第十夜 予告
【Ⅰ】
矢嶋は家が嫌いだ。
寝に帰るだけの家は、矢嶋にとって世間一般で言う“家”の概念を失いつつある。
「─理沙さん?ああ.......今夜か.......別に良いけど。...........うん。何処にいる?」
麻尾が“夜叉”と思わしき人物と接触した、という話を聞いてから一週間が経つ。
夜、駅前に佇んでいるとポケットに入れていたスマホが振動して着信を知らせた。
出ると、“友達”からのお誘いだった。
家に帰りたくなくて、グズクズと外で煙草を吸っていた矢嶋にとって、それは断る理由など無い誘いであった。
(こういう時が一番、情けねぇなって思うわ)
誰かに拾ってもらうのを待つ自分。
何もかも一人でやってきたつもりなのに、こういう時だけ助けを求める自分。
指定の場所に向かう途中で思い出した。
確か、彼女は煙草が苦手だった気がする。
服についた匂いはどうしようもない。
ふー、と一度深く煙を味わうと、まだ少し長い煙草をケースにしまい、ガムを口に放り込んだ。
こういったマメな所は麻尾にはまず無い。
わりと雑で適当な男なのに、それでも上に立つ何かがある。
矢嶋自身、それを言葉で説明することは出来ないが、他人である“あの夜の人”でさえ麻尾のそういう部分を感じ取ったようだった。
...........と、思うのは麻尾の話の範疇でのみだが。
等と考え事をしていたら、視野が狭くなっていたらしい。
「ってーなどこ見て歩いてんだテメェ」
誰かにぶつかった。
「すみません」「こちらこそ」「よそ見をしてしまって」「ごめんなさいね」......
それで済む筈の話が、それで済まない相手だった。
黙って面を拝むと、矢嶋より視線はやや上の男。腕、腹、脚をみるとパワーみなぎる体格をしている。百八十を越える矢嶋の身長だが、それよりもデカい。
殴られたら無傷じゃすまねぇな、と見れば誰でもわかる事を考えた。
「すみません... 」
一応、謝るもののやはり意味はなかった。
余所見をしてぶつかったのは確かだし、相手がわざとぶつかったとしても見ていなかったのでわからない。
矢嶋が謝ったことで相手は自分が優位にあると錯覚したようだ。
「....フーン、兄ちゃん顔に傷一つねぇじゃん」
「綺麗な顔だなぁ」
「見ろよ、テメェがぶつかったせいでよぉ、腕が痛ぇんだわ」
「慰謝料払えや」
「痛い思いしたくねぇだろ?」
矢嶋のぶつかった大男の他に二人。
ゲーセンから出てきた辺り、その資金にでもしたいのだろう。
笑えるほどのテンプレートだ。
いや、寧ろ飽き飽きしていて笑えない。
それどころか、現代技術最新鋭のプラズマテレビを媒体に、攻略し尽くしたファミコンゲームを無理矢理接続して映しているのを見ているような感覚だ。
そして、どうやらそのゲームをやらなければならないらしい。
只何も答えること無く相手をぼんやり見ていると、とうとう痺れを切らしたようだ。
「なんとか言えや─」
殴られる、かと思えば胸ぐらを掴むようなモーションをかけてきた。
流石に怪我をさせるのは忍びないと思ったのか、はたまた矢嶋が攻撃を出来ない柔な男だとナメているのか....
