第一章 東奔西走 編
第一夜 転落
【I】
予備校の帰り。
先日の全国模試の結果が返却された。皆判定の厳しさに、お互いが不安を文句に変えて共有し合う中、
電車を乗り、地元の駅に辿り着く。
そこから住宅地へと入っていくと、市の管轄である公園があり、そこは地域住民のための憩いの場として日中は小学生や赤ん坊をつれた母親で賑わうのだが、夜になるとその姿をガラリと変えることを住民の誰もが知っていた。
住宅街周辺には幾つかの高校があるため、下校時間である夕刻から夜になると、周辺高校の学生が騒ぎ始めるのである。
『───見ていて気分が悪くなるわ』
以前、母がそう言っていた。
というより、この発言は地域住民の彼らに対する印象そのものを示しているのではないかと山霧は思う。
このような若者達に周辺住民は辟易し、彼らの印象は悪くなり、結果それは高校の評価として伝播していったのだろう。
夜にすれ違う住民は皆、その光景を見る度に顔をしかめ、目をそらし、足早に去る。
住民が気分を害していることは山霧から見ても明確であった。
(自分とは違っている)
だが、山霧にとってそれは一つの光景に過ぎなかった。
それは“迷惑”という感情を誘発するものではなく、自分が知り得ることのない光景として認識され、
単に興味深いものである──と山霧は感じていた。
「オラァ、立てよ!」
「やっちまえ—」
鳴り響くのは骨と肉がぶつかる音と、高揚感に浮かされた声。山霧は自身の手を触ってみる。肉の中にあるのは当然骨だ。その音が鳴る、なんてことは少なくとも山霧の日常で聞き慣れる音ではない。どうすればそんな音が出るのだろう。
「おいおい、もう終いかよ」
「たいしたことねぇなァ、カス」
今こうして、目の当たりにしている光景を眺めることはあっても、当事者になることはない。そして、その光景を眺める度に思うのは、彼らはなぜそのような行動をとるのか、ということである。彼らにとって何かしらの利益になるのか、娯楽の一つに過ぎないのか。
山霧はただ今日もじっとその光景を眺める。
それが、眺めるだけでなくなったのは、ほんの些細なきっかけによるものだった。
【II】
山霧の通う高校は県でも有名な進学校である。
誰しもが耳にしたことのある大学への進学率が国内でも上位に位置する所謂“優秀”な高校で、その高校の中でも分類される特進クラスの生徒として山霧は通っていた。
高校二年生である山霧だが、この高校の二年生は巷の高校の三年生と同じくらいの環境を強いられている。教師陣は鬼気迫る勢いで教壇に立ち、弁をとる。
「三年生になってからでは遅い。後悔しないうちにやれることはやり、少しでも周囲に差をつけろ」
チョークのリズミカルな音と、ペンを走らせる音。皆将来を見据えて授業に取り組む。いつもは授業の内容に集中しているはずなのに、山霧は何故か、ふと夜の公園を思い出した。
今自分は勉強している。
何故か?
それは、将来のため。生きるため。よりよい暮らしを手に入れるため。
自分の行動には目的が伴っている。
では夜の彼らは?
なにか、目的があるのではないか?
自分の置かれる環境では、どう考えても彼等と同じ行動をとる時間はない。正確に言えば、自分にとって同じ行動を取る必要がない。何故ならば、その行動を取らなくても困ることはないからだ。
───朝起きて、ご飯を食べ、勉強し、眠る。
それだけで十分山霧の生活としては事足りているし、何不自由することもないのだ。
だが、彼らにとってはその行動をしなければいけない、
しなければ、不自由するなにかがあるのではないだろうか?
つまり、自分が勉強を目的のための手段としているように、
彼らもまた何かの目的のためにその行動を手段としているのではないか───
「——おい、山霧!」
「!」
「何度も呼んでいるだろう、前に出てこの問題を解きなさい」
「...はい」
定規で測ったように美しい文字を綴り、席に戻る。
自らの回答に足して、教師の解説が入り、その文字は消されて次の設問へと移り、また誰かが問題を解く。
山霧にとって日常で行われる行動は必要なものだ。
だが、新しくない。
同じことを繰り返している。
『後悔しないうちに』
自分は、この同じ日常に興味をそそられない。
しかし、あの夜の公園はとても興味深いと山霧は感じていることに気がついた。
後悔は、したくない。
自分にとって後悔するようなことはあるか?
山霧は考えた。
そうだ、自分は何故あの夜の彼らの行動を眺めているのだろう?
視界に映るだけではない。
(僕は行動を眺め、そして観察していた)
おそらく、眺めていたのは彼らの行動が理解できないからだ。
理解ができないのは、彼らの行動の目的が不明確だから。
そして、理解ができないことそのものに興味を抱いている。
だから、自分は興味深いと感じているのではないだろうか。
後悔するとすれば、自分にとって今全く理解できないその行動の因果関係を知らないまま、彼らの行動を目にすることがなくなる環境に行ってしまうこと。
大学に進学したあとも、あの夜の時間、彼らを見ることはあるか?
