第四十八夜 姦淫
【Ⅰ】
「お前…何してんの?」
複雑な表情を取り繕おうとせずに、矢島は言った。
「引いた?」
「…」
引く、というよりもその行動の因果関係がわからない。
ー突拍子もなく何をしてる?
山霧がその行為を受け入れる云々以前に、奴はなにを確かめたかったのか。
山霧の顔から麻尾は自身の顔を遠ざけてはいるが、その顎には薬指と親指が掛かったままだ。
親指の腹を擦り付けるように山霧の唇の下を行ったり来たりしている。
顎が捉えられたままの当人と言えば、特段矢島が知らない顔をしているわけでもなく、視線だけを矢島に寄越していた。
矢島に奇異の視線で見られている麻尾は、山霧から視線を外さず、興味深く観察するようだった。
眼球だけが細かく動いている。
「…そうだよなぁ」
「え?」
「普通はそういう反応なんだよなぁ…」
真意が掴めず、矢島は聞き返した。
「…テメェはわかってるのか?
“男”にキスされたんだぜ」
山霧に語りかけているようだ。
「そうですね、…まぁ、よくあるのは異性で行われることですよね。
でも、だからといって、同性同士で行ったところで僕は…何も」
「…」
「先程、不快という表現をしたのは、そもそもその接吻という行為自体が僕にとってあまり好ましく無いからです。精神的にもたらす要因と、物理的にもたらす要因としては五分五分…といった感じなんでしょうかね?
恋人同士であれば精神的にはとてもプラスになるそうですが、物理的に考えれば細菌等々の感染経路になりますからね。時期的には夏場なのであまりオススメできないと僕は思ったまでです」
つまり、と山霧は続ける。
「同性…相手が“男”かどうかというのは僕にとっては然程問題にはならないんです。世間的には…まぁ…ナイーブな話題にはよくのぼることは承知ですが」
矢島は思った。
よくもまぁここまでこの行為について分解解釈が出来るものだ、と。
麻尾は理解できているのか?
矢島は麻生の様子をチラ、と伺った。
麻尾は、肩を揺らして笑っている。
「…そうだよなぁ、この程度じゃテメェの表情は早々崩れないだろうなぁ」
矢島は「え…」と眉を顰める。
「お前…」
「…」
「それだけの為にこんな…ことしたのか…?」
「“それだけ”…?
バカ言え、重要だろーが…」
俺なら絶対山霧の表情見たさにそんなことはしない。
…気持ち悪い。何考えてんだ。
矢島は頭をゆるゆると横に振った。
「殴っても蹴っても…喜ぶようなヤローだぜ?
…あー、テメェマジでイカれてるな?」
山霧の表情は変わらない。
ただ、視線は先は変わり、麻尾を観ていた。
矢島は山霧にとって最早この場で興味は無かった。
興味があるのはこの場で彼だけ。
何を己に試そうとしているのか…それが気になっている。
……どこまで、試されようとしているのか?
麻尾は、そんな視線を向けてくる山霧の肩を力任せに掴み引き寄せるとクラブのバーカウンターに居るバーテンに声をかけた。
「おい、…マネージャーはいるか?」
バーテンやや困った表情になる。
「すみません、『今は不在』でして…」
「…あー、めんどくせーな…コレで連れてこい」
麻尾は一枚のカードのようなものを渡す。
すると、バーテンの表情が一変した。
麻尾に対して軽く頭を下げたのち、インカムで何かを話す。
すると、数秒ほどで山霧の背後から甘い香りがした。
まるで蜂蜜のような…
「ハァーイ、この無礼者」
山霧が振り返ると、その甘い香りを裏付ける様な蜂蜜色をまとった明らかに日本人の血を感じられない外国人が立っていた。
癖も畝りも微塵も感じさせない錦糸のようなストレートのショートヘア。
長い睫毛にブルーの瞳、太陽の光を知らないかのような白く透き通った肌。
そして、人目を引くであろうその美貌とスタイル。
あの槇潮と同じくらいの身体的構造比率を持つ程の中々お目にかかれない美丈夫がそこには居た。
「まったく、これを出すなんてある種の職権乱用もイイトコね」
先程麻尾がバーテンに差し出したカードを指先で器用にもて遊び、その男は涼し気なブルーアイズを麻尾に向ける。
「部屋一つ寄越せ」
「…ちょっと。人と会話する気あるのかしら」
山霧は困惑した。
なぜ困惑しているのか…その理由が分かった。
ハッキリと性別がわからないのだ。
否、間違いなく男性だということは胸部の膨らみがないことと、声帯からは明確なのだが、纏う雰囲気がユニセックスで認識に時間を伴っていた。
普通、人は人を認識する際、〈性別〉、〈顔〉と認識するそうだが、その重要な要素が理解はできても酷く曖昧で、山霧は人並みに困惑していたと気がつく。
不可解だ、という表情がありありと出ていたのだろう、目の前の輝かしいばかりの色を全体的に帯びたその人は山霧を見て楽しそうに微笑む。
「あら?この仔犬ちゃんは貴方の?」
「…『仔犬』…」
仔犬と称されて首を傾げる山霧を見てその男は「カワイー!」ともじもじ腰を揺らす。
それを見た麻尾は気色悪いとでも言わんばかりに顔を顰めた。
「ふん、仔犬ね…そんなに可愛いもんじゃネェけどな」
「仔犬ってーよりタスマニアデビルかマングースだろう」
麻尾と矢島が口々に呟く。
タスマニアデビルもマングースもここぞという時にその見た目の可愛さを微塵にも感じさせない姿を見せることで有名だ。
タスマニアデビルは愛くるしい瞳を持ちながらも威嚇時の鳴き声はまさに悪魔の雄叫びのようだし、マングースに至っては有名な話でハブは勿論コブラも落とす程の脅威的な攻撃性を持ち合わせている。
