第三十四夜 苛波
【Ⅰ】
「弓ちゃん、なんか奥が騒がしくない?」
ボーイの白井がドリンクの準備をしながら厨房後方を示唆しながら、上がる直前のキャバ嬢、弓に言う。
白井が気にしているのは、個室ブースからの聞こえるはずのない種類の騒音だ。
「騒がしいって、賑やかの間違いでしょ」
白井にまともに取り合うつもりはなく、軽い挨拶レベルのトーンで弓は答える。
白井は、やや真剣味を帯びたように声を低くした。
「いやね、仕事柄ちょっとほほえましい音とか、息遣いとか、夢中になってグラスを引っ掛けちゃうなんて音はわかるんだけどね?
なんか、砕けるような音が聞こえるのは気のせいかな...」
弓はフロアから降りてきたばかりだ。
客のいるフロアに目を向ける。
「そうなの?アタシ今から着替えるからわかんないけど...上までは聞こえてなかったよ」
「それは良かった...でも、普通じゃ有り得ない音がしたんだ...」
「今は静かじゃない。疲れてるんじゃないの?」
「そうかな...」
そうか、そうかもしれない。疲れているのだ。だって遅番四連勤目。やや寝不足気味でもある。
白井はアハハ、と笑おうとした時だった。
壁が唸るような、震えるような衝撃音が聞こえた。
それは、空耳等ではない、弓も思わず体が驚きで揺れた。
「これ…ちょっと、あっちからじゃない?」
弓は個室ブースを見た。
白井は顔を真っ青にする。
「どうしよ、...ママに言った方がいいよね?」
「......当たり前じゃない!」
「おっ、俺ちょっとフロアにいってママに伝えてくる!」
「ちょっと白井君!グラス持ったままよ!」
「あ、危ない......と、取り敢えず弓ちゃんは上がりなよ!」
「え、でも...」
「女の子は危ないし!こういう時のボーイでしょ」
弓は、フロアに向かっていく白井をまじまじと見た。
「...殆ど声が裏返っているの気が付いてるのかな...」
【Ⅱ】
白井は備え付けのソファーに爪先をぶつけながら理沙の姿を探した。
痛がっている場合ではない。店内の異常を管理者に伝えずにどうする。
「理恵子さん、ママは?!」
「どうしたのよ白井君」
理恵子はここで最年長のキャバ嬢で、ママである理沙に最も近い立ち位置でもある。
理恵子に先ずは伝えた方が良いのか...白井は全く冷静になりきれていない自分を隠せない。口だけが勝手に動いた。
「大変なんだ、奥が...」
「落ち着きなさいって、...奥がどうしたって?」
こうしている間に個室が大変なことになっているかもしれない。もしかしたら色々手遅れかも...?
店内を見渡す白井は理沙の姿をようやく捉えると、理恵子から離れて迷わずブースに向かう。
「あ、白井君だめよ!ママは今...」
静止を促す理恵子の言葉は白井に届かない。
「ママ!」
冷静を欠いた白井はブースに近付きママを呼んだ。
理沙の横には客と思しき男性が一人。
「良かった、ママ、大変なんです、奥が....」
「なにかしら。呼んでないのに来るなんて」
白井は理沙の言葉に固まった。
そして、急に冷静さを取り戻す。
ここでは、ボーイは呼ばれない限り各ブースに近付いてはならない。
あくまで、お着きの客や、接客にあたるキャバ嬢からのオーダーや要望、個室の管理をするだけだ。その仕事の過程でブースに近付くことはあれど、許可なく近付くことは許されない。
それを、思い出した。
白井は男性をみる。
よく知った顔だ。何故なら。
「あ、紀美野様...」
ママを指名できる指折りの客の中で、もっとも羽振り良いブルジョアな上客。
そんな相手をしてる時に、一介のボーイが無断で声をかける失態を犯す等...
あってはならない。
理沙の目をみればわかる。
やらかしてしまった。
しかし、今は店の非常事態じゃないのか?
個室なんていう半プライベートな場所で何か起こるなんて問題なんじゃないか?
どうせ声をかけてしまった時点で駄目なのだ。
ここはお客様には申し訳無いけれど────
「ああ、さっきお願いしたやつかな?」
「!」
紀美野は首を傾げながら白井に言う。
「え、と...?」
「軽食をお願いしようとしたんだけど、ママに希望をきこうと思って忘れてたんだ。ホラ、さっき席を外していたろう?」
理沙は「ええ...」と思案しながら答える。席を外していたのは本当らしい。
紀美野は理沙から白井に視線を移す。
「と、思ったんだけど。悪いね...もうすぐママを独占できる時間が終わりそうだ...そこの貴女、お会計を頼めるかな?」
「あ、はい!」
呼び止められた別のキャバ嬢は慌てて返事をする。
「紀美野様...」
「また今度遊びにきてもいいかな?それと、あちらのボーイには手数をかけたと伝えてくれ」
「ではお見送りを」
「ここで構わないよ、見送りしてもらう程今日は君にボトルを開けることが出来なかったからね」
紀美野は理沙に微笑むと席を立った。そして、白井を見て囁いた。
「仮は次のサービスで返して貰おうかな」
紀美野は出口に向かっていった。
白井は顔を赤くした。
お客様に気を使わせてしまったなんて。
当然、理沙が気が付かない訳がなかった。
「で?余程重要なことでもあるんでしょうね」
これでもし、本当に大したことじゃなかったらどうなるんだ。
理沙は立ち上がると白井を睨んだ。
美人ほどこの時の顔はキツイ。
「奥の...個室ブースから酷い騒音が聞こえるんです」
「…騒音?まさかそんなことで...」
「それが!その、そーいう音じゃなくて、明らかに変なんですよ、下手したらその、壁が壊れるんじゃないかってくらいに...」
白井は声を震わせながら言う。
すると、奥から何人かのキャバ嬢が理沙のもとに駆け込んできた。
「ママ!大変、奥が変なの!」
「静かにして。他のお客様がいらっしゃるのよ」
理沙は白井よりも顔を青くしているそのキャバ嬢を叱咤すると、奥を見詰めた。
「どこの部屋かわかるかしら?」
「恐らく、...B110かと」
「地下の奥......チッ...やってくれるわね。あの脳筋」
「ママ、早くしないと...」
理沙は顔を青くしているキャバ嬢の肩を撫でた。
「貴女は取り敢えず落ち着きなさい。そして、落ち着いたら仕事に戻ること。奥へは来ないでちょうだい。...理恵子」
「はい」
いつの間にか白井の後ろには理恵子がいた。
「奥へは私が良いと言うまで近付けないで。従業員もよ。特に女はダメ」
「了解しました」
「そして白井君」
「は、はいぃ」
「念のため、貴方は私に着いてきて。もしものことがあるかもしれないわ」
白井は血色の悪い顔を更に悪くする。
理沙は白井を連れてヒールをならしてフロアから個室ブースのあるフロアに向かった。
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