第二十夜 独行
【I】
「兄さっ..........」
山霧が無理やり連れ込まれたのは燈也の自室だ。一人暮らしをしている今、最低限の物しかない部屋は生活感を全く感じさせない。スチールデスクとモノトーンのベットとカーテン、数冊の本の入った本棚しか目ぼしいものはない。おそらくクロークの中は空っぽだ。
そんな無機質な部屋が張り詰めた空気をさらに凍てつかせる。
燈也は山霧を部屋の中央に立たせると、自分はレザー製の黒いビジネスチェアーに深く腰掛け、より山霧と視線が合う高さでその瞳を射るように覗き込んだ。
まるで尋問でも始まるようだ、と山霧は感じざるを得ない。
表情硬く、燈也はその形の良い唇を開いた。
「鍛えている...というのは別に悪いことじゃない」
「..........」
「問題は、なぜ鍛えようと思ったのか、だ」
「それは」
「お前、まさか一度そこらの不良共に殴られでもしたんじゃないだろうな........?」
少しでも嘘偽りを言おうものならと想像するだけで気が滅入る。
大丈夫だ。毅然と受け答えをしていれば。
「違います。母さんの言った通りです」
「ほう」
全ては母親の言う通りだし、その理由で十分事足りる。成績だって落ちてない。強いて変化したことはやはり帰宅時間に余裕がなくなったことくらいだ。
これで納得してくれればよいが、それを鵜呑みにする兄ではないことを山霧は理解していた。
長期戦になりそうだ。
「ここの治安は俺の時と然程変化はしていない。取り分け酷くなったわけでもよくなったとも言えない。ただ、平行線で悪い状態が持続している」
「..............」
「なのに、いきなり思い立ったように鍛えているなんて聞いて......なんとも思わない兄だと思ったのか」
確かに、ここまで過保護な兄ならばそう考えるのは当然だ。
そう、門限などというルールはそもそも当時頼れる友達がいなかった山霧に対して、その過保護な兄が高校生の時に親に提案したものだ。
兄が高校二年生になる頃は丁度山霧が小学校に入学する年。幼稚舎という保護下から出る時期だ。
まず、第一の理由としてこう言った。
『金持ちの小学生は狙われる。俺と違って卓弥は弱いから』
そして、中学に上がっても門限という拘束は解かれることはなかった。
『卓弥には近くに頼れる人間がいない。すぐに家に帰らせるべきだ』
年を重ねるごとに多忙になってゆく燈也は四六時中山霧の様子を見ることなどできない。予備校などもあって門限の時間帯こそは次第に遅くなっていくものの、それ自体がなくなることはなかった。
山霧が高校入学になっても変わらない。
今まで門限というものを然程障害と感んじていなかったから特に兄に刃向かうことなく黙って従っていたが、それを解く条件が一貫して同じであることを山霧は知っていた。
だが、まだそれを示唆するには早い。
少し、演技をするか....
山霧は「兄さん」と静かに呟いた。
「僕は...この環境に甘えていることに気がついたのです」
少し声高に、そして肝心なことは目をそらさないことだ。出来るだけ瞬きはしない。そうすれば次第に生理現象で涙腺が緩む。何も雫を流すまではしなくていい。照明の明かりが反射するくらいが理想的だ。
一歩、燈也に近づいた。
「もし何かあっても兄さんや父さんが守ってくれる。力のある方だから。けれどそれではダメだと気がついたのです。僕も将来を考える時期。一人でどうにかしていかなければなりません。きっかけはこの地域の治安の悪さですが、これは自分を変える一つの動きに過ぎないのです」
「ですから、何も心配することはございません」と締めくくろうとしたのだが、それは叶わなかった。
「卓弥.....!」
燈也は何を思ったのか突然抱きしめてきた。
思わず受け止めきれず体が傾いだが、倒れそうになる上体を支えられるくらい強く引き寄せられる。
「成長したのだな、自分から行動を起こすとは....なるほどそれは何とも兄として誇らしい」
エモーショナルな演技が成功した。
.......かのように思われた。
「だが、何も生き急ぐ必要はない」
抱き締めるために後ろに回した手は山霧の襟足から後頭部にかけてをいったり来たり。
