第三十三夜 不合

【Ⅰ】


視界が、白くなった。

眩い光が閃光の様に横切る様に見えた。


しかし実際はそんな現象など起きてはいない。


左頬が、焼けるように熱を帯びている。


山霧が気が付くと、立っていた筈の身体の上体がソファーに投げ出されている状態で、無意識に熱を帯びる頬に冷たい手の甲を当てていた。


間をおいて、何をされたのか理解する。


─平手打ちだ。


表皮の熱で麻痺していたのか、痛みこそ感じないものの頬裏の肉も歯に当たって若干抉れてしまった様で、鉄の臭いと味がする唾液を吐き捨てた。


テーブルクロスについた染みはあか


「ペナルティーいち


平手打ちをかました張本人、麻尾はブーツの踵を鳴らして、硬い床を歩き近付いてくる。


床に広がるジャケットの袖部分が踏まれてしまったが、麻尾は気にする素振りを見せない。


「電話に出なかった分な?」


そして、視線を合わせるようにしゃがむ。

山霧は黙ってじっと麻尾の様子を伺っていた。


「.......おい、何か言え」

「すみませんでした」


強いて言うならこれだろう。

仕方無いとはいえ、出来なかったものは出来なかったのだから言い訳はしない。

しかし、その件はさておき、ここに連れ込まれた意味が未だにわからない。

それを訊いても良いのだろうか?


再びの沈黙に、麻尾は苛立ったように舌打ちをした。


「つまんねー。.......もっとリアクションねぇの?」


リアクション?

相手の真意を探ろうとした途端、不意打ちのような閃光が走る。


──パァン!


「ペナルティー 二.......来んのがおせぇ」


何かが弾けるような綺麗な音だった。

再び麻尾の平手が山霧の無防備なもう片方の頬に飛ぶ。


山霧は見えていた。

掌が迫るのを。

だが、避けなかった。

否、避けられなかったのだ。


ソファー、テーブル、クロゼット、スタンドライト。


簡素な部屋に部屋としての定義に相応しい物が置かれている。


それらが、山霧の行動範囲を狭めていた。

わかっていても避けられない。

避けるだけの空間が─ない。


ふと麻尾は思い出したように呟いた。


「矢嶋の言うとおりだな」

「.......?」

「テメェが何も出来なくなる場所がある、そう言われて半信半疑だったが。

んだろ?なのに、避けれねぇ」

「.......」

「目ぇ見りゃわかんだよ、相手が動きについていけているのかどうかなんて」


麻尾の言うことはわかる。

わかるもなにも、婉曲的な物言いを好まない彼の発言は文字通り解釈するだけで十分ではあるのだが、


問題は、だからといって状況が好転する為の起点が見当たらないし作ることも出来ないという訳で。


今こうして思考している間も麻尾の閃光は飛ぶ。


整えられておらず、指によっては切っ先がギザギザであったり長かったり短かったりする麻尾の爪は、時おり十分に避けきれなかった山霧の頬や鼻先、耳たぶを引っ掻け皮膚を傷付けていく。


チリチリとした痛みを感じながら、ほぼ反射的に受け身や交わしをとるものの、劣勢状況は好転するまもなく─


「─がっ.......」


頬にめりこんだ麻尾の拳は山霧の口内の奥歯にも打撃を生む。

頬裏の肉が裂けた。


なんとなく自分はとうとう仕留められたのだ、という思いを浮かべつつ、山霧は手触りの酔いカーペットの上に仰向けに倒れた。


咄嗟に手を突っぱねて、上半身が直接床からの衝撃を得ないようにとしたが、近くのテーブルに手を引っ掻けて手首を痛めるというオプション付きで。


利き手なのにやらかした。

そんなことを思っている場合ではないのだが、


「そうそう、最後の三つ目─」


何をされるのかわからぬ上にどうしようもない状況では、


「あのキチガイ野郎の側に居たこと」


為されるまま。

いつかのように山霧に馬乗りになる麻尾を見上げることしか出来ない。


思ったよりも切れているらしい頬裏の肉と、今気が付いた舌からの出血は唾液と同じ割合で口に滲む。


手が延びた。

避けはしない。


ゆるりと口の中に他人の指先が侵入する。

ぐちゅ、と音がした。

不味い血の味がするからさっさと吐き出したかったのに、手触りがよくいつまでも触れていたいと思うような高価そうにみえるカーペットを汚すのは躊躇われたせいで泉のように溜まっている。