いずれにしても、接触した時点で相手は喧嘩を売った人間として見なされる。
襟首を掴まれて、矢嶋は笑った。
「.....おい、何が可笑しい....」
「...........売られたものは、良い値で買い取るのがポリシーなんでね─」
「は?────!」
胸ぐらを掴んでいる腕を掴み返し、相手が避けられない状態にして素早く鳩尾に蹴りを叩き込んだ。
「昭和のチンピラかよ、ハッ、ダセェ」
胸ぐらを掴んだ大男は一瞬で地に伏せた。
苦しそうに咳き込んでいる。
当たり前だ。鳩尾にピンポイントで打撃を受けたのだから。
周りの二人も、まさか矢嶋がこのような攻撃に出るとは思わなかった様である。
その内の一人が慌てて何処かに電話をし始めた。
「─あ、もしもし、村田さんッスか?実は藤山さんが─」
『...........』
「?...........村田さん?」
矢嶋は舌打ちした。
(この俺の目の前で余所見して電話かよ。ナメテんじゃねぇ─)
そして、次の攻撃を仕掛けようとしたとき、聞きなれた声が聞こえた。
『...........ふぅん、これ、“村田”ってやつの持ち物なんだ?』
「...........ふぅん、これ、“村田”ってやつの持ち物なんだ?」
通話中のスマホからの音声と、空気を振動させる肉声。
「─元橋」
少なからず矢嶋は驚く。
「お前、なんでここに」
耳から自分のものではないスマホを外しながら元橋は答える。
「アイツが接触したって言うチームを片っ端からやって情報を集めてたんですけど、適当にかかってきた電話取ったら目の前に相手がいたんで。
矢嶋さんこそどうしたんすか」
“矢嶋”。
この名前を聞いて目の前の二人は驚愕した。
「っ...........おい、もしかして矢嶋って、あの〈鬼爪〉の......?」
矢嶋の恐ろしさをしらぬ奴はいない。
語尾が若干震えている。
名前は勝手に出歩く。しかし、顔まではなかなか認知されない。特徴は伝わっても。
だから、気が付かなかった。
喧嘩を売った相手がまさか、
「あんたら、わかったらこの人に絡むの止めな。
...........そこの豚みたいになりたくないならな」
元橋が地に伏せたままの男を蹴る。
男は意識を失っていた。
その事を見た二人は、矢嶋の一度の蹴りがどれ程重いものであるかを再認識し、
「...........っ、くそがっ」
脱兎のごとく消え失せた。
元橋は、持っていた他人のスマホを放り投げると矢嶋の方を向く。
「なんでおとなしく絡まれてたんすか....
名前出せば一発でどうにかなるでしょうに」
元橋は至極普通の疑問を問い掛けると、やや不機嫌そうに矢嶋は答えた。
「折角売られたから買ってやろうと思ったんだよ」
ムシャクシャしてた。
折角憂さ晴らしに遊ぼうとしていた。
「...........つーか、お前こそ何で」
しかし、たまたま絡まれた相手が連絡した先に元橋が居たとは。
「ああ......あいつらのチーム、“夜叉”に接触してたんですよ。どうせ聞いても口を割らないだろうし......まぁこういう手段で集めてましたが......」
元橋が指し示す方向に画面の割れた他人のスマホ。
「ろくな情報得られませんね。多分、時間稼ぎにもなってないですよ。“夜叉”にとってはさぞ物足りない獲物だったでしょう」
聞くに、屋上で話してから今日まで“夜叉”が接触した相手に片っ端から会っては情報収集をしていたらしい。
流石よく動く、と矢嶋は思う。
その行動が有効かは定かではないが。
「......あ」
「どうしました?」
「ヤベェ、待たせてる奴が居るんだわ」
携帯を開くのが億劫だが、一応確認。
案の定“友人”からの着信が何件か入っている。
「麻尾さんですか」
「お前に言う必要がない」
「......マァ、そうですね」
「じゃ、おやすみなさい」と去ろうとする元橋。しかし、
「まだ、ここにもいたんですね─面白い方が」
元橋の声でも、矢嶋の声でもない。
雑魚共が逃走した方向から声がした。
黒いコートに目深のフード。
細身の体型に、隙間から覗く金色の髪。
こんな身形、一人しかいない。
【Ⅱ】
「こんにちは......いえ、今晩は」
元橋と矢嶋は絶句する。
不意打ちだ、まさかこのタイミングで遭遇するとは。
“夜叉”は動かない。
矢嶋を見て、そのあと元橋を見る。
すると、目を僅かに動かした。
「.....貴方、以前お会いしましたね」
口許が隠れているが、笑みを浮かべているのがわかる。
「気を付けて、矢嶋さん....矢嶋さんの凄さは周知してますが、“夜叉”のスピードはマジで規格外です」
「...........らしい、な」
元橋は素早く耳打ちした。
視線は一時たりとも“夜叉”から反らさない。
矢嶋は考える。
東で現れた....だと.....?西にいるのではないのか.....だとすれば、ずっと東にいて、今の今まで息を潜めていたと言うのか...........?