同じ高校生なのに自分からは起こしもしない行動を取るその意味を、認識しないまま高校生という身分を終えてしまったら?
「......」
ひとつ、山霧は決心をする。
【III】
買うか借りるか迷った末に、山霧は書店へ赴き本を買った。
専門書、漫画、それ関係の雑誌。
手に持ちきれないほどの本を選び、レジカウンターの女性を困らせるほどには大量に買い込んだ。
自力で持ち帰れないと踏んだ山霧は翌日配送の手続きをとり、帰宅した。
帰宅するとパソコンをたちあげ、関連するホームページをとにかくがむしゃらに閲覧した。
よくよく考えれば、ネット通販などで本を購入すればよかったのではないかと思ったが、自分名義のクレジットカードを持っているわけではないため、やはり書店での購入が手っ取り早いと判断した。
ネット購入の場合、決済をお願いするとしても、参考書ではなくこのような本を購入するとして納得してもらえるかが甚だ疑問だったというのもある。
本が届くのは翌日だが、今日できることは今日始める。
山霧は必要な勉強を先に済ませると、普段の生活ではまず行わなかった行動をはじめた。
それは、母親が、夕食の支度を終える頃まで続いた。
「──卓弥、ちょっと来なさい」
翌日、予備校から帰宅すると父親が玄関先にまでやってきて告げた。
思わず時計を確認する。
「門限は特に過ぎてないと思いますが」
「そういうことではない」
山霧家には門限があった。といっても、一般的な高校生が部活をして、少し遊んで、帰宅するにも十分な時間なのでとりわけ厳しいわけでもない。
山霧自身、予備校が終わってから寄り道せずにまっすぐ帰宅した。が、わざわざ父親が玄関先に来てまでいうのだからそれしか考えられず、またそれ以外の要因が思いつかない。
この間の模試も問題はない。
しかし、父親の取り巻く雰囲気はとても今から好ましい話をするとは感じられなかった。
案の定、話の内容は家族の空気を暗転させた。
山霧の心境は“忘れていた”である。
何を忘れていたのか。
「これは一体何の目的で買ったんだ?」
そう、先日本屋で購入したものが届いたのだが、配達時刻が指定できなかったために忘れていたのだ。
両親の目に触れる可能性を。
本が本だけに、いいところ育ちの所謂お嬢様気質の母親は顔を真っ青にしている。山霧はため息をついた。
「少なくとも、今の僕に必要なことだと思いまして」
「....それで納得するとでも思うのか」
本のタイトルを羅列すると、
〈カポエイラ技法〉〈ボクシング入門〉〈不良体験記〉〈護身のための手引き〉〈キックボクシングの道〉〈柔道トレーニング〉〈筋肉の作り方〉———
漫画に至ってはそれっぽい絵柄のそれっぽいキャラクターが拳を振るい血しぶきをあげたりしている。
これだけの情報、加えて自宅周辺の治安の悪さ。
息子が何をしようなんて容易に想定できるはずだ。
ああ、しまった。
両親は誤解している。
「父さん、よく考えてみてください」
「何をだ」
「僕がそんなことをするとお思いですか?」
山霧は一呼吸おいて説明を始めた。
「おそらく、不良になってしまうことを危惧されているかと思いますがそうではありません。夜通し騒いでいる彼らのせいで周辺の治安は悪いです。帰り道に他校の高校生が絡まれているのを見ましたし、近くのファミリーレストランでさえもはやファミリーが団欒できる雰囲気ではありません。ですので、僕は万が一彼らに襲われたときのために体を鍛えておく必要があるかと思ったんです。あまり屈強な体でもないですし、もし喧嘩をするような事態に巻き込まれようものならおそらくひとたまりもありません。こんな不安を抱いたまま満足に勉学も励むことができないと思い、ある程度体を作っておく必要があると判断してその参考文献を購入いたしました。最近では女性も健康法として筋力トレーニングをしていると聞きますし、適度な運動は脳の活性化にもつながります。つまり、これらを読破し、実行することによって僕は不利益を被るどころか良いことばかり..メリットしかありません。決して彼らと混ざって騒ぐための行動ではありません。防衛のための文献です」
山霧は自室に戻ると届いたダンボールの中にある書籍を整理して床に並べた。
両親を納得させる、この段階は先程の説明によってクリアすることができた。
説得するために話した内容のいくつかは、昨日のネットサーフィンで手に入れた情報も含まれていたため、知識として見ていてよかったと思った。
読むだけでは何もならないことは百も承知。
短期間でも習得に一年かかりそうだ、山霧は何冊かの書籍とネットの情報から概算した。
しかし、到達地点を限定すれば三ヶ月に最短でも縮められるであろう、という目算を立てて山霧は生活リズムを変えていった。
自分の知らない、全く新しいもの。
興味深い彼らの行動を、理解したい。
理解したその先になにがあるのかはわからない、だが、だからこそ山霧は興味を抱いていた。
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