口内に異物が侵入したせいで食物だと勘違いした己の口はじわりと唾液の分泌を促して泉のかさを増していく。


何を目指してすすむ指先か。

反射的に痛みを感じる部分を守るように侵入を押し留めた。

赤子のようにきゅっと口を締め、ごくりと不味い液体を流し込む。


不味い。


だが、その反射的な抵抗は許されなかった。


入っていた本数まではよくわかってなかったが、人差し指と中指の二本のようだ。


「.......力を抜け.......」


そんなことしたら、溢れてしまう。

飲み込みきれなかったモノが、二本の指によって抉じ開けられた口から溢れるのがわかった。

さらに親指を顎下に固定して、下にたまったそれも掻き出される。


伝う、というよりは溢れ出るように、

ドロリと嫌な感覚が皮膚を覆った。


「っ!.......ふ、ぐ............」


口を抉じ開けるために一度浅い部分にいた二つの侵入物は、いきなり置くに進んできた。

そして、自身の歯で切ってしまった新しい傷を持つ舌に容赦なく触れてきた。


痛みも混ざる過敏な感触に山霧は体を震わせた。

自分で恐る恐る触れるのとは違う、

弱い部分を直に攻められるそれは、精神的な恐怖とは乖離した肉体的恐怖を与えていた。


山霧は麻尾を恐れてはいないが、

山霧の体はその行為に脅えている。


精神はぼんやりと肉体の危機を傍観しているのだ。


痛みに震えて固く強張る舌を、無理矢理解すように二本の指で弄ぶ。


こうすることで俺に何を与えたいんだろう。


痛みや恐怖は体に任せ、精神はそんなことを思考していた。


「ん、.......っぅ、ん」


ぐちぐち、と嫌な音だ。

たまに聞こえる声はなんだと思ったら自分の呻き声。

散々弄ばれた舌は、傷をより広げられたかのように感じるほどの灼熱を帯びる。


ぐっちゅ.......と耳障りな音と液体が口から溢れる不快な感触を与えられ、指がずるっと蛇のように引き抜かれた。


思ったよりも赤く、糸を引く液体をまとった指を麻尾はじぃっと見詰めた。


そして、視線を山霧に移す。


「奴等は痣をつけても、血は見てない」

「血.......」

「なかなかイイ面だぜお前。

口から垂らして死人も真っ青だ。ナァ?」


自らの利き手が動いた。

口許の汚れを拭うために。


だが麻尾の手によって阻止された。

両手を床に縫いつけられ、その圧力に痛めた利き手が軋む。


「いっ............」


呻く山霧を楽しそうに見る麻尾。

赤に汚れた指先を、山霧の唇に置く。


横に引けば鮮血の紅を纏う死化粧の如く。


「澄ましてる顔より、今の方が俺は好きだ」

「.......?」

「歪め、綺麗すぎるその面汚してやる」


素早く唇に置かれた指が離れた。

近付いたのは──


【Ⅱ】


桂が帰った後、角谷は山霧のことを考えていた。


自分はよく異端児の扱いを受ける。

人が歪む顔を見るのが好きだし、弱いものを弱いと呼び、過ぎたダメージを与えることこそが快感だった。

虐められているやつを傍観して、時に手をさしのべつつも思いきり掌を返すことはごく普通の日常へのスパイスになった。


勝手に人は上や下やとラベルを付けられ、勝手にコミュニティにはカースト制度が生まれたが、

自分は必ずと言って良いほど上の人間に属し、それを周囲も認知しているからこそ、このようなことが自分を確立する悦楽や快楽にすり代わっていたのだと思う。


後ろめたい教室でそれを得るのも良かったが、こちらの世界に脚を踏み入れたその後、上下に決められたルールという正当化に敷かれた状況で好き放題楽しむ快感に陶酔してゆく。


下の心を持つ者は下の肉体をもつ。

上も然り。


だがイレギュラーが存在した。


それが山霧だ。


白くて儚げな表情と、土やアスファルトの破片を被ったことのない黒髪は角谷から見れば下の人間だ。

殴れば血が出る。痛みで呻く、泣く。


そんな体をもってるのに、精神はそれとは異なっていたのだ。


体と精神。

それがイコールでない人間を目の当たりにして訳がわからなくなった。


目が話せなかったその姿の甘美たるや、見たことへのない人間のそれと、一つの真をもった上の精神とが調和する造形美によるもので。


そんな人間を自分はどうしたいのかを考えていた。


角谷は嗤う。

上などは作りたくない。

だが、彼の秘めたものを彼に気が付かせ、化け物に変えることもまたイイ。


彼はイコールにしてはならないのだ、

体はたおやかな花のように、

精神は鋼の如く。


そんなアンバランスさを持ちながらこの世界で、ここのルールで、


俺の支配下で、その不安定な美しさを造りたい。


まずすべきことはなんだ?

彼は今手元にいない。


「.......さっさと槙を懐柔しないと」


西に、戻さねば。

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