第四十七夜 深淵
【Ⅰ】
俺は、何を見せられている?
矢島は呆然としていた。
麻尾がキスをしている。
別に、その行動自体はなんら突出したものでは無い。寧ろ、目の前でされたとて気に留める必要すらない行為だ。
だが、その相手に問題がある。
山霧なのだ。
女ではない、男。
しかも、拳で張り合うという姿を見て以降、この様な行為をする迄に至る過程が全く想像つかない。
〈鎌鼬〉の二人が去り、麻尾と山霧と自分の三人がその場に残ったことは覚えている。
そう、それから何があってこんな事に......?
【Ⅱ】
矢島が山霧に接触する三時間前。
山霧に対して一種の嫉妬心を自覚した矢島は、居ても経っても居られず、自宅から外に出た。
そして、直後に気になったのは、足の裏に感じる痛みだった。
近くの公園まで歩いてベンチに座り、ブーツを脱ぐ。
案の定、灰色の靴下には血が滲んでいる。恐らく、グラスの細かい破片も多少刺さったままである筈だ。
このままだと間違い無く化膿する。衝動的にやってしまった行動を少し悔やみつつ、ドラッグストアに消毒液とピンセットを買いに行くと、レジの最中で着信音が鳴った。
相手によっては出なくていいか、と思っていたが、そうすると却って自分が厄介になる相手だったので、舌打ちをして電話に出た。
レジの店員がその矢島の態度にビクつく。
『よぅ』
「…何…?」
機嫌の良さそうな麻尾の声だ。
「ちょっと確かめたいことが有るんだけどよ」
ドラッグストアを出ながら矢島は行き先を考えた。
一度意識してしまうとチクチクと痛む両足の裏が気になる。早く落ち着ける場所で処置をしたい。
そう頭の片隅で考える反面、麻尾の話に耳を傾ける。
「確かめたいこと?」
『あー.....山霧のことでなァ』
「山霧...」
『お前暇なら連れてきてくんねェかな』
暇じゃ無い、と一蹴したくなるが悲しいかな矢島はどこに行こうかと立ち悩んでいる最中だ。
「それ、今からじゃないとダメなやつか?」
『いや....この時間はあの優等生には無理だろ』
確かに、今は十七時。予備校だか講義だかで捕まえるどころか連絡取れるかどうかも厳しいだろう。
「じゃあ、連絡するのは夜か....」
『連絡しても意味無いと思うぜ』
「なんで」
『アイツ、サイレントだかマナーだかに設定してて電話になんて殆どでやしねェ』
はーっと矢島は溜息をついた。
確かに、麻尾が隣で電話を掛けていて、出ないだなんだと愚痴を零して居たのを覚えている。
『ま、確かにダチが居るような人間ではなさそーだしな。どうせ、親しか連絡先知らないようなタイプだろ』
電話口から空気が通る音がした。煙草を吸っていると分かって、矢島は口元がムズムズした。
ああ、早く落ち着けるところに行きたい。
「.....つまり、俺に迎えに行ってこいって事だな」
クックッと喉の奥で笑うのは麻尾の独特の笑い方だ。
『俺が待ち伏せしても良いんだけどよ...もしかしたら逃げられるかもしれないしな』
「“逃げる”だ?あの〈夜叉〉が.....?お前、なんかしたのか?」
何かしたのか、何かしでかしたのか。
機嫌が良いという事は、その行為自体を悔いてはいないのだろう。
昨日は西から山霧を引き取るついでに仕掛けた元橋を拾っただけで、その後麻尾が山霧をどうしたのかは矢島の知らぬところである。
『今言っても良いが.....』
「.......?」
『お楽しみにしといた方が良いかもな?』
自分だけで密かに考えて、勝手に行動する。
そして、その私欲の為に人を簡単に使い、かつそれに異を唱えさせないだけの力がある。
環境と力と、生まれ持った性質か。
「....わかったよ。で?どこに連れていけば良い。理沙さんのところか?」
『と言いたいところなんだがちょっと派手にやり過ぎて出禁になった』
矢島は目をカッと開く。
「は.......?
ちょっと待て、それは俺も出禁になったっつーことじゃねぇだろうな?」
『さぁな。本人に聞けよ。そろそろ起きる頃だろ』
困る。
行き場に困った時や、何も考えたくない時には麻尾の姉である理沙が経営しているキャバクラが居場所としては最も気負いしなくうってつけの場所なのだ。今からそこに行こうとすら考えていたというのに.....