我ながらいい例えか…と矢島は思うが、この場でそれを唯一理解できる筈の麻尾はそんな動物知識などある訳もなく、この的確な例えは矢島の独り言で終わってしまった。
ただ、麻尾の連れだと言う事を紐付けるものとして、この男にとっては的確な隠喩表現だったらしい。
「へぇ…まぁアンタたちが連れているから普通の人ではないのだろうけど。
で、そうそう、そんな仔犬ちゃんに自己紹介を」
わざとらしくお辞儀をして、長く美しい手を山霧に差し出した。
「私、このクラブ〈ReversE〉のマネージャー、神河と申します。
どうぞ宜しく」
いつの間にかその差し出された手には銀色のカードがあった。
筆記体のアルファベットが黒字にエンボスされている。
パッとは認識できないが、店名と、先程のラストネームと共にフルネームが綴られているのだろう。
しかし、『神河』か…と山霧は思った。
明らかに日本人ではない風貌のため、一瞬「おや」と思ったものの、直ぐに大したことでもないかと改める。
何かしらの産まれにより日本性が付くことは、今時殊更不思議な事でもないからだ。
カードを受け取ろうとして手が止まる。
「これは…僕に?」
一応問う。
神河はニッコリと人好きする顔で山霧を見つめた。
「ええ、仔犬ちゃん。それで、アナタのお名前は?」
「僕は………─っ」
山霧が名乗ろうとして、その口を麻尾が封じた。
「…早くしろ、『ギル』」
口を封じられたことにより、山霧の背中と麻尾の腹部が密着する。
麻尾の身体が忙しない。そして熱い。
──『ギル』?
神河の人好きするような笑顔が引き攣った。
「…フン。可愛くないわね。大体、大人を呼び捨てだなんて理沙の弟じゃなかったらぶん殴ってるわよ。
……って、これ以上焦らしたらお店の損害が出そうね。
いらっしゃい。案内するわ」
ところで、と神河は矢島を見た。
「アナタは?矢島さん」
部屋を利用するのかどうか、という話なのだろう。
矢島としては本来山霧を連れてくる、というだけの仕事だ。
ちら、と麻尾を伺った。
「コイツも連れて行く」
麻尾は矢島を指し示す。
矢島はため息をついた。
「では、三人分。お代はきっちり…と言いたいとこだけど。おいしくもないわね……」
どうやら神河は麻尾から金は取れないらしい。
先程麻尾の姉である理沙の名前が出ていたので何かしら姉と関係があるのかもしれないと山霧は思った。
【Ⅱ】
このクラブ、〈ReversE〉ではホテルの様に個室がある。
─が、『ある』というのは語弊があるかもしれない。
このクラブのある建物は、〈GRANZ HALT〉というアーバンホテルである。
都内一等地に聳えるホテルで、カンファレンスや懇親会、祝賀会等も行われるハイグレードランクのホテルだ。
超有名、とまでは行かないが、リゾートホテルや高級ホテルより利用しやすく、ビジネスツールとしてニーズが高い。
だが、この建物は地下フロアに秘密がある。
地上階とは異なり、地下フロアの室内利用は完全会員制。
表だった専用のエントランスもなく、数少ない入り口が此処〈ReversE〉のバーカウンター。
一階のリストランテからも行くことは可能であるが、ある条件下において会員証を提示することにより地下フロアへの入館が許可されるのである。
とまあ、その様な説明を神河からざっと移動中に説明され、案内された部屋は地下5階の一室。
「それではごゆっくり。
──またね?名前も知らない仔犬ちゃん」
扉が閉まった。
逃げ場は、ない。
「はー、…あのお喋りガイジンマジでうぜーな」
麻尾は頭部をガシガシ掻き回しながら、山霧の手を引きベッドに座るよう促した。
ベッドが2つ。
ツインルームである。
そのうちの一つに山霧は腰掛けた。
清潔感のある手触りについつい身体を横たえたくなるが、凡そ直ぐに眠りにつけるはずもないことは山霧にもわかりきっていた。
麻尾は山霧の目の前に立ち、見下ろした。
「テメェには一つ『暴力』ってのは認識されてるみたいだな」
この世界では、ランク付けされるある種定量的なパラメータ。
単位は恐らく、〈人数〉×〈対象のランク〉。
「けど、それだけじゃトップにはなれねぇ」
麻尾の口が弧を描く。
矢島はハッとした。
──まさか、それを今ここで…。
麻尾は山霧を蹴り倒す。
一瞬だった。
ドサッと音を立てて山霧の上半身がシーツに沈む。
「もっと知りてぇみたいだから、もう一つ教えてやる。
いや、『試して』やる」
麻尾の手が伸びた。
山霧の顎を掴んでそして言う。
「わかるだろ?
テメーがさっき『気持ち悪い』って言ってたコト」
矢島は逃げたくなった。
見たくない。そんなモノ。
何をしようとしてるのか、わかってしまったから。
勝手にやる分には構わないが、『何処まで来れるか試す』をこの自分の目の前でして欲しくない。
『愚問』と行った山霧も馬鹿だ。
その意味を文字通りに受け取っている。好奇心のままに。
何故なら、過去の自分と同じく“優等生”だから。
『何処まで来れるか試す』、というのは山霧を誘惑する言葉に過ぎない。“優等生”はそれに気がつかない。
文字通り試すのでは無い。麻尾は山霧を『試す』と云う甘言によってここへ引きずり込んだ。
誰よりも早く。
「もう一つ、相手をブチ壊す方法を」
誰もが望んでいる、〈夜叉〉の破壊を──誰よりも先に。
夜遊びデビュー 白檀 @HIRAGI
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