「その志だけでいい。いきなり『一人で』だなんて寂しいことを言うな......」
両親もなかなかに甘い方だとは思うが、兄に関してはそれがひとしおだ。
遅くに生まれた弟が可愛いというのはありがたいが、流石にもうおしゃぶりをしている幼児ではない。
兄が良い年をして結婚相手を連れてこないのも、少なからず自分が荷担していると思わざるを得ない程だ。
「お前にはいつも兄らしいことをしてやれんからな、側にいることも出来ない。もう少し甘えてくれて構わないのだが」
ため息をつきたくなる。
構わない、のではなく、構って欲しいなのではないか。
大体、わりと欲しいものは何でも買ってくれたりしているし、甘やかされている方だと思う。
「......これ以上甘えるなんてできませんよ」
「お前の甘えるなんてのは参考書だの筆箱だの書き潰してしまったボールペンの替えだのだろう?そんなものは当たり前だ。甘えるという欲のうちに入らん」
燈也は抱きしめていた腕を緩めて弟の顔を見る。
「......全く、少し見ないとすぐに変わるな」
「え.......」
燈也は山霧の顔を両手で包み込む
顔、肩、そして体全体に目を通して燈也はつぶやいた。
その言葉に少し山霧は反応する。
「僕は.....変わりましたか?」
「ああ......変わったな」
「どういう風に?」
「そうだな......以前より、よくわかるようになったか」
山霧は首を傾げた。
「『よくわかる』とは......何がです」
「そのままの意味だが。
まぁいい。もう戻りなさい。疲れているだろう」
燈也は山霧の頭をひと撫ですると部屋のドアを開けようと出口に向かって歩き出した。
—そうだ。
「兄さん」
「何だ」
重要なことを思い出した。
麻尾との、約束。
「相談があるのですが」
「相談か?お前の口から相談なんて初めてじゃないか」
「そうかもしれません。
兄さん、門限のことなのですが」
燈也は眉を寄せた。
「単刀直入に言いますと、門限をなくしていただきたいのです」
「駄目だ」
門限、と言っただけで兄の起源は急降下したのがわかった。だが、ここで引き下がれない。
即答されるのも想定済み。
「兄さん、僕はもう守られるような人間ではありません。それに、僕を助けてくれ、また助け合いたいと思う友達もいます。門限を解いてほしいというのは、今度近い中間テストの勉強を見てほしいというお願いがあったからです」
「.....それと門限とは関係ないだろう。時間が来るまでは許してやる」
「それでは足りません。以前、友人の家で勉強をしていたのですが、門限があるからとご家族のご好意であるお夕食を残して帰ってしまった時がありました。僕はそれがとても心苦しかった」
嘘八百だ。家に行ったことなどない。
だが、全てが嘘ではなかった。
友人ができたことは確かだし、友人とは呼べないが知り合いもできた。
勉強を共にするという約束もある。
いつも兄が言う門限を掲げる理由は、僕を見る人間がいないから。
その人間がいる今、この足枷を外すことはできるんじゃないか。
燈也はしばし黙っていた。
複雑な顔をしている。まるで、自分を納得させようとしているかのようだ。
すると、思っても見ない声が聞こえた。
「いい。私が許そう」
燈也と山霧は声のする部屋の入り口付近の方を向いた。
「父さん」
呟いたのは山霧だった。燈也は黙ったまま。
父はゆっくりと穏やかに、だが何か諭すように話し始めた。
「お互いに刺激しあって切磋琢磨できる仲間ができたのだろう。いいことだ。それに、自分の行動に責任を持つ年頃でもある。これを機に自分で判断していきなさい。門限もなくそう。いいね?燈也」
「..........親父がそういうのなら、私は何も言いません」
どんなに高圧的な雰囲気を持つ兄で会っても、親であり、法務の上官に価する男には逆らえなかった。
父は山霧を穏やかな目で見た。
「そういうことだ。ただし、あまりにも遅くなるような時は連絡を怠らないように」
「ありがとうございます.....父さん」
少しだけ上体を曲げてお辞儀をする。
兄は複雑そうに父が立ち去った後を眺めていた。
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