矢島にとっての死活問題が浮上したが、気にする事無く麻尾は続けた。
『つー訳で、後で住所を送るからそこに連れてこい』
「時間は」
『捕まえたら連絡寄越せ』
「.......................わかった」
そして、一方的に電話が切られる。
色々気になることはあるものの、接触が叶う機会が来たのは矢島にとってはある種好都合だった。
動く許可は唯一己の行動の足枷でもある奴から命令として下されたし、山霧のことはもっと知っておくに越したことはない。
大層な理由など何もないが、この世界にいる以上山霧を倒したいとは思うし、個人的に潰してやりたいと欲求が体内で疼いている。
通知音と共に一件指定場所と思わしきのアドレスが表示される。
矢島が始めて見る場所だった。
その後、矢島は理沙の経営するキャバクラに向かった。
「お客さん、まだ開いてない.......
あら、沙羅じゃん」
開店は午後六時から。
この界隈では早い方だ。それが矢島にとっては助かっているのだが。
「珍しい、理沙さんが直接出迎えてくれるなんて」
「たまたま。それよりどうせ大した用も無いんでしょ。奥の部屋にでも行きなさい」
矢島がこの店に頻繁に転がり込む理由を理沙は知っている。おそらく、麻尾にも知られたくないような事まで。いつかの日に吐露してしまったらしいがそれはわからない。ただ、理解を示してくれるかのように振舞われる事に底知れぬ安堵を覚えてからは、この空間に甘えていた。
それが例え営業の一部だとしても。
「助かる。...あ、あと包帯ある?」
「包帯?どしたの」
「ちょっと怪我した。大した事ないけど、包帯だけ買い忘れちゃって」
「....包帯するような怪我してるようには見えないけど」
「わかるように怪我を見せるような男はいないっしょ」
客層ではないのに店の一角を借りられる。
しかし、そんな待遇はいつまで続くのか。
足の裏はもう痛くなかった。だが、破片を抜かなくてはならないのでまた出血することは避けられない。
ピンセットを取った手は、持つ物を煙草にすり替えた。
もう少しだけ、この空間で微睡んでいたかった。
【Ⅲ】
そんな少し前の微睡みも、嫉妬から来た激情も、
眼前の光景を前に消し飛んだ。
クラブというある種特異的な場所では男女は勿論、ふざけあってキスに至る、なんてことが全くない訳ではない。あちらこちらで為されているとすら言える。
だが、それはあくまで他人事の話であって、既知の人間同士となるとその関係性の如何によっては、当事者外の人間にとって混乱を招くことになる。
それがまさに矢島の陥っている状況だ。
ただ、傍から見ているとそのキスは甘さの欠片も感じない。
唇を合わせたまま、お互い視線を至近距離でぶつけている。
本当に、その行為は突然だった。
山霧の顎を掴んで、間髪を入れずに、なんの躊躇いもなく麻尾は顔を近付けた。
山霧と言えば、突然の麻尾の暴挙(と表現しても過言ではないと矢島は思う)に拒絶することもなく、静かに受け入れているようなのだ。
二十秒程だろうか、合わせていた唇を解いたのは、けしかけた麻尾の方だった。
「お前さぁ、息しないつもりかよ。死ぬぞ」
麻尾はニヤニヤしながら山霧の鼻先を人差し指で強く押した。
「………あと十秒は余裕でした」
言葉どおり生真面目に答える山霧に矢島はイラッとした。
しかし麻尾は鼻で笑い飛ばす。
「ふーむ…つくづく変なヤツ。てゆーか、少しは拒絶しろよ。キモくねーのかよ」
“キモイ”。
そう、矢島が呆然としたその感覚の半分は、突然の行為そのものによる驚きから来るものであるが、もう半分は同性同士というデリケートな部分への疑問だった。
山霧は唇に自分の手を当てた。
「キモイというよりは、普通にイヤです」
ブッ!!
麻尾が下品にも吹き出した。そして、大笑いする。
「ヘェ、イヤなんだ?」
「だって、口内感染って割と危険ですから」
矢島は「そうじゃなくね?」と思った。
麻尾はまたも笑っている。
山霧は眉間に少しだけ皺を寄せていた。
「尚更拒絶してこねェことが気になるんだけど」
「だって、僕は貴方には逆らえない。それはここのルールの筈でしょう?」
「…あー?ナルホドね……」
「感情と行為は別物です。ルールがあるなら従う。そして、それを受諾したのは僕の意思です」
「あっそ。……なら、」
麻尾は山霧の肩を掴んで引き寄せた。
「何処まで来れるか、試してみるか?」
あの様な行為をするに至る心理的経緯は矢島にはわからないが、わかったことが一つだけある。
麻尾は『確かめたいことがある』と言っていた。
そして、それが明確になったのだろう。
しかし、あの表情は良くない。
槙に出会った時と同じ様な目をしている。
放っておけば、若しくは悠長にチャンスを伺っていたら、自分が壊す前に目の前のケダモノに壊されてしまうかも知れない。
「愚問です」
山霧は答えた。
─もっと強く。その欲求は間違いなく判断を誤らせた。
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