第三十五夜 酔狂

【Ⅰ】


─“痛み”。


未知の世界は拓かれる。

片っ端からその扉を破壊している自覚はあったと思う。

勤勉とは言え、未だ出逢ったこともない数多の未開拓の地へと続く扉に其々名前をつけるとするならば、


今開かれてしまっている扉は確実に“痛み”だ。


「っ、ぅ....ぃ.....」


捻ってしまった手首も、押し付けられた背中も、ぶつけた後頭部もひしひしと鈍痛を伝えているが、それは新しい“痛み”という扉を開けるに等しいモノではなく、


今最も山霧を支配しつつある痛覚はその何れでもない。


自らの歯で切ってしまった頬裏の肉と舌。

それらが意思と反して与えられる外部の刺激により痛みを克明にしていた。


これは客観的にどの様な状況だと言えるのか。

客観的にはいくら考えてもわからないだろう。だから、山霧は今この空間にいる自分を含めた当事者間での名前を推測する事にした。

彼は、『ペナルティー』と言っていた。きっとこれもその役割を担っているのかもしれない。


先程の平手打ちも“痛み”だ。

ペナルティーとして課されるものが彼にとって“痛み”なのだとすれば、これはペナルティーだと言える。


そうだ、これはペナルティーだ。

だから、抵抗してはいけない。この時間はルールによって与えられた上下関係において自らが破ってしまったことへの禊なのだ。


だから、動くな。僕の体。

なのにどうして、僕は彼の腕を、肩を、そして、


「いっ…ゃ............」


顔を、拒もうとしているのだろうか。


【Ⅱ】


女に、こんな事をしたことがない。

否、単純にキスをすることは当然あるが、


これは果たして“キス”と言えるのか?


お互いの口を真っ赤に染め上げ、滴る液体は朱と無色。

自分の口内も無事ではない。抗うヤツの犬歯や前歯に引っ掛けられて鋭い痛みを伴っていた。


擦り合わせている唇も、歯茎も、舌も。


抵抗して、時折閉じようとされる度に接触しているそれらに新しい傷が付く。


麻尾は肩を抑えていた手を山霧の腹に滑らせた。

そして、


「............っぐっ.....ンン──!」


渾身の力で、殴った。

それは、抵抗への罰。

痛みに大きく開いた山霧の口蓋が大きく開く。

更に、より深く、そこから流れる血を求めた。


殴ったのは抵抗への罰か?

違う。チガウ。


上書きの、上書き。

同じところに付けられるなんてムカつく。苛々する。

なのに、この状況を愉しんでいる。

苛立ちという理由で。

ペナルティという名前で。


この身の程知らずの馬鹿な男を支配しているからだ。


自分の腕のなかでは誰もが大人しい。

身を委ねる者、恐怖に怯える者、従事する者。


その何れでもない、抗う唯一。


「ハァッ............!」


顔に添えていた手が濡れた。

暖かい。なんだこれは。


触覚をより明確にすべく、閉じていた瞼を僅かに上げる。

手を濡らしていたのは涙だった。


涙?何故涙だとわかる?


滴の奇跡を辿れば、そこは固く閉じられた山霧の目尻に行き着く。

睫毛は濡れていた。


涙.....

ということは、泣いているのか?


何故?お前は何故泣く?

怖いのか?痛いのか?


何故だ、答えろ。

頬に添えていた手を上に滑らせ山霧の髪を弄ぶ。

戯れのように、撫でるように。


「あ、いっ、.....っ.....」


同時に、腹を殴った手は、より色を濃くするために拳で刺激することを止めない。

腹を刺激している腕を退かそうと、さ迷う腕が絡み付く。しかし、動きを止めるほどの力は持っていなかった。時折立てられる爪だけが、僅かな切り傷を付けるだけ。


「く、ハハッ.....」


額が熱い。血が昇ってんのか。

酒か?まさか。

きっと、頭がイッちまってる。


俺が?


「この期に及んで.....まだ俺を狂わせんのか」


頭がガンガンする。

やべぇ.....


「透!!!てめぇいい加減にしな!」


思い切り開かれた扉。

それは、“痛み”の扉が閉まった瞬間だった。


【Ⅲ】


白井は青ざめた。

こんな光景、見たこともない。


「早く!白井!この子を運ぶよ!」


男が二人倒れてる。

立てられていた音が証明していたのと同じ、部屋の中は散々たるものだった。

照明や灰皿は飛び、ソファーやテーブルもあった場所から明らかにずれている。椅子は脚の先端が欠けたらしく全体が傾いていた。


何より酷いのが騒音を立てていた原因と思わしき人間の状態だ。

一人は口から血を垂らして、その指先も朱に染まっている。

もう一人は酷かった。

涙で目許はぐっしょりと湿り、口は血を垂らすなんてレベルじゃない。血塗れだ。

何より上に捲り上げられたシャツから覗く白い腹に、もう目も当てられない程の痣が浮き上がっていた。


「マッ、ママ.....これぇ.....」

「デカイ方はほっといていいから。このほっそい方を事務所に」

「う、う.....はい」


どちらも気を失っているらしい。

細い方の男を抱え、白井はエレベーターにのり、事務所のある三階に向かった。


「君、大丈夫?」


明らかに大丈夫じゃなさそうなのにこんなのことしか言えないからいつまで経っても専属ボーイになれないのだ…

と落ち込んでいる場合ではない。


男…いや、青年を事務所のソファーに横たえると、白井は予め客の為に用意してあるホットタオルと、乾いたフェイスタオル数枚、バスタオル数枚をもって戻ってきた。


先ずは血を拭いてあげないと……


白井はホットタオルで口許の血を拭った。

唇や、周辺の皮膚が切れているのかと思ったがそうではないようだ。


口の中か?

口内を歯科医の真似事のようにして覗き込むと片方の頰の内側の肉が切れていた。下も傷付いている。見るからに痛そうだった。


「うへぇ……」


顔全体の血やら何やらを拭き取った後、汚れたタオルをバケツに入れ、新しいタオルを広げる。

その他、腕や腹などについた汚れを拭き取り、シャツに手をかけた。


「このシャツはもう着れないだろうな…もう落ちないだろうし」


白井はフリーサイズのTシャツを引っ張ってくると青年を着替えさせようと試みた。

にしても。


「どうして、男二人で個室にいたんだろう…」

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