に、変わった。
日常が変化している。
山霧は上履きに履き替え、教室に向かいながら思った。
手を伸ばさなければ決して出逢うことのない人間と接触し、それが今までの日常にも少しずつ変化をもたらしているような気がしてならない。
友達が出来たことと、喧嘩という一見愚かな行為に身を投じていることとは、無関係に感じられつつも、全くそうだとは思えないのだ。
今のところは全てが好転している。
たが、気を緩めば僅かな綻びが肥大して狂い始めるだろう。
そんな不安定な綱渡りを山霧は始めたばかりなのだ。
【Ⅲ】
肉と骨がぶつかり、ひしゃげる音。
そして、硬いもの同士が接触し、つんざくような騒音を轟かせる構内。
「おーおー、今日はいつにもまして派手だねぇ~」
教室から廊下にかけての賑やかしい様を悦として見ながらやって来たのは、金髪に腰パン、蛍光ピンクのパーカーを羽織り、ジャラジャラとおとがしそうな程シルバーアクセを身につけた極彩飾の男、角谷九一だ。
そんな彼を鬱陶しそうに黙って一瞥するのは桂。
そんな桂を覗き込むように身を屈めて角谷は嗤う。
「あれっ、シカト?」
「......独り言じゃなかったんですね」
桂は腕を組んで壁によりかかり、その光景をまるで湖をみているような表情で眺めていた。
角谷とは目を合わせない。
「ハイハイ連れないねぇ。
............で?なんでボスはこんなにテンション高いんだ?」
角谷は肩を竦めて桂から視線を外し、酷い有り様の中、中央で嬉々と暴れまわる男を見る。
「......いつもは弱すぎるからと断っているチーム内の手合わせの打診を快く引き受けて、一人一人手取り足取り御相手をなさっているのは─」
角谷は何とも婉曲的な言い回しだ、と笑いそうになる。
「─本日、ここに素晴らしい来賓を迎えるからです」
が、それを聞いて角谷はやや目を見開いて驚きの表情を浮かべた。
「『来賓』て、まさか............」
「ええ、今の時期想像に難くない方です」
桂はマスクの下で微笑む。
想像に難くない、その人物は一瞬で角谷も理解した。
倒す人間が居なくなると、槙は周囲を見渡す。
「あぁ?終わりか?............あ」
一頻り暴れた張本人、槙は乱れた赤い髪を掻き上げて角谷の姿を見つけると、爬虫類を思わせる狡猾そうな笑みを浮かべた。
その視線に捉えられた角谷は楽観視していた態度を一変させる。
おいおいおい、嘘だろ............
「ちょ、おい............まてまてまて、な?落ち着け落ち着け槙!」
「テメェも暫く暴れてねぇだろ............?」
じりじりと距離を詰めてくる槙は、まさに補食対象となる新たな獲物を見付けて蛇の様だ。
その補食対象は今、角谷その人になっている。
それを認識し、角谷は微かに舌打ちをした。
クソ、駄目だなこりゃ、逃げらんねぇわ......
「テメェもなまんねぇーようにしてやるよ」
「............っ、それはありがたいねっ!」
ぶん、と飛んできた脚を持ち前のフットワークの軽さで交わすと、角谷は毒づいた。
─恨むぜ......“夜叉”!
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