その間、“夜叉”は独りでに話始めた。
「始めのうちはどんな方とでも楽しめましたが、最近は駄目です。飽き、というものが来てしまって....。ですが、久々に良い出逢いができました。
そこの格好良い方は…」
自意識過剰を掲げるわけではないが、明らかに〈夜叉〉は矢嶋に訊いている。
矢島と目が合うと、〈夜叉〉は一瞬目を細めた。
「あれ……以前、お会いしましたっけ?」
「ハァ……?そんなわけないだろ」
矢島は全く記憶にない。初対面だというのにあっている訳がない。それに、誰かと勘違いされていたのだとしたら、気分は非常に悪い。
「…?ですよね。
つかぬことをお伺いしました。それで、お名前は?」
〈夜叉〉の動きに注意を払ったまま矢嶋は答えた。
「...........矢嶋」
「ヤジマさんですか、すみませんがもう一つ伺っても良いですか?」
「ああ?」
「ヤジマさんは、アサオトオルさんを御存知ですか?」
─これは、もしかすると正体が暴けるんじゃないか。
矢嶋だけでなく、元橋もそう思っている筈だ。麻尾の名前を知っていることに驚きはしない。
この間の麻尾の話を聞かない限りは。
「麻尾のことをしってんのか?」
「........その答えはアサオさんを知っている様ですね」
仮にも東の上にいる自分にここまで食い込んでくるとは、ナメられたものだ。
拳を握り直した矢嶋のその心境を元橋は察知した。
「矢嶋さん....」
「心配すんな、いきなり仕掛けたりはしねぇーよ」
元橋が、矢嶋が耐えかねて“夜叉”に襲い掛かろうとするかもしれない、という心配をして耳打ちしたのは矢嶋にもわかっている。
事実、手が出そうだった自身を矢嶋は諫めた。
“夜叉”に出逢ったことですこし冷静さを欠いていたようだ。
矢嶋はふっ、と息を吐く。
「ていうか、お前名前名乗れ。こっちも答えたんだし。まずそこからだろ」
「申し訳ありませんが、“夜叉”としか答えられないのです」
「.....フェアじゃねーな」
それは、“夜叉”も理解しているようだ。
僅かに溜め息をついたのがわかる。
「僕が困るのは、貴方方に正体が暴かれることではなく、身辺に今してきていることが知られてしまうことです。今、貴方方に名乗ってバレない保証はありません」
すこし前からスマホのボイスレコーダーをオンにしておいて良かったと矢嶋は思った。
この短時間で物凄い情報量だ。
核心に、触れてみるか。
「お前の噂、中々だな」
「噂.....?」
「自覚無いのか?好き勝手暴れてるせいでお前は最早有名人だ。
只、その行動心理が読めない。お前、何したいんだ?」
「それは、色んな方に訊かれてます。その度にお答えしている筈なのですが」
「...........なんだと?」
「『今までしたことのない経験を得たい』んです。喧嘩などしたことがありませんから」
喧嘩を経験したことがない.......?
元橋も唖然としている。
嘘だろ、そんな奴がこんな化け物になるとでもいうのか.......?
矢嶋は二の句が告げない。
すると、矢嶋の
「実は、アサオさんに伝えたいことがあります。ですが、探しても合うことが叶わないのでアサオさんとお話が出来る方に伝えてほしいのです」
麻尾に伝えたい....ことだと?
これは、大分あの夜の話に出てきた人物と同一である線が濃厚になってきた。
今、無理矢理名前を聞くことは得策ではないだろう。
かなりの確率で、近日中に再び“夜叉”と遭遇できる可能性が生まれたのだから。
何も、無理に聞き出そうとして逃げられても困る。
矢嶋は下手に出た。
食いつく餌を用意し、釣糸を垂らす。
「アサオのことはよく知ってる。それも、会おうと思えば何時でも会えるくらいのな」
「本当ですか?何故そう言いきれるのですか?」
その釣糸にかかる餌に注意を引かれつつも、慎重に監察している山霧。
その釣糸を矢嶋は器用に揺らした。
新鮮で、生きた餌であると言うことを示す。
「ここの地区周辺で〈鬼爪〉というチームの話を聞けば良い。そうすりゃすぐにわかる。
麻尾に中々会えなくて困ってるんだろう?お前、運がいいぜ?麻尾に接触を図ってもらう人材としてこれ以上無い人間を捕まえたのだからな」
元橋もそう思う。
寧ろ、矢嶋以外では不可能に近い。
“夜叉”は笑った。
餌に食い付いた。
「...........よく考えれば誰であっても伝えてもらえるのなら問題はありません。
では、“三日後の二十一時に公園に来て下さい”と御伝えください。よろしくお願いしますね」
「万が一伝えなかったらどうする」
「どうも。...........ただ、アサオさんの代わりを探します」
が、餌全てに食いつくことはない。
“夜叉”は時計を確認して、「いけない」と呟くとすぐに姿を消した。
釣り針に引っ掛からない部位だけ器用に食いちぎって逃げたのだ。
しかし、その餌は甘美で美味だ。
その匂いにつられて何時でもまた見付けられるだろう。
矢嶋はボイスレコーダーを見てほくそ笑む。
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